第一次世界大戦 / 志願兵 / 徴兵制

1914年、英国では徴兵制がないのに若者たちが軍へ志願した。入隊を選んだ詩人、仲間と申し込んだサッカー選手、戦争を止めようとした人たち。人生の場面と当時の募集活動をたどり、なぜ「行く」が自然な選択になっていったのかを考える。

01 / 本文

1914年8月4日。英国がドイツとの戦争を始めた日、27歳の青年が兵士になることを申し出た。

ジークフリード・サスーンという、詩を書く青年だった。大学を途中でやめ、ふだんは狩りやゴルフを楽しんでいた。職業軍人ではない。軍へ入るよう命じられていたわけでもない。

それでも彼は、開戦当日に志願した。志願とは、命令される前に自分から軍へ入ることである。

私たちは、第一次世界大戦がその後どうなったかを知っている。何年も続く戦いで大勢の人が亡くなったことも、塹壕(ざんごう)と呼ばれる地面に掘った溝の中で兵士たちが暮らし、戦ったことも知っている。

だが、1914年8月のサスーンは、まだそれを知らない。彼は自分の暮らしを離れ、何が待つか分からない戦争へ行こうとした。

なぜ、行かなくてもよい人が、自分から行ったのだろう。

その問いを考えると、「戦争が好きだったから」「国に無理やり連れていかれたから」という二つの答えだけでは足りなくなる。

そもそも、1914年の英国では入隊を断れた

この戦争は、初めから「世界大戦」と呼ばれていたわけではない。

同じ年の6月、現在のボスニア・ヘルツェゴビナにあるサラエボという町で、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位を継ぐ予定だった人物が暗殺された。帝国は隣国セルビアに宣戦布告し、そこから国同士の対立が広がった。ドイツ軍が、戦争に加わらない立場を取っていたベルギーへ侵攻すると、英国も8月4日にドイツへ宣戦布告した。

当時の人々にとっては、「遠くの国同士で始まった危機」が、何日かのうちに自分の国の戦争になったのである。

ここで、一つだけ知っておきたい違いがある。

ドイツやフランスには、国が決めた年齢の男性を軍へ集める仕組みがあった。これが徴兵制である。戦争になると、すでに兵役を経験した人たちも呼び戻された。こうした大規模な呼び出しを動員という。

一方、1914年の英国は違った。すでに軍人だった人を除けば、新しく兵士を増やすために、まず志願者を募った。一般の男性に対し、「戦争が始まったから全員入隊せよ」という法律はまだなかった。

もちろん、家族や仕事を残して軍へ入る決断は簡単ではなかったはずだ。まして、誰も四年以上続く戦争の全体像を知らない。

それなのに募集所へ向かう人が続いた。英国議会の記録によれば、1915年1月までに100万人を超える男性が入隊し、1915年末までには250万人を超えた。

なぜそれほど集まったのか。まず、詩人でも政治家でもない人々の姿を見てみよう。

「一緒に行こう」が、入隊の理由になる

戦争が始まった年の暮れ、ロンドンのサッカーチーム、クラプトン・オリエントでは、主将フレッド・パーカーに続き、選手やクラブ職員およそ40人が軍に志願した。

彼らは、サッカー選手たちが参加した部隊に入った。別々に申し込むのではなく、同じ仲間として軍へ向かったのである。

当時の英国軍では、このように同じ町、同じ職場、同じ学校の友人がそろって入る部隊が作られた。「仲間の部隊」と呼ばれる仕組みだ。

軍の募集担当者には、顔なじみ同士なら一緒に志願しやすいという考えがあった。軍に入ってからも、すでにある仲間同士の結びつきを役立てられる。

考えてみれば、見知らぬ人ばかりの軍隊へ一人で入るのと、いつものチームの仲間と一緒に申し込むのとでは、気持ちは違う。

一緒なら心強いと思う人もいただろう。仲間が次々と志願したあと、一人だけ残ることに迷う人もいたかもしれない。ただし、クラブの選手一人ひとりが実際に何を考えたかは、この記録だけでは分からない。

