ストア派 / 自由意志 / 自己効力感 / 自己啓発

努力は人生の結果を保証しない。それでも、習慣、能力、人間関係、環境への働きかけによって、次に選べる手を増やせることはある。エピクテトスからウィリアム・ジェームズ、バンデューラ、コヴィー、メル・ロビンズまで、人間は『自分の力がどこまで届くのか』をどう考えてきたのかをたどる。

01 / 本文

「努力すれば変わる」と「何をしても変わらない」のあいだ

「努力すれば人生は変えられる」。

励まされる言葉である。

仕事がうまくいかないなら、もっと学べばいい。人間関係が苦しいなら、伝え方を変えればいい。今の自分が嫌なら、習慣を変えればいい。動かなければ何も始まらないのだから、たしかにそういう場面はある。

けれど、この言葉はときどき残酷でもある。

落ちた試験。選ばれなかった採用。離れていった相手。治らなかった病気。うまくいかなかった事業。努力したのに結果が変わらなかったとき、「もっと努力できたはずだ」と考え始めれば、結果だけでなく失敗の責任まで全部自分の側へ引き取ることになる。

反対に、「人生なんて運と環境で決まる」と考えれば、今度は自分から動く理由がなくなる。

では、どちらなのだろう。

努力すれば人生は変えられるのか。それとも、人生には自分ではどうにもならない部分の方が多いのか。

先にこの記事の答えを言えば、こうなる。

努力は、望んだ結果を選ぶ力ではない。けれど、次に選べる手を増やす力にはなりうる。

その違いを考えるために、約2000年前の哲学者から2020年代の自己啓発までをたどってみたい。

ただし、ここで登場する人物が一本の思想を順番に受け継いだ、と言いたいわけではない。直接の影響関係が確認できるところと、別の時代に似た問いが現れたところは分ける。

見たいのは、ひとつの問いである。

人間は、自分の人生のどこまでに手を届かせることができるのか。

努力が届く範囲を、自分で選べる行為、働きかけられる領域、結果までは決められない領域の三つに分けた図
努力を「できる/できない」の二択にせず、次の行為・働きかけ・最終結果の三層に分けて考える。

エピクテトスは、努力する前に境界線を引いた

この問いを、驚くほどはっきりした形で始めた人物がいる。

1世紀から2世紀に生きたストア派の哲学者、エピクテトスである。

1605年刊のセネカ著作集タイトルページから切り出されたエピクテトス像
エピクテトス像。Theodoor Galle(Peter Paul Rubensによる原画)/ Wikimedia Commons / Public domain.

彼の『エンケイリディオン』は、冒頭から世界を二つに分ける。

自分に属するものと、自分に属さないもの。

前者に置かれるのは、判断、選択、欲求、回避、自分の行為である。後者には、身体、財産、評判、地位などが置かれる。

ここで注意したいのは、現代語の「コントロールできる/できない」と完全に同じではないことだ。

たとえば身体は、運動や治療によってある程度は変えられる。それでも病気、老化、事故、死まで意志の命令に従わせることはできない。評判も、自分の振る舞いによって影響はできるが、最後に他人が何を思うかまでは決められない。

エピクテトスが強く切り分けたのは、結果として自分の所有物にできるものと、自分が引き受けるべき判断や行為だった。

だから、この思想は「何もしなくていい」という諦めではない。

むしろ逆である。

自分の力が届かない結果を握りしめるのをやめ、そのぶん、自分の判断と行為には責任を持つ。

努力の量を増やす前に、努力する場所を選ぶ。

その考えが、哲学の教室だけで終わらなかった例がある。

1965年、アメリカ海軍のパイロットだったジェームズ・ストックデールは、北ベトナム上空で撃墜され、捕虜になった。彼はその前からエピクテトスを読んでいた。自由、移動、食事、身体の安全。外側の条件のほとんどを自分で決められない場所に落ちたとき、その区別を現実の判断に使うことになる。

白い礼装を着たジェームズ・ストックデールの公式肖像
ジェームズ・ストックデール。U.S. Navy file photo / Wikimedia Commons / Public domain.

