一人の人生を読む
白いラットと、突然の金属音
1920年、ジョンズ・ホプキンス大学でジョン・B・ワトソン(John B. Watson)とロザリー・レイナー(Rosalie Rayner)は、ひとりの乳児を相手に実験をしていた。論文では「アルバート・ビー(Albert B.)」と記された、生後1年に満たない子どもである。
最初に白いラットを見せたとき、アルバートは強い恐怖を示さなかった。ところが生後11か月を過ぎたころから、アルバートがラットへ手を伸ばす瞬間に、背後で鉄の棒をハンマーで叩き、大きな音を鳴らすようにした。音には泣いて反応する。ラットと音を繰り返し組み合わせると、やがてラットだけを見せても、アルバートは身を引き、泣き、逃れようとする反応を見せたとワトソンたちは報告した。
その後、二人はウサギや犬、毛皮などにも反応が広がるかを試した。時間を置いても一部の反応が残ることも調べた。ただし、計画していた恐怖反応の除去までは実施できなかった。アルバートが病院を離れたためである。
のちに「リトル・アルバート(Little Albert)実験」と呼ばれるこの研究は、心理学史のなかで何度も語り直されることになる。現代から見れば、乳児に恐怖反応をつくろうとする手続きそのものに強い違和感がある。しかも、一人の乳児を使った短い実験から、人間の感情全体についてどこまで言えるのかという問題も残る。
それでも、この実験はワトソンという人物を考える入口になる。7年前の1913年、彼は心理学の理論的な目標を、行動の「予測と制御」に置いていた。その言葉を乳児の感情にまで広げると、何が起きるのか。ワトソンの生涯は、この問いが研究室から社会へ出ていく過程でもあった。
「心」ではなく、行動を見る
ワトソンは1878年1月9日、サウスカロライナ州トラベラーズ・レストに生まれた。農村の暮らしは経済的に厳しく、父はワトソンが十代前半のころに家族のもとを去った。後年のワトソンは、自分を子どものころから優秀だった人物としては語っていない。むしろ、素行が悪く、学校の成績も振るわなかったという自己像を残している。
16歳でファーマン大学へ入り、1899年に修士号を得ると、シカゴ大学へ進んだ。そこで彼が研究したのは、抽象的な「心」より、ラットがどう成長し、どう学び、神経系と行動がどう結びつくかという問題だった。1903年に心理学の博士号を取得した後も、動物の感覚や学習を調べ、鳥の帰巣行動を野外で観察した。
当時の心理学では、人が自分の意識内容を報告する「内観」が重要な方法だった。ところが、ラットや鳥を研究するワトソンにとって、その方法は扱いにくい。動物が何を「意識しているか」を推測しなくても、どんな刺激のときに何をするのか、どう学習するのかは観察できるからである。
1908年、ワトソンはジョンズ・ホプキンス大学へ移った。そして1913年、「行動主義者から見た心理学(Psychology as the Behaviorist Views It)」を発表する。冒頭で彼は、心理学を「客観的な実験自然科学」と位置づけ、その理論的な目標を行動の予測と制御に置いた。内観は必須ではなく、人間と動物のあいだに方法上の大きな境界を設ける必要もないとした。
これは「心は存在しない」という単純な宣言より、心理学が何を証拠として扱うのかを変えようとする提案だった。人が自分の内面をどう説明するかより、外から観察でき、条件を変えれば比較できる行動を研究の中心へ置く。心理学を、再現可能な実験へ近づけようとしたのである。
同時に、ワトソンの構想には最初から実用への欲望があった。1913年の論文で彼は、心理学の知識が教育者、医師、法律家、そしてビジネスの人々にも役立つ未来を描いている。のちに広告業界へ移ったことは大きな断絶だったが、「使える心理学」への関心までそのとき突然生まれたわけではなかった。
科学を研究室の外へ出す
第一次世界大戦は、その実用志向を別の場所で試す機会になった。1917年、少佐となったワトソンは、航空要員を選抜するための非医学的な方法を検討する心理学者たちの仕事に加わった。反応時間や動作の正確さなどを測り、誰がどの任務に適しているのかを判断しようとする試みだった。
