「IQは70%遺伝する」と聞いたら、何が分かったことになるのか
「頭の良さは遺伝するのか」と検索すると、50%、70%、80%といった数字に出会うことがある。すると、かなり自然にこう読みたくなる。自分の知能の70%は親から受け継いだもので、残り30%だけが教育や努力で変わるのだ、と。
けれど、この読み方は正しくない。知能研究でいう遺伝率は、一人の人間を「遺伝でできた部分」と「環境でできた部分」に分割する数字ではない。ある集団の、ある環境の中で見られる人と人との違いが、遺伝的な違いとどの程度結びついているかを推定する統計量である。
この違いは小さく見えて、話をほとんど反対にする。知能に遺伝的な影響があることと、その人の未来が生まれた瞬間に決まっていることは同じではない。教育や栄養や社会環境が重要であることと、人と人との違いに遺伝が関係していることも矛盾しない。
では、なぜ私たちはこの二つを、これほど簡単に「遺伝か、環境か」という二択で考えてしまうのだろう。その問いの歴史をたどると、最初に現れる一人がフランシス・ゴルトンである。
ゴルトンは、「才能は家系に集まる」と考えた
19世紀のゴルトンは、天候、身体、感覚、指紋まで、さまざまなものを測って比較しようとした研究者だった。チャールズ・ダーウィンの『種の起源』を読んだのち、その関心は人間の能力の違いへ向かっていく。
1869年の『遺伝的天才』(Hereditary Genius)で、ゴルトンは裁判官、政治家、科学者など社会的に成功した人物の家系を調べた。著名な人物の親族にも著名人が多いなら、能力は遺伝するのではないか。現在から見れば粗い方法だが、「人間の能力差を家系のデータから調べる」という問いを、彼は正面から数量化しようとした。
ただし、ここには最初から大きな問題があった。19世紀イギリスで社会的に成功する可能性は、能力だけでなく、財産、階級、教育、人脈へのアクセスによって大きく違う。親と子が同じように成功しているからといって、それをそのまま生物学的な遺伝の証拠にはできない。
さらにゴルトンは、能力の遺伝という発想を、人間集団を意図的に「改良」する優生学へ結びつけた。ここでは、測定の問題と価値判断の問題が分かれないまま接続された。それでも、ゴルトンが残した問いそのものは消えなかった。人間の能力には、確かに個人差がある。その違いは、どこから来るのか。
ところが、この問いを科学として扱おうとすると、さらに前の問題にぶつかる。そもそも、「知能」として何を測っているのか。
その前に、「知能」とは何を測っているのか
この問題を大きく進めたのがチャールズ・スピアマンだった。
スピアマンは約15年を軍人として過ごしたあと、30代半ばから心理学へ転じた。1900年代初め、子どもたちに異なる課題を行わせ、その成績の関係を調べた。そして、語彙、計算、推理など違う種類の課題でも、成績は完全にばらばらにはならないことに注目した。
ある課題でよくできる人は、別の課題でも平均すると比較的よくできる。その共通する傾向を説明するために、スピアマンは一般知能因子gという考えを提示した。
ここで重要なのは、gが「頭の中にある一個の器官」ではないことだ。複数の認知課題の成績が一緒に動く傾向から、統計的に推定される共通因子である。IQもgそのものではなく、知能検査から算出される得点だ。
つまり、「知能は遺伝するか」という問いには、その前に「何を知能として測るか」という問いが入っている。この部分は別テーマの「知能・g因子」で詳しくたどっている。
スピアマン以後、知能を測る方法は精密になっていく。そして測定が安定してくるほど、次の問いが強くなる。同じ社会に暮らす人々のIQ得点に差があるとき、その差はどこから来るのか。
遺伝率は、「あなたの何%が遺伝か」ではない
ここで、遺伝率という言葉へ戻ろう。
