心は見えない。それでも科学にできるのか
心理学は、いつ始まったのだろう。
教科書では、しばしば「1879年、ヴィルヘルム・ヴントがライプツィヒに心理学実験室をつくった」と説明される。たしかに1879年は重要である。けれど、それを心理学の「誕生日」にしてしまうと、もっと面白い問題が消えてしまう。
そもそも、目に見えない心をどうやって科学の対象にするのか。
温度なら温度計で測れる。星なら望遠鏡で見られる。身体なら解剖できる。
では、注意、記憶、感情、夢、思考はどうするのか。
本人に「いま何を感じましたか」と聞くのか。反応時間を測るのか。症状や夢から本人も知らない心を推測するのか。それとも、心の中を語ること自体をやめ、外から観察できる行動だけを研究するのか。
19世紀末から20世紀前半の心理学は、この問いに一つの答えを出して完成したのではない。
何を「心」と呼び、何を「証拠」と認めるのかを、何度も作り替えることで成立していった。
その流れを、5人の人物からたどってみよう。
ヴントは、心を実験室へ入れた
1875年、ヴィルヘルム・ヴントはライプツィヒ大学の教授になった。
彼が来る前から、心を数量的に研究しようとする試みはあった。エルンスト・ウェーバーは刺激の差を人がどのように感じ分けるかを調べ、グスタフ・フェヒナーは物理的な刺激と主観的な感覚の関係を測ろうとした。生理学者ヘルムホルツも、神経や感覚の研究を進めていた。
だから、1879年に突然「科学的な心理学」が無から生まれたわけではない。
ヴントが大きく変えたのは、心を実験する仕事を、継続的な研究制度にしたことだった。
ライプツィヒでは、音や光のような刺激を条件をそろえて提示し、反応までの時間を測ったり、感覚の違いを比べたりした。クロノスコープのような時間を測る器具も使われた。
たとえば、合図となる音を聞いた人に決められた反応をしてもらい、音が鳴ってから反応するまでにどれくらい時間がかかったかを測る。条件を変えて時間を比べれば、注意や判断のように直接は見えない働きを、少なくとも「反応に現れた時間の違い」として調べられる。
心そのものを机の上へ置くことはできない。それでも、刺激をそろえる → 反応を測る → 条件を変えて比べるという手続きを作れば、心について検討できる事実が残る。
そこには器具があり、学生が集まり、博士論文が生まれ、その学生たちが各地へ散っていった。
哲学者が書斎で心を論じるだけではない。条件をそろえ、観察し、測り、他の研究者が同じ問題を検討できる場所をつくる。
心理学はここで、「問い」だけでなく研究の手続きと制度を持ち始めた。
ただし、ヴント自身は「心はすべて実験室で測れる」とは考えていない。
言語、神話、慣習のようなものは、一人の被験者に刺激を見せる実験だけでは十分に捉えられない。晩年の彼は、こうした社会的・歴史的な精神生活を別の方法で研究しようとした。
心理学の実験室を育てた本人が、実験だけでは届かない心も認めていたのである。
最初の基礎は、意外にも「全部測れる」という自信ではなかった。
測れるものと、同じ方法では測れないものを分けることだった。
ジェームズは、心を「部品」ではなく「流れ」として見た
同じころ、アメリカでは別の道が進んでいた。
ウィリアム・ジェームズは、医学と生理学を学んだあと、ハーバードで心理学を教えた。1875年には生理学と心理学を結ぶ授業で実験的なデモンストレーションを行い、1890年には大著『心理学原理』を刊行する。
ジェームズがそこで扱ったのは、感覚、習慣、注意、記憶、感情、自己、意志など、人の経験の広い範囲だった。
彼の有名な表現の一つが「意識の流れ」である。
たとえば本を読んでいるとき、文字だけが一個ずつ心に入ってくるわけではない。文章の意味を追いながら、外の音に一瞬気づき、さっき読んだ内容を思い出し、また文章へ注意を戻す。経験は切れた部品の列というより、移り変わりながら続いている。
