一人の人生を読む
15年軍人をしたあとで、心理学へ行く
チャールズ・エドワード・スピアマンは1863年、ロンドンに生まれた。現在では統計学の「スピアマンの順位相関係数」と、知能研究の「g因子」で名前が残っている。けれど、彼が最初から心理学者を目指して大学で研究していたわけではない。
18歳で学校を終えると、イギリス陸軍のロイヤル・マンスター・フュージリアーズに入った。インドなどで勤務し、軍人として過ごした期間はおよそ15年に及ぶ。後年の自伝では、この時期をかなり厳しく振り返っているが、その一方でStaff Collegeにも進み、軍務のかたわら哲学や人間の能力への関心を持ち続けた。
1897年、33歳のスピアマンは軍の常勤勤務を離れ、ドイツのライプツィヒへ向かった。実験心理学を学ぶためだった。当時のイギリスでは心理学はまだ哲学の一部とみなされることが多く、30代半ばから専門研究へ入る彼の経歴は、通常の大学研究者の道からかなり外れていた。
しかも転身は一直線では進まない。南アフリカ戦争が始まると軍へ呼び戻され、ガーンジーで勤務した。そこでフランシス・エイクマンと出会い、1901年に結婚する。軍務を離れたあと、ドイツへ戻るまでの数か月に、後の人生を決める小さな実験を始めた。
1902年、家から100ヤードほどの村の学校
1930年に書いた自伝で、スピアマンはこの時期を振り返っている。フランシス・ゴルトンの『Inquiries into Human Faculty』に刺激され、ある日、近くの小さな村の学校で実験を始めたという。
問いは素朴だった。学校で「頭がいい」と見なされる子どもは、別の知的課題でも同じように高く評価されるのか。そして、音の高さや光、重さの違いを見分けるような感覚の鋭さとも関係するのか。
1904年に発表した論文には、実験の様子がもう少し具体的に残っている。バークシャーの村の学校は自宅から100ヤードほどの距離にあり、最初の系列では年長の24人を対象にした。子どもたちは光、重さ、音の弁別を調べられ、異なる感覚の実験は別の日に行われた。
ここで大切なのは、一日のひらめきだけで「g因子」が完成したわけではないことだ。その後、子どもたちの複数の測定結果をどう比べるか、測定にはどの程度の誤差があるかを考え、数値の関係を扱う方法を組み立てていく。その積み重ねが1904年の二つの論文につながった。
「同じ人が、いろいろな課題で少しずつ強い」のはなぜか
スピアマンが注目したのは、異なる能力の成績が完全にばらばらではないことだった。
たとえば、ある種類の認知課題で高い成績を取る人は、まったく別の認知課題でも平均するとやや高い成績を取りやすい。すべての課題で必ず同じ順位になるわけではない。それでも、多くのテストの間には正の相関が見える。
この関係を扱うために、スピアマンは順位に基づいて二つの変数の対応を見る相関係数を発展させた。現在「スピアマンの順位相関係数」と呼ばれる方法である。値そのものの大きさではなく順位の並び方を見るため、今でも統計解析の基本的な道具の一つとして使われている。
そして彼は、複数の知的課題が相関する背景に、各課題へ共通して寄与する何かがあると考え、それを一般因子 g と呼んだ。一方で、語彙、計算、記憶など個々の課題には、それぞれに固有の成分 s もあるとした。
つまりスピアマンの二因子説は、「人間の能力は一つしかない」という主張ではない。異なる課題には固有の能力がありながら、それとは別に、多くの認知課題へ共通して現れる成分もあるのではないか、というモデルだった。
論文を書いたとき、まだ博士号を取っていなかった
1904年、スピアマンは二つの重要な論文を発表した。一つは相関の測定方法について、もう一つは一般知能についてである。
この時点で彼は40歳だったが、まだ博士号を取得していない。ライプツィヒでの博士研究そのものは空間知覚を扱っており、知能研究とは別のテーマだった。博士号を得るのは1906年である。
研究者の経歴は、後から見ると「軍人から心理学者へ転身し、gを発見した」と短くまとめられる。しかし実際には、30代半ばで学び直し、戦争で中断され、博士課程の途中で別の研究を発表し、それから大学の職を得ている。スピアマンの代表的な仕事は、整ったキャリアの最後に生まれたのではなく、まだ所属も資格も安定していない時期から始まっていた。
