一人の人生を読む
水曜の夜、家が研究会になる
1902年の秋、ウィーンのベルクガッセ19番地(Berggasse 19)に、少人数の医師たちが集まるようになった。曜日は水曜だった。
ここは大学の講義室でも、病院の会議室でもない。ジークムント・フロイト(Sigmund Freud)が妻マルタと六人の子どもたちと暮らす家であり、その一角には患者を迎える診察室と書斎があった。日中に患者を診て、読んで、書いていた場所へ、夜になると仲間がやって来た。
集まりは小さかった。精神分析という新しい方法に関心を持つ医師や、やがて医師以外の参加者も加わり、症例や理論を持ち寄って議論した。のちに「水曜心理学会」と呼ばれたこの会は、1908年にはウィーン精神分析協会へ組み替えられていく。
フロイトの人生をたどると、この住所が何度も重要な場所として現れる。家族と食事をする家であり、患者の言葉を聞く診察室であり、自分の夢を書き留める書斎であり、精神分析を一人の仕事から運動へ変えていく会合の場でもあった。
けれど、若いフロイトが見ていたのは、最初から「心の奥に隠れた意味」ではない。もっと文字どおりの神経だった。
神経を見ていた医学生
1856年5月6日、フロイトはモラヴィアのフライベルク、現在のチェコ・プシーボルに生まれた。父ヤーコプは羊毛商いに関わるユダヤ人で、母はアマーリアだった。家業が苦しくなるなか、一家は移動を重ね、1860年にウィーンへ落ち着いた。
17歳でウィーン大学へ入ったフロイトが目指したのは、まず自然科学だった。解剖学、生理学、動物学などを学び、エルンスト・ブリュッケの生理学研究所では神経系の研究に取り組んだ。顕微鏡の下にある組織を観察し、身体の仕組みから生命を説明する世界である。
1881年に医学の学位を得たころ、研究だけを続けることは生活上難しくなっていた。翌1882年にはマルタ・ベルナイスと婚約する。結婚して家庭を持つには収入がいる。フロイトは病院の臨床へ比重を移し、内科、精神医学、神経疾患の現場で働いた。
この時期の彼には、新しい治療法を見つけ、医学の世界で認められたいという若い医師の野心があった。その野心は、一度かなり危うい方向へ進んだ。
コカインでつまずく
1884年、フロイトは当時ヨーロッパの医学界ではまだ新しかったコカインに強い関心を持った。気分の落ち込みやモルヒネ依存の治療に使えるのではないかと考え、自分でも試し、他人にも使用を勧めた。
ところが、コカインには依存の危険があった。フロイトはその危険を十分に理解する前に、薬の可能性を強く評価していた。一方、同僚のカール・コラーは眼科手術の局所麻酔としての有効性を実証し、そちらで大きな評価を得た。
これは、フロイトの初期研究に残った明確な失敗の一つである。新しい可能性へ早く賭ける姿勢は、成果だけを生んだわけではなかった。
その翌年、フロイトは奨学金を得てパリへ行き、神経学者ジャン=マルタン・シャルコーのもとで学んだ。シャルコーが扱っていたのは、麻痺やけいれんなど強い身体症状を示しながら、通常の神経損傷だけでは説明しにくい「ヒステリー」と呼ばれた患者たちだった。
身体に症状があるのに、その原因を身体の傷だけでは見つけられない。フロイトの関心は、神経の場所を特定することから、症状が本人の経験や記憶とどう結びついているのかを考える方向へ少しずつ移っていった。
1886年、マルタと結婚したフロイトはウィーンで私設診療を始めた。患者から診療費を受け取る臨床の仕事が、そのまま次の研究の場にもなっていく。
患者の語りから、自分の夢へ
精神分析が形になるまでには、フロイト自身の仕事に加えて、年長の医師ヨーゼフ・ブロイアーとの共同研究があった。患者が症状に結びつく経験や感情を語ることと、症状の変化との関係を考え、二人は1895年に『ヒステリー研究』を刊行した。
同じころ、フロイトはベルリンの医師ヴィルヘルム・フリースと大量の手紙を交わしていた。そこには完成した理論だけでなく、思いつき、野心、不安、修正が残っている。患者を分析する医師でありながら、フロイトは自分自身の夢や記憶も分析の対象にしていった。
