一人の人生を読む
終戦の日、旗を振る人々のなかで
1918年11月11日。第一次世界大戦の停戦が告げられた朝、ジークフリード・サスーン(Siegfried Sassoon)は、イングランドのカデズドン近くで川沿いの草地を歩いていた。村の教会から鐘が聞こえ、家々の窓には小さな旗が飾られていた。彼はその光景を日記に記し、戦争が終わったという事実を、まだ実感できないと書いた。
夕方にはロンドンへ出た。街路には旗を振る人々があふれ、地下鉄も混み合っていた。夜、友人リッチモンド・テンプル(Richmond Temple)に伴われた食事会でも、周囲の人々は祝賀に沸いていた。だがサスーンはその態度に反発し、ほかの客とも言い合いになった。日記には、長い戦争がこのような形で終わることへの嫌悪が残されている。
この日記を書いたのは、軍功十字章を受けながら戦争継続に抗議し、その抗議を撤回しないまま前線へ戻った32歳の将校だった。
詩を書き、狩りを楽しんだ青年が軍服を着る
サスーンは1886年、ケント州マトフィールド近郊のウィアリーという家に生まれた。父アルフレッドはバグダードに起源を持つユダヤ系商家の一族に属し、母テレサ・ソーニクロフトは彫刻家を多く出した家系の出身だった。両親は彼の幼いころに別居し、父は1895年に結核で亡くなった。サスーンは兄マイケル、弟ハモとともに育った。
少年時代は病気がちで、本を読み詩を書いた。ケンブリッジ大学に進んだものの学位を取らずに離れ、故郷では狩猟、クリケット、詩作に時間を費やした。自費で詩を印刷し、文芸の世界に近づいてはいたが、広く知られた詩人ではなかった。田園の生活や馬への愛着は、のちの自伝的な小説にも繰り返し現れる。
1914年8月、英国が第一次世界大戦に参戦したころ、サスーンは自ら軍隊に志願した。英国で一般的な徴兵制が始まるより前のことである。彼は騎兵部隊に入り、乗馬中の負傷を経て、翌年にはロイヤル・ウェルチ・フュージリアーズ(Royal Welch Fusiliers)の将校になった。
1915年11月、軍務の訓練中だったサスーンに、弟ハモがガリポリで戦死したという知らせが届いた。母に送った手紙には、文章にしようとしても頭が働かないほどの衝撃が表れている。その月、サスーン自身もフランスへ渡る。ほどなく、同じ連隊の将校で詩人でもあるロバート・グレーヴズ(Robert Graves)と親しくなった。詩を書くという共通点を持つ二人は、砲火の届く場所で友情を育てることになる。
「マッド・ジャック」が書き始めた詩
1916年春、サスーンは念願だった前線の勤務に就いた。危険を顧みない行動から、兵士たちに「マッド・ジャック」と呼ばれるようになった。敵の砲火の下で負傷者を助けたことなどが認められ、軍功十字章を受ける。
しかし、その戦争のなかで人を失ってもいた。1916年3月には親しい友人デイヴィッド・トマスが戦死し、サスーンも前線で病気や負傷を経験する。故郷で狩猟や自然を詠んでいた詩人の目には、今度は塹壕で傷つく人々が映っていた。
詩の書き方も変わり始めた。初期の端正な詩に代わり、兵士の体の様子、恐怖、軍隊で交わされる言葉などを細かく書き、時には皮肉で締めくくる。作品『彼ら』(They、題名仮訳)や『作業班』(A Working Party、題名仮訳)などには、詩の変化が現れている。率直な戦争批判を込めた詩の一つは、兵士の募集に影響するという理由で新聞への掲載を断られた。
前線と英国を往復するなか、サスーンは文学の支援者オットリン・モレル(Ottoline Morrell)と手紙を交わした。モレルは詩を書き写すための美しい手帳を彼に贈り、サスーンも手帳を返礼として贈った。彼女の交友圏には、戦争に批判的な思想家や作家がいた。サスーンの反発は前線の経験だけで完結せず、英国で交わされる議論ともつながっていった。
軍功を受けた将校の、命令への返事
1917年4月、サスーンはフランスのアラス近郊で負傷し、療養のため帰国した。6月には新聞編集者や作家、哲学者バートランド・ラッセル(Bertrand Russell)らと接触し、戦争を続ける政治の判断への抗議を公にするため、文章を練った。
6月15日にまとめた『ある兵士の宣言』(A Soldier’s Declaration)で、サスーンは、英国が防衛と解放のために始めた戦争が侵略と征服の戦争になっていると訴えた。前線の兵士が耐えてきた苦痛を、それを終わらせる権限を持つ人々が引き延ばしていると考えていた。戦争に加わった者として、兵士のために抗議するという意思を示したのである。