確かに言えるのは、入隊を個人だけの決断にしない仕組みが、実際に用意されていたということだ。

英国陸軍博物館には、1914年、まだ軍服ではなく普段着を着たまま並ぶ新兵たちの写真も残っている。後の戦場写真とは違う、入隊したばかりの人々の姿である。

戦争へ行く人は、初めから特別な「戦争好き」だったとは限らない。昨日まで同じ職場で働き、同じ町を歩き、同じ球を追っていた人でもあった。

それでも、本当に戦争へ行きたかった若者がいた

仲間と行く人がいた一方、戦争そのものに強く引かれた若者もいた。

ドイツのエルンスト・ユンガーは、その一人として考えやすい。

1913年、18歳のユンガーは家を離れ、フランスの外人部隊へ入った。外人部隊とは、フランス国籍でない人も入隊できる軍の部隊のことだ。父親が働きかけたため約6週間で帰国したが、翌1914年、第一次世界大戦が始まると今度はドイツ軍へ志願した。19歳だった。

彼の行動を見ると、ただ周囲に言われるまま軍に入ったとは考えにくい。戦争より前から、家や学校での暮らしの外へ出ようとしていたからだ。

もちろん、若者が冒険を望むことと、実際の戦争で人を殺したり殺されたりすることは、同じではない。ユンガーも前線で何度も負傷する。それでも戦後、体験を書いた『鋼鉄の嵐』を発表し、戦争を単に無意味だったと片づけなかった。

彼のような人を、当時のドイツの若者全体の代表にしてはいけない。けれど、戦争へ積極的に向かった人が実在したことも、消してはいけない。

1920年ごろ、軍服を着て勲章をつけた若いエルンスト・ユンガー
1920年ごろのユンガー。撮影:マグヌス・メルク。画像の出典と利用条件(著作権保護期間終了)。

英国の詩人ルパート・ブルックも、1914年に自ら軍へ入った。ただし、彼が求めたものはユンガーと同じではない。

ブルックは大学で学び、文学者たちと交わり、海外旅行もしていた青年だった。開戦後、海軍の志願兵部隊に加わる。そして1914年の終わりごろ、戦争についての詩を書く。

その詩の一つ『平和』では、戦争によって若者が眠りから目を覚ましたように描かれる。古く疲れた日常から抜け出し、自分たちの若さに意味が与えられたという感覚である。別の詩『兵士』では、異国で死んでも、祖国との結びつきは失われないと表現した。

私たちは戦争と聞くと、まず死傷者を思い浮かべる。だが、ブルックの詩には、当時の本人が戦争に見いだした希望が残っている。

彼は1915年4月、遠征の途中で感染症にかかり、27歳で亡くなった。後に続く長い塹壕戦を生き抜いて、それを振り返った人ではない。

戦争に行く前の期待と、戦争を経験したあとの考えは、同じとは限らない。

頬に手を添えて座る詩人ルパート・ブルックの肖像写真
ルパート・ブルック。英国政府・帝国戦争博物館の資料。画像の出典と利用条件(著作権保護期間終了)。

「行くべきだ」は、法律より先に町へ広がった

戦争が始まると、英国では兵士を募集するポスターが次々に作られた。

1915年3月の一枚には、窓辺に立つ二人の女性と子どもが描かれている。窓の外では、兵士たちが行進している。その絵に添えられた言葉は、「英国の女性たちは『行って!』と言っている」。

これは当時の英語の文句を日本語にしたものだ。ポスターを見た人に、「家にいる女性たちも、男性が戦場へ行くことを求めている」と感じさせる作りになっている。

女性二人と子どもが、行進する兵士を窓から見送る1915年の英国の募集ポスター。見出しの英語は「英国の女性たちは『行って!』と言っている」という意味
1915年の英国の兵士募集ポスター。「英国の女性たちは『行って!』と言っている」と書かれている。作者:エドガー・キーリー。画像修復:アダム・キュアデン。原資料と利用条件(英国政府制作物、著作権保護期間終了)。

