一人の人生を読む
議会へ向かう道で
1908年2月13日、ロンドン。エメリン・パンクハースト(Emmeline Pankhurst)は、女性たちとキャクストン・ホールから議会へ向かった。その日の国王の演説で女性参政権が取り上げられないと知り、集会で決めた要求を届けようとしたのである。しかし議会へ向かう途中、ヴィクトリア通りで警察官の職務を妨げたとして逮捕された。翌日には禁錮6週間を言い渡された。
この年、エメリンは50歳を迎えようとしていた。それまでに結婚して5人の子を産み、貧しい人々に関わる地方行政の仕事に就き、夫に先立たれていた。そうした生活と政治活動を重ね、議会に女性たちの要求を聞かせる方法を変えようとしていた。
やがて彼女が率いる同盟は窓ガラスや郵便物を壊す抗議へ進み、逮捕された女性たちは刑務所で食事を拒んだ。エメリンはそれらの行動を擁護し、政府と対立し続ける。だが同じ政治活動をしてきた娘たちとも道を分かち、戦争の始まりを機に、今度は政府を支える側に回ることになる。
母と出かけた参政権の集会
エメリンは1858年、イングランド北西部のマンチェスターに生まれた。家族は政治や社会問題に関心を持ち、娘も幼くして女性参政権の話を聞いて育った。本人は1914年刊の自伝『私自身の物語』(My Own Story、邦訳未刊・仮訳)で、兄弟の教育は将来に関わる重大事として話し合われたのに、自分や姉妹の教育はそれほど重く扱われなかったと振り返っている。
14歳のころ、学校から帰る途中で参政権の集会へ出かけようとする母に会い、一緒に行った。そこで演説したのは、マンチェスターで女性の投票権を訴えていたリディア・ベッカー(Lydia Becker)だった。エメリンはこの集会を、自らの考えがはっきりした経験として回想している。少女のころから政治へ通じる入り口が、家の中にも街の中にもあった。
1879年、21歳でリチャード・パンクハースト(Richard Pankhurst)と結婚した。夫は法律家であり、女性の法的地位や参政権の改革を支持する政治活動家でもあった。二人は家庭を持ちながら社会改良に関わった。クリスタベル、シルヴィア、アデラという3人の娘と2人の息子が生まれたが、息子たちは早くに亡くなった。
1894年、エメリンはマンチェスターのオープンショーで、当時の救貧制度を運営する地方役員に選ばれた。仕事で接したのは、働いても生活が苦しく、制度の中で扱われる女性や子どもたちだった。女性が投票できないことは、生活に関わる法律や行政を決める政治に、女性自身の意思が届きにくいことでもあった。
1898年、リチャードが亡くなった。家計には収入が必要になり、エメリンは出生と死亡を登録する仕事などに就いた。夫とともに政治活動をする立場から、働いて家族の暮らしを支える立場へも移った。貧困に対する行政の仕組みを見てきた彼女にとって、貧困や生活の困難は、役所の仕事でも家計でも向き合わざるをえない問題だった。
母と娘がつくった、新しい同盟
1903年、エメリンはマンチェスターで女性社会政治同盟(Women’s Social and Political Union、略称WSPU)を結成した。これまでの請願や議員への働きかけでは政治が動かない。そこで、女性たち自身がもっと目に見える形で抗議し、政府の対応を迫ろうとした。
同盟の中心には長女クリスタベル・パンクハースト(Christabel Pankhurst)がいた。エメリンと並んで、クリスタベル自身も演説や戦術の立案を担った。母娘は、家庭で共有してきた政治を全国規模の運動へ変えていった。
同じ女性参政権運動にも、異なる方法があった。ミリセント・フォーセット(Millicent Fawcett)が率いた全国女性参政権協会連合は、合法的な請願と説得を重んじた。エメリンの同盟は「言葉より行動」を掲げ、議員への妨害的な質問、街頭での行進、逮捕されることも辞さない抗議へ進む。誰もが同じ戦術を支持したわけではない。
1908年2月の逮捕は、その方法が人目を引くようになった一つの場面だった。逮捕は彼女の活動を終わらせなかった。運動側は集会と行進を繰り返し、議会が女性たちを門前で退ける光景もまた人々の目にさらされることになった。
窓ガラスと、閉ざされた監獄
政府が要求を受け入れない中、同盟の一部の行動はさらに激しくなった。1912年には、ロンドンの商店などの窓ガラスを割る組織的な抗議が行われた。エメリンは後年の自伝で、郵便ポストに入った手紙を傷つける作戦についても、政府を動かすため財産を標的にするのだと説明している。投票権のない女性たちが、政治に影響を与えるために物的損害を選んだのである。
窓を割られた商店や郵便物を傷つけられた人々もいた。エメリンがそれらの破壊行為を一つ一つ実行したわけではない。それでも彼女は財産を標的にする方針を擁護し、その同盟を率いた。