ストックデールは解放の日を選べなかった。拷問されるかどうかも選べなかった。

それでも、捕虜同士の連絡方法をつくること、耐えられる限界を踏まえて行動基準を組み立てること、自分が指揮官としてどう振る舞うかは考えられた。

これは重要な違いである。

状況を支配できないことと、その状況の中で何もできないことは同じではない。

「努力すれば何でも変わる」という考えは、ここでは成立しない。

しかし「変えられない状況では努力しても無意味だ」という考えも、成立しない。

ウィリアム・ジェームズは、自由意志を生活の問題にした

19世紀後半、問いは哲学から心理学へ近づいていく。

ウィリアム・ジェームズは、若いころから順調に進路を決めた人物ではなかった。

画家を志したあと科学へ移り、医学を学んだ。しかし医師として開業せず、20代後半には身体的不調や強い不安を抱え、職業も定まっていなかった。

1870年、28歳のジェームズは、フランスの哲学者シャルル・ルヌーヴィエの自由意志論を読んだあと、自分の日記に、自由を信じることそのものを自分の最初の自由な行為として扱ってみようと書いた。

この出来事を、「考え方を変えたら病気も人生も解決した」という成功物語にしてはいけない。ジェームズの健康問題はその後も続いた。

ただ、この時期から彼が、自由意志を抽象的な哲学問題だけではなく、自分は次に何へ注意を向け、どう行為するのかという生活上の問題として考えていたことは分かる。

1890年の『心理学原理』で、ジェームズは習慣、注意、意志を詳しく論じた。

繰り返した行動は、やがて意識的な努力をそれほど必要としなくなる。反対に、注意を何度も戻し、ある行為を繰り返すことで、行動の道筋そのものが変わっていく。

面白いのは、ジェームズ自身が心理学によって自由意志問題を最終解決したとは考えなかったことである。人が本当に形而上学的な意味で自由なのかは、心理学だけでは決着しない。

それでも、日常には努力の置き場所がある。

注意を戻す。習慣をつくる。目の前の行動を変える。

世界を直接支配するのではなく、自分が次にすることの確率を変えていく。

ここで「努力」の意味が少し変わる。

努力とは、願った結果を強く念じることではない。

行為を繰り返し、次の行為が起こりやすい条件を自分の中につくることでもある。

バンデューラは、「環境か、本人か」という二択を壊した

それでも疑問は残る。

本人がいくら努力しても、環境が悪ければ変われないのではないか。

20世紀の心理学者アルバート・バンデューラは、この問題を考えるうえで重要な位置にいる。

2005年に撮影されたアルバート・バンデューラの肖像
アルバート・バンデューラ、2005年。[email protected] / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0.

ボボ人形実験として知られる1961年の研究では、子どもたちが、大人が大きな人形を殴ったり蹴ったりする様子を見た。その大人がいなくなったあと、同じ人形のある部屋に入ると、攻撃的な大人を見た子どもたちは、見ていない子どもたちよりも、そこで見た特徴的な行動を多く再現した。

この研究が示したのは、「人は自分で試して報酬を受けなければ学べない」という単純な見方では説明できない学習がある、ということだった。

人は、周囲の人が何をしているかを見て学ぶ。

つまり、家庭、学校、職場、友人、メディアなど、どんな環境にいるかは人の行動に影響する。本人の意志だけを見ていても、人がなぜその行動をするのかは分からない。

では、人は環境に動かされるだけなのか。

この問いが、1970年代の別の研究でさらに具体的になる。

バンデューラたちは、蛇に強い恐怖を持つ人たちが、その恐怖をどう乗り越えていくかを研究した。

最初は蛇のいる場所へ近づくことさえ難しい。そこで、いきなり「怖がらずに触ってください」と求めるのではない。支援を受けながら、段階を踏んで近づく。近くで見る。触れる距離まで行く。実際に扱ってみる。

小さな「できた」を積み重ねていく。

そこでバンデューラが注目したのは、恐怖が弱まることだけではなかった。

「自分には、この行動を実行できる」という見込みそのものが変わっていく。

1977年、彼はこの見込みを自己効力感(self-efficacy)として体系化した。

自己効力感は、漠然とした自信や「自分なら何でもできる」という気分ではない。

「この蛇に近づけるだろうか」「この課題を最後までできるだろうか」という、具体的な行動についての見込みである。

そして、その見込みは行動と切り離されていない。

「できそうだ」と思えるようになれば、次の一歩を試しやすくなる。実際にできれば、さらに難しい一歩を試せる。その経験が、また「できるかもしれない」という見込みを変える。