ジェームズが「流れ」と呼んだのは、こうした心のあり方だった。意識は、積み木のような小さな感覚を後から組み立てたものとして経験されるのではなく、選び、注意を向け、過去の経験とつながりながら進んでいく。
ここで心理学の問いが少し変わる。
心を細かい要素へ分けて測るだけでなく、その心が生きている人間の中で何をしているのかを見る。
ジェームズの心理学は、後に「機能主義」と呼ばれるアメリカ心理学の流れと結びつけられる。重要なのは、ヴントからジェームズへ一本の学説がそのまま受け継がれた、ということではない。
同じ時代に、科学としての心理学をつくろうとしながら、すでに「何を研究すべきか」には複数の答えがあった。
ヴントが実験条件の中で意識過程を調べた一方で、ジェームズは、流れ続ける経験、身体、習慣、行為との関係まで視野に入れた。
心理学は最初から、一枚岩ではなかった。
フロイトは、「本人が知らない心」を研究対象にした
ところが、本人に意識を報告してもらうだけでは届かない心がある、と考えた人物が現れる。
ジークムント・フロイトである。
若いフロイトは、最初から精神分析家だったわけではない。神経組織を研究し、医師として患者を診て、パリではシャルコーのもとでヒステリーと催眠に触れた。
当時扱われた患者の中には、麻痺やけいれんなどの強い症状があるのに、通常の神経損傷だけでは説明しにくい人たちがいた。身体に何かが起きている。しかし、身体の傷だけを探しても説明できない。
フロイトはブロイアーとの臨床を経て、患者が症状に結びつく経験や感情を語ることに注目した。さらに夢、言い間違い、何度も繰り返される話題なども、単なる雑音ではなく、本人が直接には意識していない心の働きを考える材料にした。
つまり診察室で行ったのは、実験室のように刺激を一回与えて反応時間を測ることではない。一人の人に長く語ってもらい、症状や夢や語りの繰り返しをつなぎ合わせ、そこに無意識の葛藤が現れているのではないかと解釈することだった。
ここでは、心理学の証拠の形が大きく変わっている。
ヴントの実験室では、刺激を統制して反応を測る。フロイトの診察室では、一人の人間が長い時間をかけて語り、その語りの中に繰り返し現れるものを解釈する。
もちろん、この二つを同じ種類の科学的方法として並べることはできない。
精神分析は、実験心理学とは異なる臨床的方法と理論体系として発展した。フロイトの個々の理論には、その後の心理学や医学から強く批判され、支持されていないものも多い。
それでも心理学史上の意味は大きかった。
「心について本人が知っていること」だけを、心の全体だとは考えない。
この発想は、心を研究するときに何を証拠として扱うかという問題を、さらに難しくした。
ワトソンは、その難問ごと「心」を外した
1913年、ジョン・B・ワトソンは、かなり大胆な答えを出す。
心理学を、観察可能な行動を扱う客観的な実験自然科学にする。
彼の論文『行動主義者から見た心理学』は、心理学の理論的な目標を行動の予測と制御に置き、内観を必須の方法から外した。
これは、心の測り方を改善する提案というより、問いそのものを組み替える提案だった。
他人の意識は直接見えない。
ならば、見えない意識について科学が争い続けるより、刺激に対して人や動物が何をするのかを測ればよい。
その考え方が最も分かりやすく現れた例の一つが、1920年にロザリー・レイナーと行った、いわゆる「リトル・アルバート」実験である。
最初、乳児アルバートは白いラットを見ても強く怖がらなかった。そこで、アルバートがラットへ手を伸ばすときに、背後で鉄の棒をハンマーで叩いて大きな音を鳴らす。アルバートはその音には泣いて反応した。
