一人の人生を読む
二十二年前の演説を、母校で振り返る
1903年7月30日、フランス南部アルビの学校で、生徒に向かって演説する男がいた。ジャン・ジョレス(Jean Jaurès)、43歳。カルモー選出の社会主義の国会議員で、下院の副議長でもある。だが、この学校では、かつて哲学を教えていた一人の教師だった。
その日は、学校の優秀な生徒に賞を授ける式典だった。ジョレスは冒頭、二十二年前にも同じ場所で演説したことを思い出す。当時の自分が若者に勧めたのは、他人を公正に、寛大に判断することだった。しかし政治の闘争に入ってから、自分自身がその教えを守れなかったこともあったかもしれない、と認めている。
若者に他人を公正に判断するよう説いた教師の言葉は、政治の世界で相手を批判してきた自分にも向けられていた。
ジョレスはその後、人々を戦争から遠ざけようとする演説家として知られるようになる。ただし彼が生きた五十四年間には、説得できた相手もいれば、勝てなかった選挙、止められなかった法律、考え直さなければならなかった自分の政治的立場もあった。
奨学金で学んだ青年が、まず共和国の議員になる
ジョレスは1859年9月3日、カストルに生まれた。父ジュールは商売を営み、小さな農地を所有していた。母アデライードは繊維産業に関わる家の出身である。家計が豊かな大地主でもなければ、炭鉱で働く労働者の子でもなかった。
地元の学校で成績を上げた彼は、奨学金を得てパリのリセ・ルイ=ル=グランへ進んだ。1878年には高等師範学校に入学する。そこはフランスの教師や研究者を養成する学校で、ジョレスは哲学を学んだ。1881年に教授資格試験に合格し、アルビのリセ、さらにトゥールーズの大学で教えるようになった。
教壇だけが活動の場になったわけではない。共和国の教育制度を重んじていたジョレスは、1885年、二十六歳でタルヌ県から下院議員に当選する。最初の立場は穏健な共和派だった。教育や労働者の問題に関心を持った一方、当時の政府の植民地政策には賛成していた。
翌1886年には、アルビで商売を営む家の娘ルイーズ・ボワ(Louise Bois)と結婚した。二人のあいだには、マドレーヌとルイ・ポールという子どもが生まれる。政治活動と並行して、彼は夫となり、二人の子の父親にもなった。
政治生活は順調には進まない。1889年、ジョレスは議員選挙で敗れた。彼はトゥールーズの教育・研究に戻り、哲学の論文を書き、地方の政治にも関わった。首都の議員席から離れたことは、彼の仕事が止まったことを意味しなかった。
数年後、彼の政治的な立場を大きく変える争いが、同じタルヌ県の鉱山町で起きる。
炭鉱の会社は、労働者の市長を解雇した
カルモーは炭鉱の町だった。鉱山会社には地域の雇用を左右する力があり、経営側のルドヴィック・ド・ソラージュ侯爵(Ludovic de Solages)は、地元の政治にも大きな影響を持っていた。
1892年、炭鉱で働き、労働組合にも関わっていたジャン=バティスト・カルヴィニャック(Jean-Baptiste Calvignac)が町の市長に選ばれた。だが会社は、市長としての仕事のために欠勤が多いことを理由に彼を解雇した。市長の地位を選挙で得ても、勤め先の会社から解雇されれば生活の基盤を失う。自治体を代表する仕事と、町の雇用を握る企業の力が、一人の労働者をめぐってぶつかった。
労働者たちはストライキに入る。ジョレスは新聞への寄稿などを通じて彼らを支持した。もともと共和国の仕組みを信じていた政治家にとって、選挙で選ばれた市長が企業の判断で働く場を失うことは、共和主義そのものに関わる問題だったとも読める。
争いは二か月半ほど続き、鉱夫たちはカルヴィニャックの復職を勝ち取った。ソラージュは議員職を辞し、補欠選挙が行われることになった。カルモーの労働者たちは、ジョレスを自分たちの候補者に選ぶ。1893年1月、彼は今度は社会主義の議員として下院に戻った。
ここで変化したのはジョレスの思想だけではない。労働者たちはストライキを組織し、候補者を選び、議会に送り出した。ジョレスが一方的に彼らを救ったのではなく、労働者たちの行動がジョレスの政治の進む先を変えた。
今度のストライキは、職場を取り戻せなかった
カルモーでの争いは、それで終わらなかった。1895年、今度はガラス工場で組合活動に関わる労働者の解雇をきっかけにストライキが起きた。工場の経営者は労働者を締め出し、働き続けられない人たちが出た。
ジョレスは仲裁を求め、彼らを支援した。しかし、炭鉱の争議と同じ結末にはならない。解雇されたガラス工たちにとって必要だったのは、新聞の支持や議会での演説だけではなく、明日から働く場所だった。
労働者たちは、自分たちで工場をつくる道を選んだ。資金を集め、1896年にアルビで労働者のガラス工場を設立する。ジョレスはこの構想を支援した。誰が工場を所有し、誰が働く条件を決めるのか。社会主義という言葉が、ここでは工場の建設と失業者の暮らしという実際の問題になっていた。
鉱夫たちは元の職場への復帰を勝ち取った。ガラス工たちは戻ることができず、自分たちで別の工場を建てた。同じ地域で起きた二つの争議は、異なる結末を迎えた。
自分の属する共和国が、正義を踏みにじるとき
1890年代末、フランスを二分したのがドレフュス事件である。ユダヤ系の軍人アルフレド・ドレフュス(Alfred Dreyfus)が国家への裏切りを疑われ、有罪にされた。軍の判断を守るべきか、それとも裁判の不正を正すべきか。共和国の中で、正義と愛国心の意味が争われた。