ここには、単なる精神論とは違う循環がある。

行動する。少しできる。できることが増える。すると、次に取れる行動が変わる。

この考えをさらに広げて、バンデューラは、人、行動、環境は一方向ではなく互いに影響し合うと考えた。

環境は人に影響する。

しかし、人が行動すれば、周囲の反応や自分が置かれる状況も変わることがある。

変わった状況の中では、以前には取れなかった次の行動が可能になることもある。

だから彼の考えは、「努力すれば人生を好きな形にできる」という話ではない。

努力が直接結果を決めるのではなく、行動できる範囲や、その次に選べる手を変えていくことがある。

今回の問いにとって重要なのは、そこだ。

コヴィーは、「変えられるもの」を輪として描いた

エピクテトスの二分法から約1800年後、まったく別の文脈で、似た境界線を仕事と自己管理の言葉へ置き換えた人物がいる。

スティーブン・R・コヴィーである。

『7つの習慣』で知られる「関心の輪」と「影響の輪」は、この問題を考えるうえで便利な区別になっている。

私たちは、気になることを大量に持っている。

景気。会社の方針。上司の評価。家族の将来。政治。世間の評判。他人の感情。

それらは全部「関心」には入る。

しかし、同じだけ自分が動かせるわけではない。

そこでコヴィーは、自分が何らかの働きかけをできる「影響の輪」へ時間とエネルギーを戻すように考えた。

ここで、古代の問いに一つ新しい要素が加わる。

自分で決められるものと、まったく決められないものの間には、「影響はできるが、結果は決められない」という広い領域がある。

転職を例にすると分かりやすい。

採用担当者が自分を選ぶかどうかは決められない。

けれど、応募先を調べること、技能を身につけること、作品を作ること、面接の準備をすること、紹介してくれる人との関係を築くことはできる。

それらを積み重ねても、不採用になることはある。

それでも、技能や作品や人間関係まで消えるわけではない。次の応募で使えるかもしれないし、別の仕事へつながるかもしれない。

コヴィーの考え方では、影響できるところへ働きかけることで、影響の範囲そのものが広がることがある。

これは「努力すれば結果を手に入れられる」という話ではない。

努力によって、次に働きかけられる範囲が広がることがあるという話である。

メル・ロビンズは、他人を変える努力をやめさせた

2020年代、この問題はさらに日常的な言葉になる。

メル・ロビンズの「Let Them」は、哲学理論でも心理学の学術理論でもない。人間関係で消耗したときに使う自己啓発の道具である。

友人が誘ってくれない。

相手が自分を理解してくれない。

家族が望んだ通りに動かない。

誰かが自分を評価しない。

そんなとき、相手を説得し、機嫌を取り、理解させ、変えようとすることに大量の時間を使ってしまう。

そこで「Let Them」と言う。

相手がそうするなら、そうさせる。

ただし、ここで終わると単なる放置になる。

ロビンズが後に強調する二段目が「Let Me」である。

相手がどうするかではなく、では自分はどうするのかへ注意を戻す。

距離を取るのか。話すのか。境界線を引くのか。別の人を選ぶのか。自分の仕事へ戻るのか。

この考えも、「何をされても受け入れろ」という意味ではない。ロビンズ自身、危険な行為、差別、自分の権利を守る必要がある場面では、ただ放置する考えではないと説明している。

興味深いのは、ここでも境界が三つに分かれることである。

他人が何を思うかは決められない。

自分が次にどう反応するかには選べる部分がある。

そして、自分の反応によって、その関係を続ける条件や距離を変えることはできる。

2000年前のストア派と同じ思想だ、と言う必要はない。

ただ、人間が「自分の力はどこまで届くのか」と迷ったとき、似た境界線が何度も引き直されてきたことは見えてくる。

エピクテトス、ストックデール、ウィリアム・ジェームズ、バンデューラ、コヴィー、メル・ロビンズが記事内で担う役割を示した図
一本の思想継承史ではない。それぞれの人物が「自分の力はどこまで届くのか」という問いを、別の場所から動かしてきた。