この過程には、大きな修正もあった。
1890年代半ば、フロイトは神経症の原因を、幼児期に実際に起きた性的被害と強く結びつけて説明しようとした。しかし1897年9月、フリースへの私信で、その一般的な説明に確信を失ったことを伝えている。フロイトは、記憶された出来事と幻想が心の中でどう結びつくのかへ、より大きな重心を置くようになった。
この転換は、その後も激しく論争されてきた。ここで変わったのは、神経症を一つの原因で一般的に説明しようとしたフロイト自身の仮説である。子どもへの性的被害そのものを否定した、という意味ではない。
1900年、『夢判断』が刊行された。そこでは患者の夢だけでなく、フロイト自身の夢も材料にされた。夢は意味のない映像の残りではなく、本人がそのまま認めることのできない欲望や葛藤が、形を変えて現れるものだと彼は考えた。
研究する人と研究される人の距離が、ここでは近い。フロイトは他人の言葉を読む方法を作りながら、その方法を自分にも向け、自分の夢や言い間違いまで「意味を持つ資料」として扱った。
一つの家から、運動が広がる
1891年、フロイト一家はベルクガッセ19番地へ移った。すでに三人の子どもがいて、1895年末までに子どもは六人になった。
この家の中で、生活と仕事は分かれていながら、同じ住所にあった。患者はフロイトを訪ね、彼は書斎で論文や本を書き、家族はその隣で日常生活を送った。フロイトは古代エジプトやギリシャなどの小像や器物を集め、書斎の机や棚の周囲を埋めていった。
そこへ1902年から水曜の仲間たちが加わった。精神分析は、患者と一対一で行う治療法であると同時に、誰が分析家になれるのか、どんな理論を共有するのか、どの都市に組織を作るのかを話し合う集団の仕事にもなっていく。
1909年、フロイトは初めて、そして生涯で唯一アメリカへ渡った。マサチューセッツ州のクラーク大学に招かれ、精神分析について講演した。カール・ユング、シャーンドル・フェレンツィらも同行し、現地ではG・スタンレー・ホールやアーネスト・ジョーンズらと並んで写真に収まっている。
ベルクガッセ19番地の小さな水曜の集まりから七年。精神分析は国境を越える運動になり始めていた。ただし、広がるほど「精神分析とは何か」をめぐる違いもはっきりしていった。
仲間が離れ、理論も動く
ユングは、フロイトにとって特に重要な協力者だった。1907年に二人が初めて長く語り合って以降、ユングはフロイトの考えを公の場でも擁護し、国際的な協力者として存在感を強めた。
しかし、二人が「心」をどう考えるかは次第に離れていく。性的欲動をどこまで中心に置くのか、宗教や神話をどう扱うのか、精神分析という名前の範囲をどこまで広げられるのか。理論の違いに、組織上の権威と個人的な関係も重なり、1912年から13年にかけて協働関係は崩れた。
アルフレッド・アドラーやユングらが別の道へ進み、精神分析運動は枝分かれしていく。仲間が増えたことは精神分析を広げる力になった一方、その仲間たちが独自に考え始めれば、フロイト一人が運動の範囲を決め続けることは難しくなった。
第一次世界大戦を経て、フロイト自身の理論も動いた。人間を快を求める存在として説明するだけでは、同じ苦痛を繰り返す行動や破壊性が残る。1920年の『快原理の彼岸』では反復や死の欲動を論じ、1923年の『自我とエス』では、心をエス、自我、超自我という関係から捉え直した。
この時期には、家族の喪失も重なった。
1920年1月、娘ソフィーがハンブルクでインフルエンザ肺炎にかかり、急死した。ウィーンにいたフロイトとマルタは、知らせを受けてもすぐに列車を確保できず、娘のもとへ間に合わなかった。残された手紙には、距離を越えられないまま知らせを受け取った父親の悲嘆が残っている。
三年後には、ソフィーの幼い息子ハイネルレも病気で亡くなった。フロイトの1920年代には、新しい理論の刊行と、家族を相次いで失う経験が重なっていた。
