一人の人生を読む
名前が変わった少年
エリク・ホーンブルガー・エリクソン(Erik Homburger Erikson)は1902年6月15日、ドイツのフランクフルトに生まれた。母カーラ・アブラハムセンはデンマーク出身のユダヤ人で、夫とはエリクが生まれる前から別れて暮らしていた。のちに母が小児科医テオドール・ホーンブルガーと再婚すると、少年は継父の姓を名乗るようになる。さらにアメリカ市民権を申請する時期には、自ら「エリクソン」という姓を選んだ。
後年、「アイデンティティ」という言葉と強く結びつけられる研究者の人生には、出生時から名前と家族の問題があった。ただし、そこから彼の理論を一直線に説明することはできない。若いエリクソンが最初に選んだのは心理学ではなく、美術だったからである。
カールスルーエの古典ギムナジウムを卒業すると、美術学校で学び、ミュンヘンの美術アカデミーにも在籍した。その後は各地を旅しながら絵を描いた。大学で心理学を専攻し、学位を取り、研究者になるという経路はまだ存在していない。20代前半の彼は、職業的な行き先の定まらない若い画家だった。
25歳、ウィーンで子どもを教える
1927年、25歳のエリクソンはウィーンへ行った。そこで旧友を通じ、精神分析家たちの子どもが通う小さな私立学校で教えることになる。学校はアンナ・フロイト(Anna Freud)らの精神分析の世界と近く、エリクソンは彼女のもとで自ら精神分析を受け、やがて児童分析家として訓練を始めた。
これは大学の心理学部へ入学したという話ではない。絵を学び、旅をしていた青年が、子どもを教える仕事を入口に精神分析へ近づいたのである。ウィーン大学では美術や美術史、心理学などの授業も受けたが、一般的な大学課程を修了しなかった。医学生になった時期もあったものの、それも途中でやめている。
1930年、28歳でカナダ出身の舞踊家・芸術家ジョーン・サーソンと結婚した。1933年にはウィーン精神分析研究所の正会員となる。しかし同じ年、ナチスがドイツで政権を握り、ユダヤ系の家族にとってヨーロッパの状況は急速に危険になった。夫妻は二人の幼い子どもを連れてアメリカへ移住し、ボストンに生活の拠点を移した。
31歳、学位のない分析家としてアメリカへ
アメリカでエリクソンを支えたのは、すでに身につけていた児童分析の技術と、精神分析家たちのネットワークだった。ケンブリッジの自宅で臨床を始め、マサチューセッツ総合病院、ジャッジ・ベイカー・クリニック、ハーバード心理学クリニックへ仕事が広がっていく。ハーバードでは研究員に大学院での学修が求められたため、1933年に心理学の大学院生として登録した。
ところが、ここでも学位への道は続かなかった。当時の心理学科が重視した数量的・実証的な研究方法と、自分が人間を理解するために使いたい方法が合わず、1936年に博士号を取らないまま離れた。34歳だった。同年、イェール大学の人間関係研究所へ移り、精神分析だけでなく文化人類学を含む学際的な研究環境に入る。
イェール時代には、サウスダコタ州パインリッジのオグララ・スーの居留地を訪れ、子育てのあり方を観察する機会も得た。ハーバード大学の追悼記録は、この経験が、子どもの発達を内面の力だけで説明するのではなく、現実の環境や文化を重視する方向へ彼を動かしたと記している。エリクソンの関心は、子どもの心の内部だけでなく、その子がどんな社会の中で育つのかへ広がっていった。
子どもだけではなく、社会を見る
1939年、37歳でカリフォルニア大学の児童福祉研究所へ移った。そこでは青年の発達を長期間追跡する研究に関わったが、大量のデータを共同で処理する方法より、一人ひとりの事例を詳しく組み立てる方法を好んだ。研究への関与を次第に減らし、1944年にはサンフランシスコ地域での臨床を再び中心にしている。
この時期に書かれたのが、1950年刊行の『幼児期と社会』(Childhood and Society)である。フロイトの精神分析を出発点にしながら、人の発達を幼児期だけで閉じず、社会との関係の中で生涯にわたって考える枠組みを示した。のちに「心理社会的発達の八段階」として広く知られる理論で、青年期にはアイデンティティをめぐる課題、成人期には親密性や世代性、老年期には統合と絶望といった問題を置いた。
この理論は、人生を八つの箱へ機械的に分けるための一覧表として読むだけでは捉えにくい。エリクソンが重視したのは、身体の成熟だけでなく、家族、学校、仕事、文化、歴史といった社会的条件との相互作用だった。人は幼児期だけで完成するのではなく、成人後も別の関係や役割の中で課題に出会い続ける。彼は発達を見る時間の幅を伸ばした。
1950年6月1日、忠誠宣誓について書く
1950年、カリフォルニア大学では、教員に特別な忠誠宣誓への署名を求める問題が続いていた。冷戦初期、共産主義への警戒が強まるなかで、大学教員の雇用に政治的な宣誓を結びつけることへ多くの教員が反発した。エリクソンもその一人だった。