43歳で、ロンドンの小さな研究室を率いる
1907年、スピアマンはイギリスへ戻り、University College Londonで実験心理学のReaderとなった。心理学者ウィリアム・マクドゥーガルが離れたあとを引き継ぎ、小さな心理学研究室を率いる。
1911年にはGrote Professor of Mind and Logicに就任した。名前だけを見ると哲学の教授職のようだが、実質的には心理学研究を担うポストだった。1928年に独立した心理学部門が整うと、肩書きもProfessor of Psychologyへ変わる。
ここでスピアマンは、知能や個人差を数学的・実験的に研究する一群の研究者を育てた。後に「London school」と呼ばれる流れであり、その系譜にはレイモンド・キャッテルらが続く。1924年には王立協会フェローに選出された。心理学者として大学に入ってからまだ17年ほどだった。
1927年には『The Abilities of Man』を刊行し、それまでの能力研究と二因子説をまとめた。軍人だった30代前半までの経歴から考えると、心理学者として知られるようになるまでの時間は意外に短い。
gは「IQそのもの」ではない
スピアマンの g は、その後の知能研究で非常に大きな概念になった。そのため、しばしば「すべての知能を決める一つの能力」のように説明される。しかし、少し丁寧に見る必要がある。
gは目で直接見える器官ではない。複数の認知テストの成績が互いに相関するというデータから、その共通部分を説明するために置かれる潜在的な因子である。どのようなテストを使うか、どのような集団を測るか、どのモデルで分析するかによって、見える構造も変わる。
スピアマン自身の単純な二因子説は、その後そのまま残ったわけではない。ルイス・サーストンは複数の「一次的精神能力」を重視し、キャッテルは流動性知能と結晶性知能を区別した。現代の心理測定では、より複雑な階層モデルが使われることが多い。
それでも、異なる認知課題に共通する一般因子が現れるという問題そのものは消えなかった。むしろ後のモデルは、複数の能力を認めながら、そのさらに上位に一般因子を置く形でスピアマンの問いを引き継いでいる。
数字は、社会から切り離されていない
スピアマンが強く影響を受けたゴルトンは、相関や個人差研究の先駆者であると同時に、優生学を推進した人物でもあった。Wellcome Collectionに残るスピアマンのアーカイブ解説も、彼自身が当時の優生学運動と接点を持っていたことを記している。
これは、順位相関係数という統計手法や、認知課題の相関からgを考えること自体が、そのまま人種や社会階級についての結論になるという意味ではない。統計上の構造と、その構造を社会の違いへどう解釈するかは別の問題である。
ただ、能力を測る科学が生まれた時代に、誰を測り、何を「能力」と呼び、その数字を社会でどう使うのかという問いが最初から存在していたことは無視できない。後のIQ論争を理解するときにも、スピアマンの仕事は「gを発見した人」という一行だけでは収まりきらない。
軍人から始まった、測定の人生
1931年、67歳でUCLを退職したあとも、スピアマンは研究と執筆を続けた。1937年には二巻本『Psychology Down the Ages』を刊行している。
1940年代に入ると健康は悪化した。家族の死も重なり、失神を繰り返すようになった。1945年9月、肺炎でUniversity College Hospitalに入院していたスピアマンは、自ら命を絶った。82歳だった。
スピアマンの経歴で目を引くのは、心理学を始めるのが遅かったことだ。20代を研究室で過ごしたのではなく、30代半ばまで軍人だった。それでも、近所の学校で子どもたちの能力を測り始めた小さな研究から、心理学と統計学の両方に残る方法を生み出した。
彼が残した問いは、今も簡単には終わっていない。異なる能力の間に共通するものは何なのか。測定値は人間の何を捉え、何を取り逃がすのか。そして、数字として表した能力を、私たちは社会の中でどう扱うのか。
順位相関もg因子も、答えそのものというより、その問いを長く追い続けるための道具として残っている。



