一人の人生を読む
数学の基礎を探した人は、人生のルールにも疑問を向けた
バートランド・ラッセルは、一つの肩書に収まりにくい。
哲学者であり、論理学者であり、数学基礎論の研究者であり、社会批評家であり、反戦・反核運動の活動家でもあった。1950年にはノーベル文学賞を受賞している。
そして私生活では、四度結婚し、複数の恋愛関係を持った。
この二つを並べると、「論理学者なのに私生活は複雑だった」という軽い逆説にしたくなる。しかし、ラッセルの場合はもう少し深いところでつながっている。
彼は数学の前提を疑ったように、結婚の前提も、宗教の前提も、国家への服従も疑った。
問題は、前提を疑えば自由になれるとして、その自由を人間関係の中でどう生きるのか、ということだった。
三歳で両親を失う
1872年、ラッセルはイギリスのトレレックに生まれた。家は英国の政治に深く関わる貴族の家系だった。
しかし幼少期は安定していない。母と姉を失い、父も亡くなり、三歳ごろには両親ともいなくなった。その後は祖母のもとで育てられる。
学校へ通うのではなく、家庭教師を中心とした教育を受けた。宗教的で厳格な家庭環境の中で育ちながら、青年期には次第に信仰から離れていった。
1890年、18歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ入る。
そこでラッセルは、数学と哲学の世界に入っていく。
「数学は本当に確かなのか」を突き詰める
19世紀末から20世紀初頭、数学者や哲学者の間では、数学のもっとも基本的な土台をどう説明するかが大きな問題になっていた。
ラッセルは集合や論理を研究し、1901年には後に「ラッセルのパラドックス」と呼ばれる矛盾を見つける。単純に見えた集合論の中に、基礎そのものを揺らす問題があることを示した。
そこからアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドと長い共同研究を行い、1910年から1913年にかけて三巻の『プリンキピア・マテマティカ』を刊行する。
膨大な記号と論証を使って、数学を論理の体系から組み立て直そうとした本である。
この仕事によってラッセルは、20世紀の分析哲学と数理論理学を考えるうえで避けて通れない人物になった。
一方、そのころ私生活では、別の土台が崩れ始めていた。
39歳、結婚から離れる
ラッセルは1894年、22歳でアメリカ出身のアリス・ピアソール・スミスと結婚した。
しかし結婚生活の中で関係は次第に冷えていく。ラッセル自身は後年、自分の感情が突然変わったかのような印象的な回想を残しているが、それは本人による後からの自己解釈でもある。
確かなのは、1911年に二人が別居したことである。正式な離婚は1921年まで成立しなかった。
同じ1911年、ラッセルはオットリン・モレルとの関係を始める。
オットリンは単なる「愛人」としてだけ記憶される人物ではない。芸術家、作家、知識人が集まるサロンの中心人物で、ラッセルにとって恋愛関係が薄れたあとも長く重要な相談相手だった。
ラッセルはその後も複数の恋愛関係を持つ。
ここで注目したいのは、彼がそれを完全に私的な問題として閉じなかったことである。
彼は、なぜ結婚はこういう制度なのか、なぜ性について語ることが禁じられるのか、なぜ女性にだけ違う基準が課されるのか、という問題を文章にし始める。
ただし、その前に戦争が来た。
反戦したため、大学を追われる
1914年、第一次世界大戦が始まる。
ラッセルは戦争に反対した。とくに徴兵制に反対する運動へ関わり、文章を書き、講演し、政府の方針を批判する。
その代償は大きかった。
1916年には反戦活動を理由に罰金を科され、トリニティ・カレッジの職を失う。渡米も妨げられ、国内での移動にも制限がかかった。
1918年には別の反戦記事をめぐって六か月の禁錮刑を受け、ロンドンのブリクストン刑務所へ入った。実際に服役したのはおよそ五か月だった。
刑務所でラッセルは研究を止めなかった。そこで『数理哲学序説』を書いた。
「自由」という言葉がラッセルの人生で面白いのは、恋愛だけの話ではないからである。
結婚制度からの自由を求め、同時に国家に反対する自由も求めた。その結果、家庭でも大学でも国家とも衝突した。
ロシアへ行き、期待していた革命にも失望する
戦争が終わると、ラッセルは新しい社会の可能性を探した。
1920年にはロシアを訪れる。革命後のボリシェヴィキ政権に期待を持っていたが、実際に見た政治体制には強い失望を覚えた。平等を掲げても、自由が失われれば別の抑圧になると考えたからである。
その後、中国でも講義を行う。
1921年、アリスとの離婚が成立し、ドーラ・ブラックと結婚した。二人の間にはジョンとキャサリンが生まれる。