仮に、ある研究でIQの遺伝率が60%と推定されたとする。この数字が意味しているのは、「その研究が対象にした集団と環境の中で見られたIQ得点のばらつきの一部が、遺伝的な違いと統計的に関連していた」ということである。だから、同じ人について「遺伝が60、環境が40」と分けることはできない。
さらに、遺伝率は環境から独立した定数でもない。たとえば、全員がほとんど同じ教育環境に置かれれば、教育環境の違いによるばらつきは小さくなる。その結果、残った個人差の中で遺伝的差異の占める割合が相対的に大きく見えることがある。逆に、栄養や教育機会が大きく違う集団では、環境差によるばらつきが大きくなりうる。
年齢によっても違う。約1万1000組の双生児を4か国から集めた研究では、一般認知能力の遺伝率は9歳で約41%、12歳で約55%、17歳で約66%と推定された。これは「17歳なら誰でも66%が遺伝で決まる」という意味ではない。むしろ、遺伝率そのものが発達段階によって変わりうることを示している。
遺伝率は、運命を測る数字ではない。集団の中にある違いを、ある条件のもとで説明するための数字である。
離れて育った双子は、なぜ似るのか
それでも、知能の個人差に遺伝が関係しているという証拠はかなり強い。
古典的な方法の一つが双生児研究である。一卵性双生児は遺伝的に非常によく似ている。二卵性双生児は、平均すればそれより遺伝的な共有が少ない。両者の似方を比較し、さらに養子研究や別々に育った双生児を調べることで、遺伝と共有環境の寄与を統計的に推定する。
1990年、トーマス・ブシャール(Thomas J. Bouchard Jr.)らは、幼い時期に離され別々に育った双生児を集めたミネソタ研究を報告した。100組を超える離別双生児・三つ子を調べ、その標本ではIQの分散のおよそ70%が遺伝的変異と関連すると推定した。
この「約70%」だけを抜き出せば、「IQは70%遺伝する」という見出しをつくれる。しかし、論文そのものはもっと複雑である。研究者たちは、遺伝的な違いが行動を通じて、その人が経験する「有効な環境」へ間接的に影響する可能性にも触れている。そして、強い遺伝的影響が見つかったからといって、子育てや教育の価値がなくなるわけではないとも書いている。
双生児研究は、「遺伝が関係しているか」という問いに強い証拠を与えた。一方で、どの遺伝子がどう働くのかを直接見ているわけではない。研究モデルには、双生児が経験する環境をどう扱うかなどの仮定もある。
だから20世紀後半から21世紀にかけて、問いはさらに進む。遺伝的な影響があるなら、DNAのどこにその痕跡があるのか。
その前に、知能の遺伝率が社会的な論争へ入っていった場面を見ておく必要がある。
ジェンセンは、「教育でどこまで変えられるか」を問うた
アーサー・R・ジェンセンは、最初から「遺伝ですべてが決まる」と主張するために知能研究へ入ったわけではない。1958年からカリフォルニア大学バークレー校で、文化的に不利な環境に置かれた子どもの学習や、学習能力の個人差を研究していた。
1960年代のアメリカでは、貧困や人種的不平等を教育政策によって改善しようとする試みが広がっていた。そこで問われたのは、教育によって学業成績やIQをどこまで変えられるのか、という実際的な問題だった。
行動遺伝学の研究に接したジェンセンは、1969年、教育学誌『ハーバード・エデュケーショナル・レビュー』(Harvard Educational Review)に「IQと学業成績をどこまで高められるか」(How Much Can We Boost IQ and Scholastic Achievement?)を発表した。補償教育の成果に疑問を呈し、IQの個人差には強い遺伝的影響があると論じた。
そして彼は、アメリカの黒人と白人の平均IQ得点差についても、遺伝的要因が関係している可能性を論じた。ここから論争は、個人差の研究を越えて、人種、教育政策、差別、科学の社会的責任へ広がった。