ラットと大きな音を繰り返し組み合わせると、やがてラットだけを見せても身を引き、泣き、逃れようとする反応が報告された。さらに、ウサギや犬、毛皮など別の対象にも反応が広がるかが試された。
ワトソンたちが見ようとしたのは、「本人の心の中に恐怖という感情がどう存在するか」ではなく、ある刺激と別の刺激を組み合わせたあと、観察できる行動がどう変わるかだった。
現代から見れば、乳児に恐怖反応を作ろうとする手続きには重大な倫理上の問題がある。しかも一人の乳児を使った研究であり、これだけで人間の感情や人格がすべて環境によって作られると証明できるわけでもない。
それでも、この例を見ると行動主義が何を「証拠」としようとしたのかは分かりやすい。本人に「怖いですか」と心の中を説明してもらわなくても、近づく、身を引く、泣くといった行動なら外から記録できる。
観察できる行動へ対象を絞れば、心理学は客観性を高められる。
一方で、代償もある。
記憶、思考、感情、イメージのように、私たちが「心」と呼びたくなるものを、科学はどこまで直接扱ってよいのか。
ワトソンは「心をどう測るか」という難問を、いったん心を主要な説明対象から外すことで処理したとも言える。
心理学は、心を科学にしようとして始まったのに、科学であるために心を語らない方向へ進んだのである。
ケーラーは、「部品」だけでは見えない関係を示した
同じ20世紀初頭、ドイツでは別の動きが起きていた。
マックス・ヴェルトハイマー、クルト・コフカ、そしてヴォルフガング・ケーラーらのゲシュタルト心理学である。
彼らが問題にしたのは、経験を小さな感覚要素に分解し、それを足し合わせれば心全体を説明できる、という考え方だった。
たとえば、離れた位置にある二つの光を適切な間隔で順番に点灯させる。物理的には、一方の光が消え、もう一方の光が点いただけである。それでも条件によっては、一つの光が場所を移動したように見える。
実際には「移動する光」という刺激はない。それなのに動きが見える。だとすれば、私たちの知覚は、点や光を一個ずつ受け取った結果だけではなく、それらがどんな時間・位置関係で並んでいるかにも左右されていることになる。
ケーラーは、この「関係や全体を見る」という問いを、動物の問題解決にも持ち込んだ。
1913年からテネリフェ島で行ったチンパンジー研究では、果物をそのままでは手の届かない場所へ置き、箱や棒を使わなければ取れない状況を作った。
有名な例では、チンパンジーのスルタンのそばに短い棒がある。しかし短い棒では目標の果物に届かない。そこで短い棒を使えば、少し離れた場所にある長い棒を手元へ引き寄せられるようにしておく。スルタンは短い棒で長い棒を取り、その長い棒を使って果物を取った。
別の課題では、箱を積まなければ届かない高さに果物を置いた。
ケーラーが注目したのは、何百回も同じ動きを繰り返して少しずつ正解へ近づいたかどうかだけではない。しばらく状況を見たあと、棒は果物を取るためだけの物ではなく、別の棒を取る道具にもなるというように、場面の関係を組み替えたように見える行動だった。
この研究は後に「洞察学習」の例として有名になる。ただし、晩年のケーラー自身は、問題解決の全過程を単純に「突然ひらめいて一気に解いた」と呼ぶのは正確ではないと注意している。
だから、ここで言えるのは「チンパンジーにも人間と同じひらめきがあると証明した」ということではない。
行動を一個ずつの刺激と反応として数えるだけではなく、動物が目標・障害物・道具の関係をどう使ったかを見る必要がある。
そこに、ケーラーの研究の意味があった。
なお、これは「ケーラーがワトソンを論破して、心を取り戻した」という一直線の物語ではない。
ゲシュタルト心理学の出発点はワトソンの1913年宣言より前にあり、主な批判対象も、当時のヨーロッパで強かった要素主義的な心理学だった。
同じ時期に、心理学を科学にするための別々の答えが競っていたのである。
