一人の人生を読む
医師にも数学者にもならなかった22歳
フランシス・ゴルトン(Francis Galton)は1822年、バーミンガム近郊の裕福な家庭に生まれた。母方の祖父は医師・博物学者のエラズマス・ダーウィンで、チャールズ・ダーウィンとは親族にあたる。けれど、後に統計や遺伝研究で知られるゴルトンの出発点に、最初から一つの専門があったわけではない。
若いころは医学を学び、ロンドンの病院で臨床教育を受けた。18歳になるとケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進み、数学にも取り組む。ところが1844年、22歳のときに父が亡くなった。経済的に独立したゴルトンは、医師という決められた職業へ進まず、旅行、発明、地理、気象などへ関心を移していく。
後年の自伝を読むと、この時期の彼には「何を専門にするか」より、目の前にある現象を自分で確かめ、分類し、測ることへの欲求が一貫していたように見える。ただし、その対象が何になるかはまだ定まっていなかった。
地図の外へ出て、測る人になる
20代のゴルトンはエジプトや中東を旅したあと、さらに大きな探検を計画する。1850年、28歳で南部アフリカへ向かった。スウェーデン出身の博物学者チャールズ・ジョン・アンダーソン(Charles John Andersson)らとともに、当時ヨーロッパ側の地図では十分知られていなかった地域を進み、位置、地形、移動経路を記録した。
1853年に刊行した『熱帯南アフリカ探検記』(Narrative of an Explorer in Tropical South Africa)は、この旅をまとめたものだった。探検は王立地理学会から評価され、ゴルトンは若い地理学者として知られるようになる。同じ年、ルイーザ・ジェーン・バトラーと結婚した。以後、本格的な長期探検からは離れるが、野外で「知られていないものを測って記録する」という仕事の仕方は、その後も残った。
地理学で必要だったのは、印象ではなく位置と距離である。気象を調べるなら、風向、気圧、時刻をそろえなければならない。人間の違いを調べるなら、何らかの尺度をつくらなければ比較できない。ゴルトンの研究は分野を次々と変えるが、「ばらばらに見えるものを測定可能な形へ変える」という習慣は変わらなかった。
空気の動きを地図に置く
探検の次にゴルトンが深く入り込んだのが気象だった。19世紀半ば、各地から気圧や風向の観測値が集まり始めていたが、大量の記録をどう比較し、広域の天候として理解するかはまだ発展途上にあった。
ゴルトンは異なる地点で同時刻に測られたデータを地図上に配置した。1863年の『気象図法』(Meteorographica)では、こうした同期観測を使って大気の動きを視覚化し、高気圧を中心に空気が時計回りに流れ出す系を「高気圧(anticyclone)」と呼んだ。現在の気象学はもちろんゴルトン一人の発明ではないが、広域データを同じ座標の上に置き、パターンとして読む彼の方法は後の研究にもつながっている。
ここでは、個々の風や雲よりも、多数の観測値の関係が問題になる。この発想がやがて、人間の能力や身体の違いを大量のデータから考える仕事へ移っていく。
ダーウィンを読んで、「遺伝」へ向かう
1859年、チャールズ・ダーウィンが『種の起源』を刊行した。半世紀近く後に自伝を書いたゴルトンは、この本の出版を自分の「精神的発達」の大きな節目だったと振り返っている。内容を急速に読み込み、そこから遺伝と人間集団の変化について考えるようになったという。
これは後年の回想なので、一冊の本を読んだ瞬間に人生が変わったという場面へ脚色することはできない。ただ、その後の著作を見ると、関心がはっきりと「人の違いはどこから来るのか」へ集中していったことは分かる。
1865年に雑誌へ「遺伝的才能と性格」(Hereditary Talent and Character)を発表し、1869年、47歳で『遺伝的天才』(Hereditary Genius)を刊行した。ゴルトンは裁判官、政治家、科学者など、彼が「著名」と判断した人々の親族関係を集め、優れた能力が家系内に集中していると論じた。
ただし、ここには後世から見れば大きな問題がある。19世紀イギリスの地位や名声は、教育、財産、階級、人脈へのアクセスとも強く結びついていた。家族内に同じ職業的成功が続くことを、そのまま生物学的遺伝の証拠とはできない。それでも「人間の能力差を家系データから数量的に調べる」という問いは、その後の心理測定や行動遺伝学へ長い影響を残した。