ジョレスは当初、ドレフュスを有罪と見ていた。しかし軍の判断や裁判をめぐる疑念が広がるなかで態度を変えていく。1898年2月、軍を批判して訴追された作家エミール・ゾラ(Émile Zola)の裁判で証言し、ゾラに向けられた攻撃を批判した。ただし、この時すでにドレフュスの無実を確信していたとまでは言えない。ジョレスはその後も証拠の不正を問い、再審を求める側に立った。
しかもこの年、ジョレス自身はカルモーの議員選挙に敗れた。かつて争ったソラージュに議席を奪い返されたのである。彼は議会の外で社会主義系の新聞に力を注いだ。言葉を武器にする彼には、演説する場所を失っても、書いて働く場所があった。
やがて1902年、ジョレスはカルモーで議席を取り戻す。ここからの彼は、議会の有力な演説家であると同時に、政治家たちの意見を結びつけ、新聞をつくる人物になっていった。
新聞をつくり、社会主義者をまとめる
1904年、ジョレスは仲間たちと日刊紙『リュマニテ』(L’Humanité)を創刊する。「人類」という意味を持つ題名を掲げ、階級の対立を社会全体の問題として訴えた。翌1905年には、対立していたフランスの社会主義諸派が統一政党をつくる。その中心にジョレスがいた。
同じ社会主義者の間にも意見の隔たりはあった。ジュール・ゲード(Jules Guesde)らと政治への参加の仕方をめぐって争い、統一した後も考えの違う仲間を説得しなければならなかった。ジョレスが得意とした演説は、そのまま政治的な決定を意味するものではない。新聞の編集も、議会での票集めも、地道に続ける必要があった。
「平和的」な植民地進出も、認めていた
国境の外に目を向けると、ジョレス自身にも支持し続けられなくなった政策があった。
1880年代の若い共和派議員だった彼は、政府の植民地政策を支持していた。社会主義の指導者となった後も、1903年ごろには、モロッコに軍事力ではなく道路や学校を通じてフランスが進出する構想を受け入れていた。外国への進出が「平和的」であれば正当化できる、と当初は考えていたのである。
しかし、フランス軍の行動、モロッコへの経済的圧力、他の欧州諸国との駆け引きが明らかになるにつれ、彼の考えは変わった。1911年のフェズ占領や翌年の保護国化に反対し、モロッコの人々が独立して生きる権利を擁護するようになる。
軍事力を使わない進出なら許されるという考えは、実際の占領や経済的圧力の前で揺らいだ。共和国を守ろうとしていた政治家が、その共和国の対外政策に反対するようになった。
兵役を長くしても、安全になるのか
同じ時期、欧州の国々は植民地や軍備をめぐって対立を深めていた。ロシアと日本の戦争、モロッコをめぐる危機、バルカン半島での戦争。ジョレスは、社会主義者どうしの国境を越えた連帯と、国家間の交渉によって戦争を避けようとした。
ジョレスは、平和を求めながら共和国の防衛をどう組織するかも考えた。1911年には『新しい軍隊』(L’Armée nouvelle)を刊行する。軍事力をただ増やせば戦争の危険が減るという考えを疑い、防衛と国民のあり方を考え直そうとした。
1913年、フランス政府は兵役期間を二年から三年に延ばそうとする。ジョレスは議会で反対した。長く兵営に若者を置けば、それだけで必要な防衛の仕組みができるのか。彼は予備役の訓練や組織も含めた改革を主張した。
法案は通過した。議会で人を説得してきたジョレスにも、この決定は覆せなかった。同年末には政府入りを打診されたが、社会主義者の分裂を懸念して断った。決定に参加する力を増やす道と、仲間との結束を守る道が、必ずしも一つにはならなかった。
戦争が迫る最後の一週間
1914年6月、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者がサラエボで殺害された。7月には各国の外交が行き詰まり、ヨーロッパの緊張は一気に高まった。
7月25日、ジョレスはリヨン近郊のヴェーズで演説し、欧州が危険な状態にあると警告する。ベルギーのブリュッセルでも各国の社会主義者たちと協議し、戦争を防ぐ方法を探った。ここでも彼が行ったのは、自分の考えを他人に伝え、合意できる相手を増やすという、長年続けてきた仕事だった。
7月31日の夜、パリのカフェ・デュ・クロワッサンでジョレスは新聞の同僚たちと食事をしていた。窓のすぐ外から、国粋主義者ラウル・ヴィラン(Raoul Villain)が拳銃を撃った。窓に背を向けて座っていたジョレスは、致命傷を負って間もなく亡くなった。五十四歳だった。
オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告したのは、彼が殺される三日前の7月28日だった。ジョレスの死後、8月3日にはドイツがフランスに宣戦布告し、戦争はさらに拡大した。最後まで協議と演説を重ねたジョレスは、フランスが参戦する直前に殺された。
殺害したヴィランは1919年の裁判で無罪とされた。ジョレスの息子ルイ・ポールも、その前年の1918年に戦争で命を失っている。1924年、ジョレスの遺骨はパリのパンテオンへ移された。政治的な立場の異なる人々が、その死と思想をめぐって争い続けた。
二十二年前の自分の演説を振り返ったとき、ジョレスは、政敵を寛大に判断するという教えを自分も守れなかったかもしれないと認めていた。炭鉱労働者に議会へ送り出され、社会主義者をまとめ、植民地政策への考えを変え、兵役延長を止められなかった政治家には、他人を説得しながら自分の判断も問い直してきた年月があった。その仕事は、戦争が終わるのを見ることなく断たれた。




