一人の人生を読む
徴兵が始まる前に、人を集める
1914年、ヨーロッパで戦争が始まった。イギリスでも兵士を募る声が高まっていたが、まだ法律で入隊を強制されてはいなかった。
社会主義系の新聞『レイバー・リーダー(Labour Leader)』で反戦を訴えていたフェナー・ブロックウェイに、妻のリラが提案した。もし徴兵が始まったら兵役を拒む人たちを、いまのうちに結びつけておいてはどうか。
二人はその年に結婚したばかりだった。新聞を通じて参加者を募り、ダービーシャーの自宅を活動の拠点にした。リラが初期の事務局を担ったこの組織は、徴兵反対同盟(No Conscription Fellowship)と呼ばれるようになる。
翌々年の1916年、イギリスは徴兵制を導入する。応じない人は裁判にかけられ、刑務所へ送られることもあった。同盟は裁判や収監の情報を伝え、家族を支え、兵役を拒むという選択が孤立しないように働きかけた。反戦の主張を持つことと、実際に入隊を拒んだ人が生活していくことは、別の困難を伴っていた。
ブロックウェイ自身も収監された。新聞で訴えていた立場が、そのまま彼自身の生活を変えることになった。
刑務所の中と、外にいる家族
彼は1888年、当時イギリスが支配していたインドのカルカッタで、キリスト教宣教師の家庭に生まれた。幼くしてイギリスで教育を受け、若いころから社会主義運動に加わった。新聞記者として働き、独立労働党の機関紙を編集する。政治的な言葉を世に出すことが、彼の仕事だった。
1915年、活動が広がるなかで一家はロンドンへ移った。翌年、ブロックウェイが逮捕されると、リラと幼い長女は借りていた部屋を追われた。1917年には次女が生まれた。
第一次世界大戦中、ブロックウェイは反徴兵活動や兵役拒否によって繰り返し投獄された。獄中でも仲間と連絡を取り、刑務所の待遇を改善するための運動を続けた。後年の回想には、トイレットペーパーを使って囚人向けの新聞をつくったという話もある。新聞を編集してきた彼が、紙も自由に手に入らない場所で文章を配っていたという記憶だ。
収監は四度に及び、最後の八か月は独房で過ごした。戦争が1918年に終わっても、すぐには自由になれず、翌1919年に釈放された。
リラは娘たちを育てながら反徴兵運動に関わり続けた。ブロックウェイは後年、投獄された自分たちより、妻たちのほうがつらい時間を過ごしたのではないかと振り返っている。
釈放後もブロックウェイは政治から離れなかった。やがて彼が議場で抗議する相手は、同じ労働運動から出た政権だった。
自分の政党の首相に逆らう
1929年、ブロックウェイはロンドン東部の選挙区から下院議員に初当選した。同じ年、労働党が政権に就く。社会主義運動に身を置いてきた彼にとっても、議会で政策を争う機会が訪れた。
しかし、労働党政権はインドの独立運動を弾圧していた。
1930年7月17日、ブロックウェイは議場でインド問題を討論する時間を求めた。首相ラムゼイ・マクドナルドに断られても発言を続け、議長の制止にも従わなかった。下院は260対26でブロックウェイの登院停止を決めた。同僚議員ジョン・ベケットは議会の権威を象徴する儀礼用の杖をつかみ、議場後方の柵まで運んだが、係官に取り戻された。ブロックウェイ自身は、議長の退場命令に従って議場を出た。
兵役を拒んだときは刑務所へ送られた。いまは選ばれた議員として議場にいる。その立場からも、彼は政権を担う自分たちの側を批判した。
翌1931年、彼は議席を失う。1932年には、所属する独立労働党が労働党との関係を断った。ブロックウェイはその決定を進めた中心人物の一人だったが、後になって重大な誤りだったと振り返ることになる。
戦争に反対していた人が、武力を認める
1936年、スペインで内戦が始まる。選挙で成立した共和国側と、フランコらの反乱軍が争い、ナチス・ドイツとファシスト・イタリアは反乱軍を支援した。
第一次世界大戦で兵役を拒んだブロックウェイは、今度は反ファシズムのために武器を取る人々を支持した。1937年には内戦下のスペインを訪れている。スペインの労働者や共和国を守る戦いを、武力を避けるという原則だけで止めるべきではないと考えるようになったのだ。