5人は、同じ「心」を研究していたわけではない
ここまでを並べると、心理学の基礎をつくった人たちが、同じ対象を同じ方法で研究していたわけではないことが分かる。
スマートフォンでは横長の表にすると、人物名も説明も細く折り返されてしまう。ここでは、5人を一人ずつ同じ三つの問いで並べてみる。
ヴント
- 何を見た? 感覚、注意などの意識過程。実験だけでは扱いにくい言語・神話・慣習も別の方法で研究した。
- どう調べた? 条件をそろえた刺激、反応時間、感覚の比較、体系的な観察。
- 具体的には? 音や光を提示し、反応までの時間を測る。見えない心の働きを、条件によって変わる反応の差として調べた。
ジェームズ
- 何を見た? 流れ続ける意識、注意、習慣、感情、行為との関係。
- どう調べた? 生理学的知見、内省、日常の経験や行動の観察を広く使った。
- 具体的には? 本を読みながら外の音に気づき、また文章へ戻るように、意識は切れた感覚の粒ではなく、選びながら続いていると考えた。
フロイト
- 何を見た? 本人が直接には自覚していない無意識の働きや葛藤。
- どう調べた? 患者の語り、症状、夢、言い間違いなどを臨床で解釈した。
- 具体的には? 患者が何度も語る記憶や症状、夢の内容をつなぎ、本人が意識していない葛藤が現れているのではないかと読んだ。統制実験とは別の方法である。
ワトソン
- 何を見た? 外から観察できる行動。
- どう調べた? 刺激を変えたとき、行動がどう変わるかを実験で測った。
- 具体的には? 白いラットと大きな音を組み合わせた後、乳児がラットだけでも身を引き、泣くようになるかを観察した。
ケーラー
- 何を見た? 知覚や問題解決で、物同士の関係や場面全体がどう組織されるか。
- どう調べた? 知覚実験や、チンパンジーが道具を使って問題を解く行動を観察した。
- 具体的には? 短い棒で長い棒を手元へ寄せ、その長い棒で果物を取る課題から、単発の反応だけでなく「道具と目標の関係」を見る必要があると考えた。
同じ「心理学」でも、何を見るかも、証拠の作り方もかなり違う。
この違いは、心理学が未熟だったから起きた混乱ではない。
むしろ、心理学が今も抱えている問題の原型である。
脳活動を測れば心が分かったと言えるのか。
アンケートで本人が答えたことは、どこまで本人の心そのものなのか。
行動データだけで、考えている内容まで説明できるのか。
一人の臨床例から、どこまで一般化できるのか。
心理学が発展するほど、測定技術は精密になった。それでも「何を測れば、知りたい心を測ったことになるのか」という問題は消えていない。
心理学の基礎を作ったのは、一人の「父」ではない
「心理学の父は誰か」と聞けば、ヴントという名前が出てくることが多い。
実験心理学を大学の制度として育て、世界中から学生を集めたという意味で、ヴントが重要なのは間違いない。
けれど、心理学そのものの成立を一人にまとめると、その後すぐに起きた分裂が見えなくなる。
ジェームズは、流れる経験と機能を見た。
フロイトは、意識の外へ心を広げた。
ワトソンは、科学の客観性を守るために心を主要な説明から外した。
ケーラーたちは、要素や反応を足し合わせるだけでは全体を説明できないと考えた。
誰か一人が正解を発見し、残りがそれを引き継いだわけではない。
心理学の基礎とは、「心とは何か」という答えではなく、「この方法で本当に心を知ったと言えるのか」と問い続ける仕組みだった。
1879年が重要なのは、心理学が完成した年だからではない。
そのころから、心についての問いを、測定、実験、臨床、観察という公開された方法の上で争える学問が形になっていったからである。
心理学は、心を一つに定義したことで科学になったのではない。
心について、何を証拠と認めるのかを争い続けることで、科学になっていった。