1884年、一般の人が「測られる」場所
1884年、ロンドンのサウス・ケンジントンで国際健康博覧会が開かれた。ゴルトンは会場に人体測定研究所(Anthropometric Laboratory)を設けた。
残っている当時の記録用紙を見ると、そこで何をしていたかはかなり具体的に分かる。来場者は年齢、職業、出生地などを書き、視力や色覚、握力、引く力、両腕を広げた長さ、身長、体重、肺活量、音を聞き分ける能力などを次々に測られた。ゴルトンは後に、この博覧会でほぼ1万人を測定したと報告している。
この実験室の特徴は、病人を診断する場所ではなく、普通の来場者を大量に測ったことにある。一人の身体や感覚を理解するというより、何千人もの記録を並べて分布と関係を見る。そのためには測定方法をそろえ、数字として保存しなければならない。ゴルトンが探検や気象で使ってきた方法が、人間そのものへ向けられた瞬間だった。
人間の差を数字へ変える
大量の測定値を集めると、次に必要になるのは「関係」を表す方法である。親が平均より高い特徴を持つとき、子どもはどの程度似るのか。二つの測定値はどのくらい一緒に動くのか。ゴルトンはこうした問題を研究し、のちに回帰や相関として発展する統計的な考え方を押し進めた。カール・ピアソンらが後に数理的に整備した生物統計学は、この系譜の上にある。
一方、個人差への関心は指紋にも向かった。ゴルトンは大量の指紋を集め、形の分類や個人内での持続性を調べた。1892年には『指紋』(Finger Prints)を刊行する。指紋そのものを最初に発見したわけでも、個人識別への利用を一人で発明したわけでもない。それでも、分類と統計を通じて指紋を個人識別の実用的な体系へ近づけたことは、彼の重要な仕事の一つである。
測定対象は違っても、ここでも発想は似ている。個人の印象を言葉で語るより、比較可能な形式に変える。そして大量に並べることで、個体差の背後にある規則を探そうとする。
「測れる」から「望ましい」へ
問題は、ゴルトンが測定と価値判断を切り離さなかったことである。
人間の能力や身体的特徴には個人差がある。そこまでは観察と測定の問題である。しかしゴルトンはさらに、ある特徴を社会にとって「望ましい」と判断し、それを持つ人々がより多く子どもを残すよう社会が働きかければ、人間集団を改良できると考えた。1880年代には、その考えを表す言葉として「優生学(eugenics)」という言葉を用いるようになる。
晩年には優生学を自分の主要な仕事の一つとして公然と推進し、研究のために資金を提供した。ロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジ(University College London)では、その資金と死後の遺贈をもとに優生学研究が制度化され、カール・ピアソンらへ引き継がれていった。
現代から見れば、ここには科学的方法だけでは解決できない飛躍がある。どの特徴が「優れている」のかを誰が決めるのか。社会的成功の差を遺伝の差とみなしてよいのか。さらに、個人を測る統計から、誰が生まれるべきかという政策へ進んでよいのか。優生学はその後、強制不妊や人種差別を正当化する思想と制度に結びつき、深刻な被害を生んだ。
発見と過ちを、別々の人生にしない
ゴルトンは、探検家、気象研究者、統計の先駆者、心理測定の研究者、指紋研究者として、驚くほど多くの分野を渡り歩いた。その一方で、優生学という危険な思想の提唱者でもあった。
この二つを「前半は偉大な科学者、後半だけが間違いだった」と分けると、生涯の形を見失う。南部アフリカで位置を測り、ヨーロッパの気圧を同じ時刻の地図へ置き、博覧会の来場者を一人ずつ測り、家系と能力を表にする。対象は変わっても、ゴルトンは一貫して差異を記録し、比較し、規則を見つけようとした。
その姿勢は統計学や科学的測定に成果を残した。同じ姿勢が、人間の価値まで一つの尺度で並べられるという確信と結びついたとき、優生学へ進んだ。1911年、88歳で死去したあとも、両方の遺産が残った。
科学史の中でゴルトンを読む難しさは、発見と過ちのどちらかを消せないことにある。彼が残したものは、測定することの力だけではなく、測れたものにどんな意味を与えるかは、測定そのものとは別の問題であるという警告でもある。