この歴史を避けて「知能の遺伝」を語ることはできない。しかし、ここで一つ、統計上の境界をはっきり引く必要がある。
個人差の遺伝率から、集団差の原因は分からない
ある集団の内部でIQの遺伝率が高いことから、二つの集団の平均IQが違う原因まで遺伝だと結論することはできない。これは政治的な配慮のために付け加える但し書きではなく、問いの種類が違うからである。
遺伝率が説明しようとするのは、特定の集団と環境の中で個人どうしに見られるばらつきである。一方、二つの集団の平均値が違う理由を考えるには、それぞれが置かれてきた教育、所得、健康、栄養、差別、歴史的条件なども含め、集団間で異なる条件を調べなければならない。
たとえば、ある植物の品種内で背丈の違いが強く遺伝していたとしても、二つの畑の平均的な背丈の差が土壌や水によって生じている可能性は残る。個体差を説明する原因と、集団平均を動かす原因は同じとは限らない。
この区別を置かないと、「遺伝率」という一つの数字が、本来は答えていない問いまで答えているように見えてしまう。そして、この違いを別方向から強烈に見せたのがジェームズ・R・フリンだった。
フリンは、時代そのものがIQ得点を動かすことを見つけた
フリンは心理学者として出発した人物ではない。政治哲学を学び、公民権運動に関わり、ニュージーランドの大学で政治学を教えていた。
彼がIQ研究へ入ったのは、ジェンセンの人種と知能をめぐる議論に反論するためだった。反対するなら、相手の研究を読まなければならない。そうして古い知能検査の標準化資料を調べているうちに、当初探していたものとは別の奇妙な現象に気づいた。
新しい時代の人々は、古い時代につくられた基準で採点すると、かなり高い得点を取る。
1984年、フリンは心理学専門誌『サイコロジカル・ブレティン』(Psychological Bulletin)に「アメリカ人の平均IQ――1932年から1978年の大幅な上昇」(The Mean IQ of Americans: Massive Gains 1932 to 1978)を発表した。アメリカの知能検査の標準化標本を比較すると、46年間で平均得点はIQ換算で約13.8点上昇していた。のちに「フリン効果」と呼ばれる現象である。
46年で13.8点という変化を、人間集団の遺伝的構成の変化だけで説明するのは難しい。学校教育、栄養、家族規模、仕事、都市化、科学技術、そして日常生活で抽象的な分類や仮説を使う機会の増加など、社会環境の変化が候補として考えられてきた。
ここだけを見ると、今度は反対方向へ走りたくなる。「では、知能は遺伝ではなく環境なのだ」と。しかし、それも早い。
「遺伝率が高い」と「平均が変わる」は両立する
フリン効果が動かしたのは、世代全体の平均である。遺伝率が扱う中心は、同じ集団の中にある個人差である。この二つは同時に成立できる。
ある世代の中で、誰が誰より高い得点を取るかという違いには遺伝的差異が強く関係している。一方で、その世代全体が置かれる教育、栄養、医療、生活様式、認知的要求が変われば、集団全体の得点水準が上がったり下がったりすることがある。
だからフリン効果は、「遺伝率の研究は間違っている」という発見ではない。むしろ、個人差の原因と平均値の変化を、同じ問いとして扱ってはいけないことを見せた。
ここまで来ると、「遺伝か環境か」という二択はかなり崩れている。20世紀の研究は、双生児や家族の似方から遺伝の影響を推定してきた。21世紀になると、研究者はDNAそのものを大量に読み、知能との統計的な関連を探せるようになった。
DNAを直接読むと、「知能遺伝子」は見つかったのか
答えは、単純な意味では「見つかっていない」である。