ラッセルとドーラは教育にも既存の常識を疑い、1920年代後半にはビーコン・ヒル・スクールという実験的な学校を運営した。
結婚、教育、政治、宗教。
ラッセルにとって「今そうなっている」というだけでは、制度を正当化する理由にならなかった。
57歳、『結婚と道徳』を書く
1929年、ラッセルは『結婚と道徳』(Marriage and Morals)を刊行する。
そこで彼は、当時のキリスト教的な性道徳を批判し、若者への性教育を支持し、女性にも男性と同じような自由が必要だと論じた。結婚についても、一つの固定した形式だけが道徳的だという考えに疑問を投げかけた。
ただし、ラッセルを「何でもありの自由恋愛を唱えた人」と理解するとずれる。
彼は性を食欲のような自然な欲求として認めながらも、感情や愛情から完全に切り離されたものとして軽く扱うことには否定的だった。
つまり彼の問題は、規則を全部なくすことではない。
誰が、何のために、その規則を決めているのか。
それを問い直すことだった。
この本が興味深いのは、著者自身が結婚生活をうまく整理できていたから書いたわけではない点にもある。
ドーラとの結婚もやがて破綻し、1935年に離婚する。翌1936年、ラッセルはパトリシア・スペンスと三度目の結婚をした。
思想が人生の正解を与えてくれるわけではなかった。
68歳、「そんな思想の人間に学生を教えさせるな」と言われる
1940年、ラッセルはニューヨーク市立大学シティ・カレッジで哲学を教える予定になった。
ところが任用が大きな政治問題になる。
ラッセルの無神論や『結婚と道徳』で示した性道徳観が攻撃され、訴訟にまで発展した。裁判所は、彼を学生に教えるのに「道徳的に不適格」とみなす趣旨の判断を示し、任用は実現しなかった。
ここで私生活と思想と職業が一つにつながる。
オットリンとの関係があったから『結婚と道徳』を書いた、と単純に因果を作ることはできない。
しかし、本人が生きた結婚の問題と、本人が公に論じた性道徳が無関係だったとも言いにくい。そして、その思想を社会がどう受け取ったかは、実際に彼の職業へ影響した。
彼が公にした思想は、本人の職業や社会的な立場にも返ってきたのである。
78歳、ノーベル文学賞
第二次世界大戦後、ラッセルはさらに広い読者を持つようになる。
『西洋哲学史』は専門哲学の外にも読者を広げた。難しい論理学だけでなく、宗教、教育、幸福、政治を明快な文章で論じる著述家として知られるようになる。
1950年、78歳でノーベル文学賞を受賞した。
受賞理由は、人道的な理想と思想の自由を擁護する多様な著作に対して、というものだった。
かつて反戦で大学を追われ、性道徳を理由に教職から排除された人物が、今度は「思想の自由」を理由の一つとして国際的に顕彰される。
その後も、ラッセルは戦後世界の政治問題へ入り続ける。
80代で、また政治の中心へ出ていく
1952年、パトリシアと離婚し、エディス・フィンチと四度目の結婚をする。ラッセルはすでに80歳だった。
この最後の結婚は、それ以前の結婚に比べて安定したものとして研究センターの伝記にも記録されている。
その一方、公共の場ではむしろ活動が激しくなる。
核兵器の危険が増すなか、1955年にアインシュタインらとともにラッセル=アインシュタイン宣言を発表。科学者に、人類そのものを危険にさらす戦争を避けるよう呼びかけた。
その流れはパグウォッシュ会議、核軍縮運動へ続く。
1961年、89歳になったラッセルは、反核運動をめぐって再び短期間投獄された。
1918年には第一次世界大戦への反対で刑務所へ入り、四十年以上たった1961年には核戦争への反対で再び刑務所へ入る。
意見を変えないというより、「権威がそう言っているから従う」という理由を、生涯ほとんど受け入れなかった。
自由は、簡単な言葉ではなかった
ラッセルの人生を「自由な人」とだけまとめると、重要なことが抜け落ちる。
自由は、本人にとって気持ちのいい価値だけではなかった。
結婚の自由を求めれば、相手との関係が壊れる。
戦争に反対すれば、職を失う。
性道徳を批判すれば、大学から排除される。
核兵器に反対すれば、老年になっても逮捕される。
そして、自分が望んだ自由が他者を幸福にするとも限らない。ラッセル自身、晩年には、自分が擁護した個人的自由が予想しなかった悪い結果を生むこともあったと考えていたと、マクマスター大学の研究センターは記している。
1970年、ラッセルは97歳で死去した。
彼の人生を追うと、「自由か規則か」という二択では終われない。
むしろ残るのは、もっと扱いにくい問いである。
自分の自由を求めながら、他者の自由や傷つきをどう引き受けるのか。
論理学、結婚、戦争、教育、宗教、核兵器。一見ばらばらな問題に、ラッセルは何度も同じ問いを向けていた。




