一人の人生を読む
小切手と防水布
1915年2月21日、ドーセット州ブランドフォードの軍営にいたルパート・ブルック(Rupert Chawner Brooke)は、友人ダドリー・ウォード(Dudley Ward)に手紙を書いた。王立海軍師団に所属する彼は、地中海への遠征を目前にしていた。遠征への期待を勢いよく伝えたあと、手紙は急に実際的な用件へ移る。ポケットに収まる薄い防水布、ひげ剃り用の替え刃、小さな薬箱。ウォードにそれらの手配を頼み、費用に充てる三ポンドの小切手を同封した。
出征を喜びながら、撃たれる可能性にも触れている。彼はその前年、戦争で死んだときに祖国がその身を包むと詠んでいた。だが友人への手紙にあるのは、詩に登場する永遠の英国だけではない。雨を防ぐ布と毎日の身支度、薬の必要性を考え、出発までに間に合うよう急ぐ27歳の青年がいる。
彼が戦争詩人として知られる以前、暮らしの中心にあったのは学校や大学、ケンブリッジ近郊の川辺で過ごす友人たちとの時間だった。そこでは、戦争とは別の期待や争いも育っていた。
学校の息子が暮らした村
ブルックは1887年、イングランド中部のラグビーに生まれた。父ウィリアム・パーカーは名門ラグビー校の教師で、少年ルパートもその学校で学んだ。家には本があり、母メアリーは息子の詩を喜んだ。早くから詩を書き、友人とは文章のやり取りを続ける。のちに深い関係を結ぶジェイムズ・ストレイチー(James Strachey)やジェフリー・ケインズ(Geoffrey Keynes)とも、この学校時代に知り合った。
1906年にケンブリッジ大学キングス・カレッジへ進むと、古典と英文学を学び、友人と政治や芸術を論じた。社会改良を求めるフェビアン協会の思想にも惹かれた。学生仲間の文学や新しい生き方への関心は、教師の家で育った青年の行動範囲を広げていった。しかし、周囲に人が集まることと、人間関係が落ち着いていることは同じではなかった。
1909年、彼はケンブリッジの中心部を離れ、近郊のグランチェスターに住み始める。仲間にはキャサリン・コックス(Katherine Cox)、オリヴィエ姉妹、ジャック・ラヴェラ(Jacques Raverat)らがいた。彼らは戸外で過ごし、川で泳ぎ、庭で話し、演劇や詩に関わった。ヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf)はこの一群を「ネオ・ペイガン」と呼んだ。古い道徳に縛られない暮らしを試みる若者たちの姿が、その名前には重なっていた。
だが村へ移った翌年、父が亡くなる。1910年1月、ブルックは一時的にラグビー校へ戻り、父が担っていた寮の仕事を引き受けた。自分の友人と過ごす時間、詩を書ける場所から離れなければならない。父の職によって開かれた教育の道と、父を失ったあとの責務は、同じ家庭からやってきた。
彼はほどなくグランチェスターへ戻り、旧牧師館に居を移した。1911年には最初の詩集を出版する。翌1912年5月、友人ダドリー・ウォードを訪ねてベルリンに滞在したとき、「オールド・ヴィカレッジ、グランチェスター」(The Old Vicarage, Grantchester)を書いた。原詩にはベルリンのカフェとこの年月が記されている。川や花、帰りたい村の風景とともに、ドイツの都市生活をからかうような声も混じる。懐かしい村を、ただ美しい絵としてだけではなく、冗談も交えて書く青年だった。
村を離れても切れなかった関係
グランチェスターで共に時間を過ごしたカ・コックスとの関係は、やがて破綻した。1912年前後のブルックの書簡には、強い感情、嫉妬、友人への不信が現れる。後年の伝記ではこの時期を精神的な危機として扱うこともある。しかし、現存する手紙から当時の医学的な診断を確定することはできない。この時期の傷つき方を、一つの病名や恋愛の責任論にまとめることはできない。
この関係の亀裂は、恋人二人だけで閉じていない。周囲にはジェイムズ・ストレイチーやその兄リットン、画家ヘンリー・ラムらもいた。カとの別れのあと、ブルックはかつて親しかった人々を疑う手紙を残している。川辺で親しく過ごしていた仲間の関係は、それぞれの感情が衝突すると保てなくなった。
