一人の人生を読む
銃口の前に差し出された写真
1918年3月21日。ドイツ軍の大攻勢が始まった朝、23歳になる直前のエルンスト・ユンガー(Ernst Jünger)は、部隊を率いてイギリス軍の陣地へ進んだ。砲撃は夜明け前から続き、出発を待つ味方の兵士にも死傷者が出ていた。やがて歩兵が前進し、ユンガーも拳銃を手に走り出す。
その途中で、彼は一人の負傷したイギリス兵を見つけた。ユンガーの回想によれば、彼がその兵士のこめかみに銃口を向けると、相手はポケットから写真を取り出した。そこには本人と大勢の家族が写っていた。ユンガーは撃たずに、その場を通り過ぎたという。
ユンガーはそのまま進撃を続けた。部隊の仲間は倒れ、砲弾と機関銃の音が途切れない。同じ章でユンガーは、仲間の死を克明に記しながら、自分の内に湧き上がった殺意と戦闘の高揚も隠していない。
この場面が載る『鋼鉄の嵐』は戦場の日記をもとにした本だが、何度も改訂された。ここで伝えた細部も、1918年その場で書き留めた文章をそのまま再現したものではなく、後年の回想録に記された経験である。殺すことを望んだ自分と、目の前の一人を撃たなかった自分。ユンガーは、その両方を同じ書物に残した。
冒険を求め、戦場へ志願する
ユンガーは1895年、ドイツ南西部のハイデルベルクに生まれた。父は化学を学び、薬局を経営していた。学校の成績は振るわず、いくつもの学校を移った。弟のフリードリヒ・ゲオルクも、のちに作家となる。
1913年、18歳のユンガーは家を離れてフランスへ渡り、外人部隊に入った。アフリカで冒険をしたかったのである。父が働きかけ、彼は帰国させられた。軍隊に入って遠い土地へ出ようとしたこの一件は、第一次大戦の始まる前年に起きた。
1914年8月、ヨーロッパで戦争が始まると、彼は今度はドイツ軍へ志願する。西部戦線へ送られたのはその年の暮れだった。砲弾が人間を引き裂き、塹壕が崩れ、命を落とした兵士のそばで次の命令を待つ日々。ユンガーは何度も負傷したが前線へ戻り、士官として部隊を率い、軍功勲章も受けた。
ユンガーは負傷や戦友の死を詳しく記しながら、攻撃に加わるときの興奮も書き残した。前線で見た惨状も、自ら戦争へ志願し、戦い続けた時間も、のちに彼が本にする経験の一部になった。
十四冊の日記が、書き換えられる本になる
敗戦後、ユンガーは戦場で書き続けた十四冊の日記をまとめることにした。父の助言もあった。1920年に刊行した『鋼鉄の嵐』(原題 In Stahlgewittern)は、細密な戦闘の描写で注目された。
読む者によって、その本の意味は大きく変わった。戦う兵士を勇ましく描く戦争賛美だという批判もあれば、ここまで凄惨な前線を見せる本には、かえって反戦の効果があるという受け取り方もあった。文章は残酷な出来事を見つめている。だが書き手は、それを必ずしも戦争そのものへの拒絶に変えていない。
しかも、ユンガーは一度書き終えた本を放っておかなかった。1924年に出た版には国粋主義的な文言を加え、1934年の版ではそれを取り除くなど、書き直しを続けた。戦場の一冊は、同じ経験を持った著者が、時代に応じて何を言葉に残すかを選び直した本でもある。
1923年、ユンガーは軍を退き、ライプツィヒ大学で動物学を学んだ。だが学位取得へは進まず、新聞や雑誌に政治的な文章を書くようになる。塹壕で見た人間の集団行動や破壊の力は、戦争を語るだけでなく、これからの国家と社会を語るための材料にもなった。
民主主義を嫌い、ナチ党も拒んだ
第一次大戦後のドイツでは、皇帝の退位を経て議会制民主主義のヴァイマル共和国が成立していた。ユンガーはこの共和国を支持しなかった。強い国家、統制された集団、戦争経験者の政治的な役割に期待を寄せ、1920年代には急進的な国粋主義者として文章を発表した。
1925年にはグレータ・フォン・イェンセンと結婚し、翌年に長男エルンストが生まれた。その間も政治的な執筆は続き、1932年の『労働者 支配と形態』では、技術によって社会全体が動員され、人間の働き方や生活のかたちまで変わる時代を描いた。ここでいう「労働者」は工場で働く人だけの意味ではなく、時代を支配する新しい人間の型である。