7月4日、所属する部隊から復帰を求める電報を受け取ると、サスーンは宣言文と書簡を返信した。命令に従わないことの重大さを知り、軍法会議になる覚悟も記していた。ところが、軍は彼を裁判にかけず、軍医による診察へ向かわせた。
抗議のさなか、サスーンは軍功十字章のリボンをマージー川に投げ捨てた。グレーヴズは、軍への抵抗を続けてもサスーンの望む公の軍法会議にはならないと、手紙で説得した。サスーンは結局、診察を受けることを受け入れた。
宣言は7月31日に新聞『タイムズ』に掲載され、議会でも読み上げられた。そのころサスーンは、エディンバラ近郊のクレイグロックハート陸軍病院に送られていた。兵士の神経症状などを治療する施設だった。軍は抗議した将校を軍法会議にかける代わりに、治療を受けさせた。
前線に残した部下たちのところへ
クレイグロックハートでは、医師ウィリアム・リヴァーズ(William Rivers)と出会い、若い詩人ウィルフレッド・オーウェン(Wilfred Owen)とも親しくなった。オーウェンはサスーンの詩から刺激を受け、病院の文芸誌にも関わった。戦場から離れた病院は、サスーンにとって、書いたものを他者に読んでもらい、戦争について話し合う場所になった。
それでもサスーンは病院に長くとどまることを選ばなかった。前線に残した部下たちへの負い目を感じていた。1917年秋、グレーヴズへの手紙では、宣言で示した考えを変えないまま戦場への復帰を望んでいる。戦争に反対することと、部下たちのもとへ戻ることを、彼は両方選ぼうとしていた。
1918年、彼はパレスチナへ、次いでフランスへ戻った。その後、前線で味方の兵士に敵兵と誤認されて頭を撃たれ、彼自身の戦闘は終わる。こうして迎えたのが、11月11日の停戦だった。
戦争を小説に書き直す暮らし
終戦後、サスーンは文筆家として生きる。社会主義系の日刊紙『デイリー・ヘラルド』(Daily Herald)の文芸編集を務め、詩を書き、欧米を旅した。1925年から1932年まで、ロンドンのカムデン・ヒル・スクエアに住んだ。その時期に書かれた半自伝的小説『狐狩り人の回想』(Memoirs of a Fox-Hunting Man、1928年)と『歩兵将校の回想』(Memoirs of an Infantry Officer、1930年)は、架空の人物ジョージ・シャーストンを主人公に、狩猟に熱中していた戦前の青年が戦争を経験するまでを追う。1936年の『シャーストンの歩み』(Sherston’s Progress)で三部作となった。後には、自分の名で綴る自伝も刊行している。
母テレサは『狐狩り人の回想』を読み、うれしそうに跳びはねながら本を読む自分の姿を手紙に描いた。詩を書く少年だった息子の本を、今度は母が楽しんでいた。
1929年、グレーヴズが発表を予定していた回想録の記述や、預けていた詩の扱いをめぐって二人は激しく対立した。母テレサの手紙にも、息子の怒りとグレーヴズへの不信が残っている。1915年に前線で出会った詩人同士の友情は、戦後の文壇では同じ形で続かなかった。
家族と別れ、詩は続いた
サスーンは戦後、男性たちと親密な関係を結んでいた。画家ガブリエル・アトキン(Gabriel Atkin)やスティーヴン・テナント(Stephen Tennant)との交際は、残された書簡にも現れる。1933年、彼はヘスター・ガティ(Hester Gatty)と結婚し、ウィルトシャーのヘイツベリーで暮らすようになった。
1936年、息子ジョージが生まれた。のちに息子は、父と過ごした幼い日のことを書き残している。その思い出には、著名な詩人の威厳とは離れた、運転のひどく下手な父親の姿もあった。
しかし結婚生活は続かなかった。1940年代にサスーンとヘスターは別居する。別居後も詩を書き続け、1951年には大英帝国勲章、1957年には女王詩歌金メダルを受けた。1957年にはカトリックにも改宗し、宗教をめぐる詩も書いた。
別れたヘスターとの手紙も途絶えなかった。1957年には詩と絵を添えた便りを送り、1966年には体調が悪いことを伝えながら訪問を断っている。
1967年9月1日、サスーンは胃癌で亡くなった。80歳だった。サマセット州メルズの聖アンドリュー教会に葬られ、1985年には第一次世界大戦の詩人たちを記念するウェストミンスター寺院の碑に名前が刻まれた。
停戦の日には群衆の歓声を受け入れられなかったサスーンが、のちには狩猟に熱中した青年の頃を小説にし、別れた妻には詩を添えて手紙を書いた。戦争を経験したあとの長い年月も、書くことは彼の暮らしの中にあった。