この言葉には、兵士にならない男性を直接罰する力はない。けれど、自分が大切にしている人から「行くべきだ」と見られているように感じさせる力はある。

政府だけが、そうした空気を作ったのではなかった。

エメリン・パンクハーストは、女性にも選挙で投票する権利を与えるよう求め、長く英国政府と対立していた。彼女が率いた運動では、抗議のために窓ガラスを割る活動も行われ、彼女自身も何度も逮捕された。

ところが1914年、戦争が始まると、パンクハーストはそれまでの激しい抗議活動をいったん止め、政府に協力して戦争を支える側へ回った。

女性に投票権を与えない政府を批判してきた人が、今度はその政府とともに戦争を支えたのである。彼女は、戦争が始まった状況ではドイツに勝つことを優先すると判断した。

なお、先ほどのポスターをパンクハースト自身が作ったわけではない。政府側の募集組織が制作したものだ。ポスターが何人を入隊させたかも、これだけでは分からない。

それでも、ここには見落とせないことがある。軍へ行くことを「立派な行動」だと伝えるのは、軍人や政府だけではない。 ふだんは政府を批判する政治運動でさえ、戦争が始まれば人々の判断に働きかける側へ回ることがあった。

その社会にも、「行かない」と言う人がいた

しかし、どの国でも全員が戦争を歓迎したわけではない。

ドイツでは開戦直前まで反戦の集会が開かれていた。フランスでも、戦争を防ごうとする活動が続いていた。

フランスの政治家ジャン・ジョレスは、働く人々の権利を重視し、国を越えて協力すれば戦争を止められるのではないかと考えていた。1914年7月末にも反戦を訴えていたが、7月31日、パリの飲食店で、戦争を支持する男に射殺された。

翌8月1日にはフランスで大規模な動員が告示され、2日から実際に人々が呼び出された。ただし、ジョレスが殺されたから動員が始まったわけではない。二つの出来事は、別々に進んでいた大きな危機の中で続けて起きた。

ここで大事なのは、戦争反対の声が確かにあったのに、その数日後には大勢の人が軍へ向かったということだ。

戦争が始まる前には「戦争を起こすべきか」が問題だった。いったん国が戦争に入れば、「攻め込まれるかもしれない国をどう守るか」という問いも迫ってくる。

反戦だった人が全員、急に戦争好きになったわけではない。状況が変わると、何を選ぶかという問題も変わってしまう。

一方、英国では戦争が始まったあとも、政府の方針に反対し続けた人々がいる。

フェナー・ブロックウェイは、当時、新聞の編集に携わっていた。1914年11月、彼は仲間とともに、将来もし徴兵制が始まっても兵士になることを拒む人を支える団体を作った。

まだ英国には徴兵制がない。にもかかわらず、「法律で行けと言われても行かない人」を支える準備を始めたのである。

バートランド・ラッセルも戦争に反対した。大学で教えていた哲学者で、英国が戦争に加わることに反対し、のちに兵役を拒否する人々を支援した。1916年にはその活動に関わる文書のために罰金を科され、大学での職も失う。1918年には別の反戦文章を理由に投獄された。ラッセル自身が徴兵を拒否して投獄された、という話ではない。

ブロックウェイは実際に兵役を拒んで投獄された。

こうした人々の存在を見ると、志願者が多かったことだけで「誰も反対しなかった」とは言えない。社会には、違う考えが残り続けていた。

1916年、英国はついに徴兵制を始めた

英国政府は当初、志願者を集めることで戦争を続けようとした。

だが、戦いが長引くほど死傷者が増え、新しい兵士が必要になった。募集だけでは足りなくなり、1916年1月、一定の年齢の独身男性に軍務を義務づける法律が成立した。同じ年の5月には、結婚している男性にも対象が広がった。