だが、ユンガーはヒトラーのナチ党に加わらなかった。1930年前後から党の進め方に距離を取り、1933年には議員候補となる誘いを断った。1939年刊の小説『大理石の断崖の上で』は、暴力的な権力への批判を寓話で示した作品として読まれた。
ナチ党への拒絶は、議会制民主主義への転向ではなかった。ユンガーは1938年、抵抗組織への参加を打診されたときも応じなかった。党の側に立たず、民主主義も支持せず、抵抗運動にも加わらない。彼の立場は、やがて始まる次の戦争でも複雑なままだった。
パリで、占領する側の軍服を着る
1939年に再び戦争が始まると、ユンガーはドイツ軍に召集された。ドイツ軍がフランスを占領したのち、1941年から1944年まで、彼はパリに置かれたドイツ軍の司令部に所属する将校として働いた。
パリは作家や芸術家に出会える都市であり、同時に、ドイツ軍が占領している都市だった。ユンガーはジャン・コクトー(Jean Cocteau)やジョルジュ・ブラック(Georges Braque)ら、フランスの文化人と接点を持った。その日々はのちに日記文学として発表される。占領下の街を見つめた観察者であることと、占領軍の一員であったことは、どちらも彼の経歴に属している。
1942年から43年にかけて東部戦線を訪れたときの記録には、そこで行われていた大量殺害に対する嫌悪と恥が表れている。彼はナチ体制の暴力に目を向けていた。それでも、軍人として制服を脱いでそこを離れたわけではなかった。
その戦争は家にも届く。長男エルンストは1944年、ヒトラーを批判する発言をしたことで逮捕された。釈放された後に兵役に就き、同年11月、イタリアのカッラーラ近くで戦死する。18歳だった。
村の家に残った、別の時間
ドイツの敗戦後、ユンガーは連合軍の占領下で出版を制限された。1949年には占領期の日記を含む『光芒』(Strahlungen)や小説『ヘリオーポリス』を発表し、再び本を出すようになる。1950年には南ドイツのヴィルフリンゲンに移り住んだ。
ヴィルフリンゲンでの生活には、少年時代から続く昆虫採集があった。1908年のクリスマスに、父から採集箱や道具を贈られている。塹壕でも、戦後も、虫への関心は続いた。晩年の旧居を保存する記念館には、約四万点に及ぶ昆虫標本が収められている。
庭を歩き、出かけた先で自然を観察し、読書をし、手紙を整理する。その生活は静かだったが、社会や技術への関心を捨てたわけではない。1957年には技術と人間の関係を扱う小説『ガラスの蜂』を書き、1970年には薬物体験をめぐる『接近』を、1977年には『エウメスヴィル』を刊行した。日記の執筆も最晩年まで続く。
1960年には最初の妻グレータが亡くなり、ユンガーは1962年に文学研究者で文書館員でもあったリゼロッテと再婚した。家に蓄えられた大量の本や手紙は、いまもドイツ文学資料館などの収蔵資料として残っている。
書物と昆虫標本の集まったこの家には、戦争の記録とは別に、長い年月をかけて続けた仕事の跡も残った。
歓迎されても、論争は消えなかった
1982年、ユンガーはフランクフルト市のゲーテ賞を受けた。だが文学者への顕彰は祝福一色ではなかった。過去の戦争礼賛や反民主的な政治論を問題とし、市議会や報道では激しい論争が起きた。授賞式への参加を拒む人々もいた。
一方、1984年にはドイツ首相ヘルムート・コール(Helmut Kohl)とフランス大統領フランソワ・ミッテラン(François Mitterrand)がヴェルダンで第一次大戦の犠牲者を追悼する場に、ユンガーも招かれた。かつてフランスの地で戦ったドイツ軍将校が、七十年近く後、独仏両国の首脳による追悼の場に同席した。
ゲーテ賞をめぐる抗議は、1920年代の政治論や戦争の描き方への批判が晩年にも続いていたことを示している。その一方で、独仏の追悼の席には彼の姿があった。彼の著作と歩みをめぐっては、敬意と批判の両方が続いていた。
ユンガーは1998年2月17日、102歳で死去した。誕生日まであとひと月余りだった。第一次大戦に出てから八十年以上、彼は書き、記録し、観察し続けた。家族の写真を差し出した兵士の話も、機械に動員される世界の話も、庭の小さな虫の記録も、同じ一人の人生から生まれたものである。