5月8日には、大学の忠誠宣誓問題を調べていたジョージ・スチュワートの聞き取りに応じた記録が残る。そして6月1日、エリクソンは大学の特権・身分保障委員会に向けた声明をまとめた。この日付は後世の伝記研究と、のちに『Psychiatry』へ掲載された文書によって確認できる。
そこで彼が焦点を当てたのは、自分の職の安全だけではなかった。若い人が、ものを考えるよう教えるはずの教師たちが政治的なテストを受ける姿を見たとき、何が起こるのか。公に求められる「正しい答え」と、自分の内部にある疑問とのあいだに裂け目ができることを、発達の問題として捉えたのである。
この一日について、どの部屋で書いたのか、委員会の前で全文を読み上げたのか、誰がどんな表情で聞いたのかまでは確認できない。そこを場面らしく補うことはしない。それでも、1950年6月1日付で、自分の研究対象である若者の人格形成と、いま自分が置かれている大学制度の問題を同じ文書の中で結びつけたという具体的な行為は残っている。
忠誠宣誓問題をめぐるエリクソンの大学内での身分は少し複雑である。1950年中の心理学部門からの離脱と、その後も続いた研究上の立場を区別する資料がある一方、ハーバード大学の追悼記録は、当局が彼を直ちに免職しなかったことと、1951年に大学を離れてオースティン・リッグス・センターへ移ったことをまとめて記している。ここでは一つの「辞職日」に単純化せず、忠誠宣誓への抵抗を経てカリフォルニアを離れた、と捉える。
「アイデンティティ」を青年期から生涯へ
エリクソンの名をもっとも広く残した語は「アイデンティティ」と「アイデンティティ危機」だろう。だが彼が考えたアイデンティティは、単に「自分らしさを見つける」という標語ではない。自分がこれまで何者であったか、周囲から何を期待されているか、これから何になろうとするのかを、社会との関係の中でつなぎ直す問題だった。
青年期はその緊張が強く現れる時期だが、人生はそこで終わらない。若い成人には他者との親密な関係、成人期には次世代を育てたり仕事や社会へ何かを渡したりする「世代性」、老年期には自分の人生を一つのものとして引き受けられるかという課題がある、とエリクソンは考えた。
同時に、その段階論は20世紀半ばの欧米社会を背景に作られた理論でもある。現代では、発達の順序や年齢、家族や仕事の形を一つの標準へ当てはめることには慎重さが必要になる。それでも、人生の後半にも変化と課題があるという視点は、発達を幼児期だけの問題にしないための大きな転換だった。
学位を持たない教授
1960年、58歳のエリクソンはハーバード大学へ戻り、人間発達学教授と医学部精神医学講師になった。この時点でも、通常の大学学位を一つも取得していなかった。かつて博士課程を途中で離れた大学が、二十数年後には彼を教授として迎えた。就任時にハーバードから名誉修士号を授与され、1978年には名誉法学博士号も受けている。
大学では人間のライフサイクルを扱う授業を行い、1960年代には『洞察と責任』『アイデンティティ――青年と危機』『ガンディーの真理』を相次いで刊行する。1969年の『ガンディーの真理』は、翌1970年に全米図書賞とピュリツァー賞一般ノンフィクション部門を受賞した。
その年、67歳でハーバード大学を退職し、名誉教授となった。若いころに大学教育の標準的な経路から外れ、30代には博士号を取らずハーバードを去った人物が、同じ大学で教授として10年間教えたことになる。ただし、これは「学歴など要らなかった」という話ではない。精神分析の訓練、臨床現場、研究機関、同僚や支援者、複数の大学という制度的な足場が、学位とは別の形で彼の仕事を支えていた。
老年まで続く発達
退職後もエリクソンは書き続けた。晩年には、自分が提示したライフサイクルを老年の側から振り返る仕事へ進む。『ライフサイクル、その完結』では、人生の最後まで発達を考えるという自身の主題に戻った。妻ジョーンも長く研究と執筆に関わり、後の増補版には彼女による老年期についての章が加わっている。
1994年5月、エリクソンはマサチューセッツ州ハーウィッチで91歳で亡くなった。画家を目指した20代、子どもを教えたウィーン、学位を取らずに離れたハーバード、文化と発達を結びつけたイェールとカリフォルニア、忠誠宣誓をめぐって自分の研究と職場の現実を重ねた1950年、そして教授として戻ったハーバード。彼の経歴そのものが、職業や所属を一度決めたら終わる人生ではなかった。
エリクソンの八段階を、そのまま誰にでも当てはまる人生表として使う必要はない。むしろ残るのは、人は幼児期だけで完成するのではなく、青年になっても、働き始めても、子を育てる年齢になっても、老いても、社会との関係の中で自分の生を組み替え続ける、という長い時間の見方である。