第二次世界大戦が始まるころには、かつての絶対的な非戦主義を修正していた。ただし、徴兵された個人が良心によって兵役を拒否する権利までも否定したわけではなかった。
政治的な変化と並行して、私生活にも区切りがついた。運動をともに始めたリラとは1945年に離婚し、翌1946年、イーディス・ヴァイオレット・キングと再婚した。リラとの間には四人の娘、イーディスとの間には息子クリストファーがいた。ブロックウェイの公的な活動が長く続くあいだ、家族の形も変わっていた。
ケニアの独立を支持し、マウマウの暴力を批判する
戦後、ブロックウェイは労働党に戻り、1950年に再び下院議員となった。今度の選挙区はイートン・アンド・スラウである。
彼が力を注いだのは、イギリスの植民地支配を終わらせる運動だった。インドの独立運動を支援してきた経験をもとに、アフリカの政治家や活動家とも関係を築く。1954年には植民地自由運動の議長となり、ケニアをはじめ各地の独立と、イギリス国内の人種差別撤廃を訴えた。
1953年、ブロックウェイは下院で、以前ナイロビを訪れたときの出来事を語っている。アフリカ出身の国連関係者とインドの外交官、それに彼自身の三人で一緒に食事をしようとした。だが、一時間ほど店を探しても、ヨーロッパ人しか入れないという決まりに阻まれたという。彼が議会で問題にした人種差別とは、誰と同じテーブルにつけるかさえ制限される現実だった。
1961年、彼は下院の討論で、ケニアの独立運動家ジョモ・ケニヤッタを以前からよく知っており、1950年にはケニアでも関わりを持ったと話した。イギリス人議員が「アフリカのための議員」と呼ばれても、独立を求めていた当事者はケニアやほかの植民地の人々だった。ブロックウェイの仕事は、その要求を英国の政治へ持ち込むことにあった。
しかし、植民地支配への反対が、すべての武装闘争への賛同を意味したわけではない。1950年代初めのケニアでは、マウマウと呼ばれた反植民地武装運動に対し、イギリス当局が大規模な弾圧を加えた。ブロックウェイは植民地支配と弾圧を批判した一方、1953年の著作ではマウマウ側の暴力も厳しく非難している。独立運動を支持することと、その武装行動をどこまで支持するかは、彼にとって同じではなかった。
ブロックウェイはまた、国内の人種差別を禁じる法案を何年にもわたって繰り返し提出した。議会ではなかなか成立しなかったが、1965年、イギリスで初めての人種関係法が成立する。ただし当初の法律は公共の場所での差別などに対象が限られ、雇用や住居については後の法改正を待たなければならなかった。
彼が提出した法案がそのまま法律になったわけではない。それでも、成立しない提案を重ねていた時期の政治的争点が、やがて法制度の一部となっていった。
落選の後にも、議場に戻る
1964年の総選挙で、ブロックウェイは下院の議席を失った。移民や人種差別をめぐる彼の立場は選挙でも争点となっていた。長年の活動を続けた政治家にとって、これは二度目の下院での敗北だった。
その年の暮れ、彼は終身貴族となり、貴族院の議席を得た。選挙で議席を失った直後に、今度は選挙によらず議会へ戻る。本人にも終身貴族を受けることへのためらいがあったという。
彼はそこでも植民地独立、人権、軍縮を論じた。1970年代には刑務所の待遇や北アイルランドの公民権の問題にも関心を向ける。かつて自分が囚人として経験した場所について、晩年には議員として改善を求めていた。
1979年10月、90歳のブロックウェイは、同じく高齢のフィリップ・ノエル=ベーカーと世界軍縮運動を立ち上げた。新聞『トリビューン(Tribune)』は、二人を合わせておよそ180年を生きてきた平和運動の古参として紹介している。
1914年には、まだ始まっていない徴兵に備えて仲間を募った。65年後には、核兵器と世界の軍備を減らすための新しい組織をつくった。そのあいだに彼は投獄され、議員となり、落選し、戦争への考えを変え、再び議会へ戻った。
ブロックウェイは1988年4月28日、99歳で亡くなった。彼が取り組んだ反戦、独立、人種差別撤廃の運動は、どれも一人の人生では終わらない。彼は90歳になっても、次の運動を始めるために人を集めていた。