つまり、英国では最初に志願兵が大勢集まり、それでも足りなくなってから徴兵制が導入されたのである。

ただし、「みんなが入隊に賛成したから、徴兵制もすんなり受け入れられた」という話ではない。

1916年4月にはロンドンで20万人を超える規模の徴兵反対デモがあったと、英国議会の資料は伝えている。法律には、宗教や信念などの理由から戦争に加わることを拒む人のための例外も設けられた。だが、例外が認められずに投獄された人も少なくなかった。

志願した人が多い社会でも、強制に反対する人はいた。

法律の力と、人々が自分から行こうとする気持ちは別のものだ。どちらか一つで戦争への参加が説明できるわけではない。

そしてサスーンは、三年後に別の答えを出す

もう一度、冒頭の青年へ戻ろう。

開戦当日に入隊したサスーンは、その後、戦場で危険な任務を果たし、1916年には勇敢な行動をたたえる勲章を受けた。

しかし、身近な人を失い、戦闘を経験する中で、戦争の続け方に疑問を強めていった。そして1917年、軍の命令に逆らう覚悟で声明を書いた。

そこでは、自分が当初は国を守るために始まった戦争だと信じていたこと、しかし、いまは戦争が不当に長引かされていると考えることを訴えた。

彼は最初から戦争に反対していたわけではない。戦う勇気がなくなったから抗議した、とも言い切れない。抗議のあと、再び軍務にも戻っている。

ここには、1914年の志願を考えるための大切な手がかりがある。

そのとき本人が正しいと思った選択でも、経験を重ねれば意味が変わる。後から悲惨な結末を知った私たちが、「そんな戦争に自分から行くはずがない」と思うだけでは、1914年の本人の気持ちに近づけない。

「なぜ行くのか」より「なぜ行かないのか」

1914年の若者たちが戦争へ行った理由は、一つではなかった。

ユンガーのように、日常の外へ出ることに引かれた人がいた。ブルックのように、戦争に大きな意味を見いだした人がいた。サッカー選手たちのように、仲間とともに入隊した人もいた。

一方で、戦争を止めようとしたジョレスがいた。徴兵に反対したブロックウェイやラッセルもいた。戦争を支える側へ立場を変えたパンクハーストもいた。

同じ時代の人々が、同じ気持ちだったわけではない。

それでも、ある町や職場では、仲間が次々に名前を書き、ポスターが背中を押し、家族や周囲の目が決断に影響する。そうなると、一人で入隊を決めるときとは違った問いが生まれる。

「なぜ戦争へ行くのか」ではなく、「みんなが行くのに、自分はなぜ残るのか」。

これは当時の国民全員がそう考えた、という意味ではない。資料が示すのは、少なくとも一部の人々にとって、戦争へ行くことが周囲から期待される選択になっていったということだ。

そして、誰もが熱狂していなくても、志願者が集まり、軍は大きくなっていった。やがて英国では、法律による徴兵も始まった。ただし、その法律にも強い反対があった。

戦争へ行く人を「騙された人」と決めつけることも、行かなかった人を「臆病な人」と決めつけることもできない。

1914年を知るうえで大切なのは、戦争へ向かうという同じ行動の中に、冒険、希望、責任、仲間とのつながり、他人の視線、そして拒むことへの不安まで、違う理由が重なっていたと考えることだろう。

では、そんな気持ちで出発した人々は、実際の戦場で何を見て、その経験をどう受け止めたのか。

それは、出発した理由とは別に考えなければならない、もう一つの問いである。

出典と調査

02 / 人物

この問いを受け渡した人物

理論だけではなく、その問いを引き受けた人の生涯へ。

なぜ若者は戦争へ行ったのか?――1914年、「行く」が普通になるまでをめぐる人物

Hegelroom1858–1928 / 女性参政権運動

エメリン・パンクハースト|女性参政権を求めて闘い、晩年に政治の道を変えた運動家

Emmeline Pankhurst

議会へ届くために法を破り、晩年には議会へ入る側を目指した。

03 / さらに読む

このテーマをもう少し読む

人物の流れをつかんだあとに、この問いをもう少し深くたどりたい人へ。

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