ブルックの親密な関係をめぐる研究は、彼の死後長い時間をかけて変わった。ジェイムズ・ストレイチーは彼に愛情を抱いており、のちに公開された手紙は、初期の評伝から見えにくかった男性との親密さも示した。一方、相手の気持ちとブルック自身の応え方は同じではない。現在の言葉で恋愛を一つの分類に収めるより、具体的に手紙を書き、関係を結び、壊していった人たちの姿を見るほうが、この時期に近づける。
1913年、ブルックはジョン・ウェブスターとエリザベス朝演劇に関する研究によってキングス・カレッジのフェローに選ばれた。文学者として大学に居場所を得た一方、彼は長い旅に出る。カナダ、アメリカ、さらに南太平洋へ。旅行中には新聞への寄稿も続け、その散文はのちに『アメリカからの手紙』(Letters from America)としてまとめられた。タヒチでは現地の女性タアタマタと親しくなったことも、彼の旅の記録に残っている。
旅は単なる傷心旅行ではなかった。ブルックには、詩を書くことと異なる、土地や人を観察し、原稿を送り、読者へ伝える仕事もあった。1914年6月に帰国したとき、彼は大学の研究者でも、詩人でも、旅行記を書く人間でもあった。その数か月後、戦争によって職業と生活の方向が変わる。
戦争を歓迎した言葉
ブルックが戦争を肯定的に語ったのは、1914年が初めてではない。18歳だった1905年、ジェイムズ・ストレイチーから戦争への賛否を問われると、戦争は不要な人々を死なせるから賛成だ、という残酷な返答をした。挑発や誇張を含む可能性のある一通の手紙を、その後の政治思想のすべてとはできない。それでも彼の戦争への言葉には、1914年以前から危うい軽さがあった。
1914年に戦争が始まると、ブルックは軍務を望んだ。彼はその年の9月、王立海軍師団の少尉に任官し、10月にはアントワープ遠征に加わる。首相アスキスの一家やウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)に近いエドワード・マーシュ(Edward Marsh)の人脈も、彼の軍歴を支える背景となった。社会主義に共感していた学生が、政治の中枢に近い人々と食卓を囲み、彼らの助力も受けて従軍する。ブルックの人生には、思想と交友関係が整然と一致しない場面があった。
その年の冬、彼は「1914」と題する五篇のソネットを書く。「平和」(Peace)、「安全」(Safety)、「死者」(The Dead)の二篇、そして「兵士」(The Soldier)。詩には、戦争が人間を浄化するという感覚や、若い死者への献身、祖国の土や風景が織り込まれた。「兵士」では、もし異国に埋葬されることになっても、そこに英国の一部が残るという考えが詠まれる。
この詩を、彼が見たすべての戦争の記録とすることはできない。アントワープに赴いた経験はあるが、彼の軍歴は長くない。五篇が書かれたのは大戦初期であり、戦争の年月が世界に何をもたらすかを彼が経験し尽くしたあとの言葉ではなかった。ただ、作品を無知な愛国心の一言で片づけるのも違う。ここにあるのは、特定の時期に詩人が本当に書いた言葉だ。
「兵士」は1915年4月4日、ロンドンのセント・ポール大聖堂での説教でも取り上げられた。詩が国民の耳に届き始めていたころ、作者自身は英国から遠く離れた海の上にいた。
上陸しなかった朝
1915年2月に地中海へ向かったブルックは、友人たちへの手紙に高揚を書き続けた。オスマン帝国の首都コンスタンティノープルへ進む遠征に、彼は歴史や古典世界への憧れを重ねた。地図を眺め、古代ギリシャの土地を思い、進軍への期待を語る。戦争を歴史的な冒険として見る声もそこにはあった。
しかし、海へ出た部隊はすぐに敵と戦えたわけではない。3月後半、ブルックはカ・コックス宛の手紙に、一度の上陸準備を記している。兵士たちは夜明け前に起き、装備を身につけ、食事を取り、上陸を待った。ブルックは食べすぎで具合が悪くなったと書き、自分の小隊へもっと多くのことを教えておけばよかったとも悔やむ。やがて作戦が中止になり、彼らは敵を見ず、発砲もせずに引き返した。