抗議の現場から刑務所へ送られる女性も増えた。獄中では、食事を拒むハンストが抗議の手段となった。刑務当局は女性たちに強制的に食事を与え、その過酷さが批判を呼んだ。
エメリン自身も1913年4月3日にホロウェー刑務所へ入り、ハンストを始めた。4月10日の議会で内務大臣は、彼女が食事を拒み続けているが、強制給餌はしていないと答弁した。翌11日付の運動機関紙は、エメリンが衰弱していると伝えた。エメリン自身も、拘禁中のハンストで身体を弱らせていた。
同月25日、イギリスでは、衰弱した囚人を一時釈放し、回復後に再収監できる法律が成立した。運動家たちは、猫が鼠を捕まえては放す姿になぞらえて「猫と鼠法」と呼んだ。ハンストへの政府の対応は、刑務所の外まで続く仕組みになった。
1914年5月、エメリンは国王ジョージ5世(George V)への請願を試み、バッキンガム宮殿の外で再び拘束された。1908年の議会へ向かう行進から6年が過ぎても、政治権力へ要求を届けようとする彼女の行動には、なお警察が立ちはだかっていた。
戦争が始まると、運動は別々の道へ進んだ
1914年夏、第一次世界大戦が始まった。エメリンとクリスタベルは、女性社会政治同盟の戦闘的な参政権闘争を休止し、イギリスの戦争遂行を支持する側に回った。労働力が必要となる中、女性たちの戦時の仕事への参加も訴えた。かつて政府と対立した指導者が、いまは国の戦争政策に協力するようになったのである。
しかし娘たちは一つの立場にまとまらなかった。シルヴィア・パンクハースト(Sylvia Pankhurst)はロンドン東部の労働者女性たちと活動し、反戦の立場をとった。末娘アデラ・パンクハースト(Adela Pankhurst)との不和は戦争前から深まっていた。エメリンは渡航費を渡し、アデラは1914年2月にオーストラリアへ向かった。二人はその後、再会しなかった。母と娘がともに女性の権利を訴えてきた家族の中で、戦争、階級、社会改革をどう考えるかは深い対立となった。
娘たちとの対立には、戦争への賛否だけでなく、それ以前からの同盟の運営方針や労働者運動をめぐる違いもあった。母と娘はかつて同じ参政権運動を進めていたが、誰のために、どのような政治をするのかでは一致できなくなっていた。
1918年、イギリスで選挙法が改正され、一定の資格を満たす30歳以上の女性に国政の投票権が認められた。長い運動の大きな前進だった。ただし、男性と同じ年齢条件ではなく、すべての成人女性が同等に投票できたのではない。エメリンの同盟に加え、合法的に活動した女性運動や戦時の社会変化も、この結果に関わっている。
選挙権を得たあと、彼女が入ろうとした政党
エメリンには、政治活動と並行して幼い子どもたちを育てる暮らしもあった。1915年、幼い少女4人を引き取り、養育を始めた。1919年にカナダへ渡ると、子どもたちと暮らしながら北米で講演を続けた。参政権運動の指導者として各地を移動する一方で、老年に近づいてからも子どもを育てる生活があった。
イギリスへ戻ると、エメリンの政治的立場はさらに変わっていた。1926年のゼネラル・ストライキなどを経て、共産主義と階級対立を強く警戒し、イギリス帝国を支える保守党へ近づいた。以前には社会主義的な改革を支持していたが、晩年には国家による経済管理への信頼を失ったことをインタビューでも語っている。彼女が主張する女性の政治参加は続いていたが、その政治で何を守ろうとするかは若いころと同じではなかった。
1927年、エメリンは保守党の議会選挙候補となるべく、ロンドン東部のホワイトチャペルとセントジョージ地区で活動した。女性の集まりを組織し、商店や集合住宅、酒場を訪ね、支持を求めた。党の中央部との関係がいつも円滑だったわけではない。資金を集める難しさもあり、六十代後半の身体には遊説がこたえた。かつては議会の外で抗議していた人が、今度は政党の候補者としてそこに入ろうとしていた。
この時期のエメリンと、シルヴィアとの政治的な隔たりは深まった。母は反共産主義を訴え、娘はそれに対立する考えのもとで活動した。長女クリスタベルもまた宗教活動に重心を移していた。三人の娘たちは、それぞれ別の方向へ進んでいたのである。
1928年春、エメリンの健康状態は悪化した。保守党から選挙に出る準備を進めていたが、選挙を迎えることなく病に倒れ、6月14日に69歳で亡くなった。
その約3週間後の7月、イギリスで男性と女性の選挙権の年齢条件を同じにする法律が成立した。本人はその成立を見届けていない。議会の前で逮捕された女性の人生は、議会へ入るための選挙運動の途中で終わった。彼女が求めた政治への入口は広がっていたが、どの政治を選ぶかについて、家族や同時代の女性たちが一致することは最後までなかった。