ワトソンは、航空要員選抜を検討する大きな委員会活動の一員としてこの仕事に加わった。人の行動を測定し、将来の遂行を予測し、制度上の選抜へ結びつける発想は、1913年に掲げた心理学像とよく重なる。
戦後、ワトソンはジョンズ・ホプキンスへ戻り、1919年には『行動主義者の立場からの心理学(Psychology from the Standpoint of a Behaviorist)』を刊行した。研究対象も、動物から人間の乳児へ広がっていく。人の感情は生まれつき決まっているのか。それとも経験によって条件づけられるのか。翌年のアルバートの実験は、その問いを直接扱ったものだった。
白いラットと大きな音を組み合わせた研究は、少なくとも「経験によって新しい恐怖反応が形成されうる」という可能性を示そうとした。一方で、ワトソンがそこから期待した人間形成の可能性は、一つの実験よりずっと大きかった。
この差は、後の彼を読むうえで重要になる。ワトソンは観察できる小さな反応を重視した研究者でありながら、環境が人間をどこまで作れるかについては、しばしば大胆な言葉を使った。
大学を失い、舞台が変わる
リトル・アルバート論文の共著者ロザリー・レイナーは、研究上の協力者であると同時に、ワトソンの人生を大きく変える人物になった。当時、ワトソンには妻メアリー・アイクス・ワトソンがいたが、ロザリーとの関係が公になり、離婚問題は新聞にも取り上げられた。
1920年、この騒動と大学側の対応によって、ワトソンのジョンズ・ホプキンスでの職業人生は終わる。離婚後、彼はロザリーと結婚した。研究者として急速に地位を築き、行動主義の顔になっていた42歳の心理学者は、以後、大学の常勤研究職へ戻らなかった。
ここでワトソンの生活は確かに切れる。実験室も、大学での職位も、学術研究を日々の仕事にできる環境も失った。しかし、彼が1913年から繰り返していた「行動を予測し、制御し、その知識を実際に使う」という構想まで消えたわけではない。
次の舞台は、ニューヨークの広告会社だった。
広告でも「予測と制御」を売る
ワトソンはジェイ・ウォルター・トンプソン社に入り、広告の実務を学んだ。市場調査、商品の魅力を調べる試み、広告キャンペーン、販売や消費者行動についての講演や文章。大学で論文を書くのとは異なる仕事をこなし、1920年代半ばには副社長へ昇進した。
後世には、ワトソンが感情に訴える広告や著名人の推薦、マーケット・リサーチを「発明した」とする話も広まった。しかし広告史の研究を見ると、そうした手法の多くは彼一人から始まったものではない。むしろ興味深いのは、行動主義者としてすでに全国的な名声を持っていた人物が広告会社へ入り、「科学的に消費者を理解する」という企業側の願望と結びついたことである。
1913年、ワトソンは、刺激が分かれば反応を予測し、反応が分かれば刺激を推定できるような心理学を夢見ていた。広告の現場では、その理想が別の形を取る。どんな商品、言葉、図像、反復が、人をある行動へ向かわせるのか。大学を失った後も、問いの形式は驚くほど似ていた。
ただ、広告の現場で行動を予測・制御することは、実験室よりはるかに複雑だった。消費者は実験室のラットのように同じ刺激へ同じ反応を返すわけではないし、広告効果には社会、所得、習慣、競合商品、文化など多くの条件が絡む。ワトソンが広告会社にもたらしたものの一つは、万能な制御技術より、「人間の行動を科学的に扱える」という期待そのものだった。
行動主義が家庭へ入る
大学を離れてからも、ワトソンは心理学について書き、講演し、ニューヨークのニュースクールでも教えた。1924年には『行動主義の心理学(Behaviorism)』を刊行し、行動主義を専門家の外へ広げていく。この本の改訂版は、現在『行動主義の心理学』として日本語でも読むことができる。
そして1928年、ロザリーの協力を得て『乳幼児の心理的ケア(Psychological Care of Infant and Child)』を刊行した。ここで「環境によって人の行動を形づくる」という考えは、研究室や企業から家庭へ入っていく。