口の癌と、続く仕事
1923年、67歳のフロイトに口腔の癌が見つかった。長年の葉巻習慣は、その後も完全には途切れなかった。
治療は一度で終わらなかった。上顎や口蓋に及ぶ手術が繰り返され、失われた部分を補うための補綴装置が必要になった。食べることや話すことにも負担がかかり、装置の調整は長く続いた。
それでもベルクガッセ19番地の生活は続いた。患者を診る量は身体に合わせて変わっていったが、フロイトは書き、手紙を交わし、訪問者を迎えた。1930年にはゲーテ賞を受けた。
その頃には、精神分析は大きな影響力を持つ一方、治療効果、症例の書き方、理論をどこまで科学的に検証できるかをめぐる批判も積み重なっていた。後世の史料研究では、フロイトが刊行した症例の一部について、治療結果や期間の示し方が実際の記録より整えられているという指摘も出ている。
その論争が続く一方で、フロイトが暮らしてきた社会そのものが壊れ始めた。
47年の住所を離れる
1933年、ドイツ各地で行われたナチ系学生らの焚書では、フロイトの著作も名指しで火に投じられた。ユダヤ人であり、性や無意識を論じる精神分析の創始者でもあったフロイトの仕事は、ナチの文化政策の攻撃対象になった。
フロイトはその後もウィーンにとどまった。すでに70代後半で、癌の治療を続け、家族も仕事も出版社も長年の人間関係もこの都市にあった。ベルクガッセ19番地は、半世紀近い生活の中心だった。
1938年3月、ドイツがオーストリアを併合すると、危険は一気に具体化した。フロイトの住居や精神分析出版社は襲われ、財産はナチ当局の圧力のもとで奪われていった。3月22日には、娘アンナがゲシュタポ(Gestapo)へ連行され、尋問を受けた。その日のうちに戻ったものの、家族にとって残留の危険はもはや抽象的ではなかった。
国外の友人や支援者による交渉と支援を経て、6月4日、82歳のフロイトはマルタ、アンナらとウィーンを離れた。行き先はロンドンだった。
四人の姉妹はヨーロッパに残った。フロイトの死後、彼女たちはナチ政権によって強制移送され、殺害される。1939年に亡くなったフロイトは、その結末を知ることはなかった。
ベルクガッセ19番地で47年間続いた生活は、そこで終わった。
同じ部屋を作れても、同じ世界には戻れない
ロンドンでは、ウィーンから運び出した本、古代の小像、家具、分析用のカウチが再び配置された。現在のフロイト博物館に残る書斎には、ウィーンの仕事場から運ばれた品々が並んでいる。
けれど、同じ品々を並べても、47年間かけてできた生活そのものを移すことはできない。ウィーンで育った患者との関係、研究会、出版社、街の人間関係は失われ、口の癌も進んでいた。
それでもフロイトは最後まで仕事を続けた。亡命後には『モーセと一神教』を完成させ、限られた人数の患者も診た。1939年9月23日、ロンドンの自宅で83年の生涯を閉じた。
フロイトの死後、精神分析は一つの教説のまま残ったわけではない。生前から別の道へ進んだ者がいて、臨床心理学や精神医学からは、理論や症例記述に厳しい批判が重ねられた。現代の実証研究では支持されない主張も少なくない。
同時に、20世紀の「心」をめぐる議論では、フロイトは賛成と反対の双方から繰り返し参照されてきた。夢、言い間違い、幼児期、記憶、欲望、治療者と患者の関係について、「本人が自覚している説明だけで全部なのか」と問う仕方は、精神分析そのものを受け入れるかどうかを越えて広がった。
ベルクガッセ19番地の部屋は、家庭から診察室へ、診察室から研究会へと役割を重ねていった。そこで作られた考えもまた、医学から文学へ、治療から批評へ、支持から反論へと移され続けた。
フロイトの仕事が今も残しているのは、一つの問いである。人は、自分について自分が知っていることだけでできているのか。その問いをめぐる議論は、彼の理論を批判するときでさえ、今なおフロイトの近くを通っている。