現代のゲノムワイド関連解析(GWAS)は、数十万、場合によってはそれ以上の人々のDNAを比較し、ある形質と統計的に関連する遺伝的変異を探す。2018年に約27万人を分析した大規模研究では、知能との関連が検出された205のゲノム領域が報告され、複数の方法によるマッピングから1000を超える遺伝子が関連づけられた。
これは「知能を決める1000個の遺伝子が発見された」という意味ではない。むしろ見えてきたのは、知能の個人差が高度に多遺伝子的だということだった。多数の遺伝的変異が、それぞれ非常に小さな効果を持ち、その組み合わせが統計的な差として現れる。特定の一個の遺伝子を持てば頭が良くなる、という構造ではない。
この点だけでも、「頭の良さは母親から遺伝する」といった単純な話からはかなり遠い。現代の研究が示しているのは、知能の個人差を母親由来の一つの経路や一つの染色体だけで説明する姿ではなく、ゲノム全体に分散した多数の小さな関連である。
多数の変異をまとめて、一人ひとりの遺伝的傾向を予測しようとするのがポリジェニック・スコア(PGS)である。しかし、これも未来を決める点数ではない。学習に使ったデータと、予測したい人の遺伝的背景や集団条件が異なると、予測精度が落ちうる。予測力そのものが、どのデータからモデルを作ったかに依存する。
DNAを直接読めるようになっても、科学は「生まれた瞬間に知能の上限が分かる」という方向へ進んだわけではない。むしろ、単純な決定論から遠ざかっている。
遺伝子と環境は、足し算の二つの箱ではない
「遺伝50%、環境50%」という言い方が分かりやすいのは、二つが独立した箱のように見えるからである。けれど、人は遺伝子だけを持って真空の中で育つわけではない。
ある子どもが本を読むことを好み、それを見た大人がさらに本を与える。ある活動が得意だから本人が繰り返し選び、その経験がさらに能力を伸ばす。反対に、周囲からの反応によって経験する環境が変わることもある。
このように、遺伝的な違いと関連する行動が、その人が選ぶ・引き出す・経験する環境と結びつくことを遺伝子‐環境相関と呼ぶ。また、同じ環境でも遺伝的背景によって影響の受け方が違う可能性を扱うのが遺伝子×環境相互作用である。
ここでは、遺伝と環境は「どちらが勝ったか」を競っていない。人の発達の中で、互いに関係しながら個人差をつくっている。
年齢とともに知能の遺伝率が高くなるという研究結果も、この観点から考えると違って見える。成長するにつれて、人は自分に合った活動や環境を選べるようになる。その結果、もともとの傾向と経験する環境が少しずつ対応していく可能性がある。
もちろん、これだけで年齢変化のすべてを説明できるわけではない。それでも、「遺伝率が上がる=環境の影響が消える」と読むより、人と環境の関係そのものが発達する、と考えた方が現代の研究に近い。
では、私は「頭のいい人」になれるのか
ここで、最初の疑問に戻ろう。
自分よりずっと頭のいい人がいる。では、自分もそこまで頭がよくなれるのか。
この問いに対して、「遺伝も環境も複雑に関係しています」とだけ答えるのは不十分である。現時点の研究から言えることは、もう少しはっきりしている。
まず、誰でも望むだけ一般知能を高められる、という証拠はない。成人の知能検査で測られる個人差にはかなり大きな遺伝的寄与があり、人と人との違いには一定の安定性がある。だから、努力さえすれば誰でもどんな水準にでも到達できる、と言うのも科学的ではない。
しかし、「生まれた時点ですべて決まっている」も違う。
教育には、知能検査で測られる認知能力を実際に押し上げる効果がある。42のデータセット、60万人を超える参加者をまとめた2018年のメタ分析では、通常の就学年数の範囲で、教育を1年多く受ける効果が研究方法によっておよそ1〜5 IQポイントと推定された。ただし、これは「1年勉強するたびに1〜5点ずつ永久に足される」という意味ではない。だからといって、50年勉強すれば50〜250点上がる、とそのまま足し算してよいわけではない。教育が長くなるほど追加の1年がもたらす効果が小さくなる可能性もあるし、専門知識や技能が伸びることと、一般知能が同じ割合で上がり続けることも別の話である。