努力が人生を変えるのは、「結果」ではなく途中に働くからだ

ここまでを並べると、「努力」という言葉の中に別々のものが入っていることが分かる。

一つ目は、自分の行為を変える努力である。

今日勉強する。応募する。練習する。謝る。断る。病院へ行く。寝る時間を変える。

これは比較的、自分の側に置きやすい。

二つ目は、環境や他人へ働きかける努力である。

提案する。交渉する。信頼を積む。制度を変える。仲間を集める。市場へ商品を出す。

ここでは、自分の行為は選べても、相手の反応までは選べない。

三つ目は、結果そのものを手に入れようとすることである。

合格する。採用される。愛される。売れる。治る。評価される。

これらは努力と無関係ではない。しかし努力だけでは決まらない。

この三つを混ぜると、「あれだけ努力したのだから、結果を受け取る権利がある」という感覚が生まれる。

しかし現実には、努力は結果と交換できる通貨ではない。

では、なぜ努力するのか。

途中にある条件を変えられるからだ。

技能が上がる。

習慣が変わる。

知っている人が増える。

信用が積み上がる。

自分にできる仕事が増える。

失敗したときに、別の道へ移るための材料が残る。

努力が人生を変えるとき、それは「望んだ一つの結果を必ず取る」という形より、次の選択肢が以前とは違っているという形で現れることが多い。

努力で変えられないものまで、自分の責任にしない

ここは、この話のいちばん重要なところかもしれない。

「努力は意味がある」と言うことと、「結果は本人の努力で決まる」と言うことは違う。

生まれた家庭。時代。病気。災害。差別。景気。偶然の出会い。他人の選択。

本人が選んでいない条件は、人生の中へ大量に入ってくる。

バンデューラでさえ、人を環境から切り離して考えなかった。むしろ、人は環境から影響を受け、その環境へ働き返し、また影響を受ける存在として考えた。

エピクテトスも、身体や地位や評判まで自分の意志の所有物だとはしなかった。

だから、この2000年の問いから導けるのは、「もっと頑張れ」という結論ではない。

むしろ、自分が苦しんでいる問題を見たとき、三つを区別することである。

自分で次の行為を選べるもの。

働きかけることで、動く可能性があるもの。

どれだけ努力しても、最後の結果までは決められないもの。

三つ目まで自分の責任にすると、人は壊れる。

一つ目と二つ目まで全部「どうせ無理」と手放すと、人は動けなくなる。

必要なのは、楽観でも悲観でもなく、境界線を見誤らないことなのだと思う。

「努力すれば人生は変えられる」は、どこまで本当なのか?

では、最初の問いへ戻ろう。

「努力すれば人生は変えられる」は、本当なのか。

努力すれば、望んだ結果を手に入れられる。

そういう意味なら、本当ではない。

努力しても落ちることはある。離れていく人はいる。治らない病気もある。時代や環境によって、そもそも開かれない道もある。

しかし、

努力しても何も変わらない。

これも本当ではない。

注意の向け方が変わる。習慣が変わる。技能が増える。人との関係が変わる。環境へ働きかけられる範囲が変わる。失敗したあとに残るものが変わる。

そして、それらが次の選択肢を変える。

エピクテトスは、自分のものではない結果を握りしめるなと考えた。

ジェームズは、注意と習慣の中に意志の仕事を見た。

バンデューラは、人が環境に作られながら、環境へ働き返すこともできると考えた。

コヴィーは、その働きかけられる範囲を「影響の輪」として描いた。

メル・ロビンズは、他人を変えることへ向いていた注意を、自分の次の反応へ戻した。

時代も目的も違う。

それでも、ここから一つだけ言えることがある。

努力のいちばん確かな仕事は、人生の結果を支配することではない。次に選べる手を増やすことだ。

いま抱えている問題について、すぐ「もっと頑張るべきか」「諦めるべきか」と考えなくてもいい。

その前に、問いを三つに分けてみる。

自分は、次に何を選べるのか。

何には、働きかける余地があるのか。

そして、何の結果までは自分のものにできないのか。

02 / 人物

この問いを受け渡した人物

理論だけではなく、その問いを引き受けた人の生涯へ。

03 / さらに読む

このテーマをもう少し読む

人物の流れをつかんだあとに、この問いをもう少し深くたどりたい人へ。

本完訳7つの習慣 : 人格主義の回復

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