ワトソンの助言は、今日読むと驚くほど身体的な愛情表現を抑えるものだった。子どもを小さな大人のように扱い、親は客観的で、親切ではあっても毅然として接する。抱きしめたり、膝に乗せたり、頻繁にキスしたりすることを避けるよう勧めた。愛情そのものを否定したというより、過剰な愛情表現が依存を条件づけると考えたのである。
ここでは「予測と制御」という言葉が、科学方法論から生活の規範へ変わっている。ある刺激や応答の関係を観察するだけでなく、親が環境を整えれば、望ましい大人へ子どもを形成できるという期待が入る。
後の世代には、家庭で身体的な愛情表現が少なかったという証言も残っている。そこには、ワトソンが公に勧めた育児観と重なる部分がある。ただし、こうした家族の記憶だけで、ワトソン家の関係全体を一つの理論の結果として説明することはできない。
ワトソンは、観察できる行動を実験で確かめることを心理学の基準にした。しかし育児論では、限られた観察から、親がどのように子どもを育てるべきかという規範にまで踏み込んだ。方法の厳格さと、環境の力に対する大きな信念の距離は、ここでさらに開く。
制御を語った人が残した、制御できない記録
1935年、ロザリーは肺炎で突然亡くなった。ワトソンはその後も広告業界で働き、1945年に引退する。晩年はコネチカットの田園地帯で比較的静かに暮らした。1957年、アメリカ心理学会が彼の心理学への貢献を顕彰した際にも、本人は会場へ姿を見せなかったという。
翌1958年9月25日、ワトソンは80歳で亡くなった。その少し前、彼は個人的な書類や研究資料を焼いたと伝えられている。
それでも、記録がすべて消えたわけではない。アメリカ議会図書館には現在も、ワトソンの講演や論文、少数の書簡、ロザリーの文章などを含む資料群が残る。彼自身が残した論文や著書も、後の心理学者や歴史家によって読み直され続けている。
死の翌年、後の行動主義を代表する心理学者B・F・スキナーは『サイエンス(Science)』誌でワトソンを追悼した。スキナーは、行動そのものを独立した科学の対象へ押し出したワトソンの転換を高く評価した一方、極端な環境決定論や冷淡な育児論までが、行動科学から必然的に導かれるわけではないと切り分けた。
スキナーが示した区別は、ワトソンの生涯にも見えている。観察できる行動を証拠として扱い、条件を変え、反応を測り、再現可能な心理学をつくろうとする方法は、20世紀の心理学を大きく動かした。一方、そこから「人間を望む方向へ形づくれる」という確信までは、同じ一歩ではない。
「アルバート」は誰だったのか
ワトソンの死から半世紀以上が過ぎた21世紀、リトル・アルバート実験には別の問いが持ち上がった。論文で「アルバート・ビー」とされた乳児は、実際には誰だったのか。
研究者たちは病院記録や人口記録、当時の映像などをたどり、ダグラス・メリット(Douglas Merritte)という子どもではないかという説を提示した。さらに、その子に神経学的な障害があった可能性や、ワトソンがそれを知っていたのではないかという疑いまで論じられた。
しかし2014年には、別の研究者たちがその証拠を再検討し、アルバート・バーガー(Albert Barger)という別の子どもの方が条件に合うと論じた。神経学的障害や研究不正をめぐる主張にも異論が出た。現在、リトル・アルバートの歴史は、教科書に載る一行ほど単純ではない。
身元をめぐる再検討とは別に、乳児に恐怖反応を条件づけようとした実験の倫理問題は残る。そのうえで、観察可能な事実を重視したワトソンの代表的な研究でさえ、百年後には「その子が誰だったのか」という基本情報をめぐって再検討が続いている。
科学は記録を残せば自動的に確実になるわけではない。何を記録したのか、何を記録しなかったのか、後の人がその記録をどう結び直すのかによって、歴史の像は変わる。
ワトソンが掲げた「予測と制御」は、研究室から軍、広告、家庭へ広がった。だが、リトル・アルバートの身元さえ後世に再検討され、燃やした資料の外にも記録が残り、自分の理論も後継者から修正された。
行動を科学として見る方法を広げた人は、その方法が社会でどこまで使えるのかという、さらに大きな問いまで残したのである。