つまり、答えはこうなる。
無限には変えられない。しかし、固定もされていない。
あなたは「別人の遺伝子を持つ自分」にはなれない。けれど、今測ったIQが、その人の知的な到達点そのものでもない。教育によって認知能力は動くし、知識、推論の仕方、語彙、専門技能のように、人生の中で大きく伸ばせる知的能力もある。
「頭のいい人になれるか」という問いに、科学は完全な自由も完全な決定も支持していない。
では、頭のいい相手を選べば、頭のいい子どもが生まれるのか
もう一つ、避けずに答えた方がよい問いがある。
もし知能に遺伝的な影響があるなら、知的能力の高い相手と子どもを持てば、知的能力の高い子どもが生まれやすいのではないか。
平均の話なら、はい、と答えるのが最も正確である。
親と子のIQには、はっきりした関係がある。古典的な家族研究のメタ分析では、両親の平均的なIQと子どものIQの相関はおよそ0.48と報告されている。数字そのものを覚える必要はない。意味としては、親が頭がいいほど、子どもも頭がよくなる傾向はかなりはっきりある。でも、親を見ただけで子どもの知能がだいたい分かるほどではない、というくらいである。知能の高い両親から、同じくらい高い子どもが必ず生まれるわけではなく、平均に近い子どもも普通に生まれる。
また、人は結婚相手を完全にランダムに選んでいるわけではなく、知能についても似た相手どうしが結びつく傾向がある。研究レビューでも、夫婦のIQにはある程度の似方が確認されている。
したがって、子どもの知能だけを考えるなら、知的能力の高い相手を選ぶことは、子どもの知的能力を平均としては高くする方向に働く。ここを曖昧にする必要はない。
ただし、「平均が上がる」と「この子は必ず頭がよくなる」はまったく違う。非常に知能の高い親から生まれた子どもも、平均すると親と同じ水準にとどまるわけではなく、社会全体の平均に少し近づく傾向がある。同じ両親から生まれた兄弟姉妹でも違いは生まれる。遺伝子の組み合わせ、発達、健康、教育、本人が選ぶ環境などが重なるため、個々の子どもの将来にはかなり大きな幅が残る。
ポリジェニック・スコア(PGS)が進歩しても、この事情は消えていない。現代の遺伝学は、親やDNAから子どもの知能を一点で予言できるところまでは来ていない。
だから、「頭のいい相手を選べば、頭のいい子どもが生まれやすいか」という問いと、「どの子どもがどこまで頭がよくなるかを予測できるか」という問いは分けなければならない。前者には、平均的には「はい」。後者には、まだかなり大きな不確実性がある。
教育を平等にすれば、知能の差もなくなるのか
ここには、少し残酷な話がある。
学校教育には、人々の認知能力を平均として底上げする効果がある。栄養、医療、安全な住環境、教育機会が改善されれば、社会全体として能力を発揮しやすくなる。それは重要な進歩である。
しかし、同じ国の同じ世代の多くが、似た期間の教育を受け、生活条件の差も小さくなっていけば、それだけで人と人との知能差まで消えるとは限らない。
全員の教育水準が上がれば、集団全体の平均は上がりうる。けれど、その集団の中で「誰が誰より高いか」という差は残りうる。そして環境のばらつきが小さくなれば、残った個人差の中で遺伝的差異と結びつく部分が、相対的に大きく見えることもある。
つまり、教育格差をなくせば、知能差もなくなる、とは言えない。 むしろ良質な環境を広く保障したあとに、それでも残る人と人との違いが、以前より目立つ可能性さえある。
これは、機会の平等を否定する理由ではない。反対である。教育や健康の格差によって失われる能力を減らすことには、それ自体に意味がある。
ただ、その先で別の問題が現れる。