この出来事には、戦場の勇敢さを確かめるような結末がない。本人は手紙のなかで肩透かしを受けた遠征を冗談めかして語った。出征前には華々しい上陸を想像していた人間が、現実には命令の理由も十分わからないまま待機し、疲労や胃の不調を抱えて船に戻る。戦争の経験は、壮大な詩の言葉からだけではわからない。
4月初め、エジプトにいたブルックはさらに体調を崩し、母への手紙で頭痛や胃腸の症状、暑さによる衰弱を伝えている。回復へ向かっているようにも記していたが、その後、ギリシャのスキロス島付近で重い感染症に陥る。彼が期待した上陸の本番は、まだ来ていなかった。
病院船とオリーブ林
ブルックはフランスの病院船デュゲ=トルアン号へ運ばれた。仲間のウィリアム・デニス・ブラウン(William Denis Browne)は、のちにエドワード・マーシュへ送った手紙で、病状が急に悪化した経過を報告している。医師たちの処置にもかかわらず、1915年4月23日午後4時46分、ブルックは息を引き取った。27歳だった。
死因は敗血症と記録される。病変の始まりについて同時代の証言や後の解説には表現の差があるため、虫刺されなど一つのきっかけだけから詳細な病理を決めつけることはできない。ただ確かなのは、彼が銃弾を受けて戦死したのではなかったということだ。
ブラウンたちはその日のうちに、スキロス島のオリーブの木のある場所に彼を埋葬した。ブラウンの報告には、石を載せた墓と、部隊の人々が置いた十字架のことが書かれている。ブルックの詩は、異国で眠る英国人をすでに描いていた。しかし、友人に看取られ、船から運ばれ、丘の木々の下に埋められた死は、詩が描いた理念ではなく、一人の人間に起こった出来事である。
ブルックは戦争を歓迎する言葉を書き、その戦争に参加した。それでも彼は、後年の塹壕詩人たちのように何年も前線で戦闘を重ね、その経験から作品を書き直したわけではない。戦争に何を期待し、何を経験したか。その二つを同じものとして語ることはできない。
誰が詩人を語り継いだか
死後ほどなく、ブルックの名は国民的な追悼のなかに置かれた。チャーチルは彼を悼み、1915年5月にはエドワード・マーシュが『1914年とその他の詩』(1914 and Other Poems)を刊行した。巻頭でマーシュは、ブルックがこの春に詩集を出すつもりだったことを説明する一方、実際に刊行された本の編集を本人は終えていなかったとも明記した。
そこに収められたのは戦争を讃える五ソネットだけではない。南洋での恋愛や旅、身近な事物を詠んだ詩、かつて暮らしたグランチェスターの風景もある。生前のブルックは、友人を愛し、別れ、旅先から記事を書き、大学の研究にも携わっていた。没後の評判の中心に置かれた一篇だけを読んでは、その広がりは見えなくなる。
1918年にマーシュの回想録が刊行されると、ブルックの母や友人たちは、その人物像をどう描くべきかについて意見を異にした。詩人の死を惜しむ気持ちは同じでも、何を記し、どこを伏せるかは一致しなかった。ジェフリー・ケインズが編んだ書簡、後年に公開されたストレイチーとのやり取り、さらに別の研究者たちによる伝記が、初期の英雄的な肖像に収まらない人物を示していった。
1940年にはジョージ・オーウェル(George Orwell)がグランチェスターの詩を厳しく批判した。一方で、その詩には大戦前の中産階級の若者の気分を知る史料としての価値があるとも記した。詩への評価さえ、後の時代には書き換わっていった。
彼が戦争に寄せた期待は、たしかに彼自身のものだった。同じ青年が、友人に防水布を頼み、遠征中に食べすぎを悔やみ、恋人との関係に傷つき、遠い村を懐かしむ詩も書いた。友人や遺族が残した記録には、整った追悼文に載せにくい声も残っている。それらの声が並ぶとき、ブルックはようやく、ただの「永遠に若い戦争詩人」ではなくなる。