不平等な社会なら、「この人が試験で負けたのは、十分な教育を受けられなかったからかもしれない」と考えられる。ところが、全員に同じような機会を与えたと社会が考えるほど、結果の差は「本人の能力の差」として受け取られやすくなる。
機会の平等が進むほど、残った結果の差を本人自身に帰属させたくなる。
人間に能力差があることを認めるなら、次に問われるのは、その差がある人間たちを社会がどう扱うのか、という問題なのである。
そして、「頭がいいこと」はいつまで重要なのか
ここまで見てきたように、人間の知的能力には個人差がある。その差には遺伝的な影響もあり、教育や環境によって動く部分もある。
しかし、最後にもう一つ考えておかなければならない。
そもそも、なぜ私たちはこれほどまでに「頭の良さ」の違いを気にするのだろう。
人間には、知能以外にもさまざまな違いがある。身体の大きさ、筋力、器用さ、記憶力、人を惹きつける力、危険を恐れない性質、他人の感情を読む力。けれど、どの違いが「重要な能力」とされるかは、いつの時代でも同じだったわけではない。
身体を使う仕事が社会の中心だった時代には、体力や身体能力が今より大きな意味を持った。近代以降、学校教育が広がり、試験による選抜が行われ、企業や官僚組織が巨大になり、知識を扱う仕事が増えていくと、読み、考え、抽象的な問題を解く能力の価値が高くなった。
現在、知能がこれほど重要に見えるのは、人間の本質として知能が絶対的に優れているからだけではない。
知能の高さを、学歴、職業、所得、社会的地位へ変換する巨大な社会装置の中に、私たちが生きているからでもある。
だから、教育機会を平等にしても知能差そのものは消えないかもしれない。そして環境条件が似るほど、生まれ持った個人差がかえって目立つことさえある。
けれど、そこで「では知能の高い人間が優れている」と結論する必要はない。それは科学が導いた結論ではなく、その時代の社会が、ある能力に高い値段をつけているということだからである。
そして、私たちはいま、その前提そのものが揺らぐ入口にいるのかもしれない。
人工知能は、文章を書き、計算し、情報を検索し、プログラムを書き、人間が長い教育によって獲得してきた多くの知的作業を代行し始めている。もちろん、これによって人間の知能が不要になると決まったわけではない。
しかし300年後の人々が、21世紀の知能論争を振り返ったとき、奇妙に感じる可能性はある。
仮に、電卓がすでに広く普及している時代に、「誰が最も速く筆算できるのか」をめぐって世間を二分するような論争が起こり、ときには暴力的な事件まで引き起こしながら、人々が「より速く手計算できること」の価値を争っていたとしたら、私たちは少し不思議に感じるだろう。
知能についても、同じことが起こるのかもしれない。
AIが多くの知的作業を代替する世界になれば、未来の人々は、「誰のIQが何点高いのか」「どの遺伝子が知能を高くするのか」をめぐって、これほど激しく争っていた時代があったのか、と21世紀を振り返るのかもしれない。
ゴルトン以来、私たちは100年以上にわたって、「人間の知能の違いはどこから生まれるのか」と問い続けてきた。その問いには、いまではかなり答えられる。
人間の知能には確かに個人差があり、その差には遺伝も環境も関わっている。知的能力の高い親からは、平均すれば知的能力の高い子どもが生まれやすい。教育によって能力を動かすこともできる。しかし、人間を好きなだけ賢くできるわけでも、親の知能から子どもの未来を決められるわけでもない。
けれど、もしかすると次に問うべきなのは、
「知能の差はどこから生まれるのか」ではなく、なぜ私たちの社会は、その差をこれほど重要なものにしているのか。
そして、その重要さはこれからも続くのか。
人間の能力を研究する科学が進むほど、最後に残るのは、人間をどう評価する社会を私たちはつくりたいのか、という問いなのである。



