一人の人生を読む
1879年は、一日の出来事ではなかった
1875年、42歳のヴィルヘルム・ヴント(Wilhelm Wundt)は、ライプツィヒ大学の哲学教授として教え始めた。大学から与えられたのは、心理学の講義で使う器具を置き、実験を行える小さな空間だった。
その部屋で学生たちが本格的に実験研究を始めるのは1879年である。さらに数年がたち、1883年から84年ごろになると、実験心理学のセミナーや研究所が大学の講義要項に現れ、継続的な予算も整っていく。後世の心理学史で大きな節目とされる「1879年」は、何もないところに一日で研究所が生まれた日というより、部屋、器具、学生、授業、予算が少しずつ一つの制度になっていく過程の中心にあった。
そこで扱われたのは、感覚や知覚、注意、反応時間などだった。刺激をできるだけ統制し、人がどう反応するかを測る。クロノスコープのような器具も使われた。心について哲学的に論じるだけでなく、条件をそろえた実験の中で調べる。その研究を学生が学び、博士論文を書き、やがて各国へ持ち帰っていった。
この仕事によって、ヴントは実験心理学を大学の研究制度として育てた人物として知られるようになる。
ところが、彼が長い生涯で扱った「心」は、実験室に入るものだけではなかった。後半生の大仕事の一つは、言語、神話、慣習、社会といった、個人一人を椅子に座らせても十分には調べられない精神生活だった。
心を測る場所をつくった人は、なぜ心をそこだけに閉じ込めなかったのか。
その問いからヴントの88年をたどると、心理学が一つの方法を手に入れていく過程と、その方法の境界を考え続けた一人の学者の生活が重なって見えてくる。
白昼夢ばかり見ていた少年
ヴントは1832年8月16日、当時のバーデン大公国ネッカラウ、現在のマンハイムの一地区に生まれた。父マクシミリアンはプロテスタントの牧師、母マリー・フリーデリケは牧師や学者を出した家の出身だった。
幼いころのヴントは、後に巨大な著作群を残す大学教授の姿からは想像しにくいほど、学校生活にうまくなじめなかったと回想している。授業中でも空想に入り込み、目の前のことに注意を保てなかった。家庭教師だった若い牧師フリードリヒ・ミュラーには強くなついたが、そのミュラーと離れてブルッフザールのギムナジウムへ進むと、最初の一年はほとんど失敗だった。教師からからかわれたり叩かれたりし、一度は学校から逃げ出した。母が連れ戻している。
その後、ハイデルベルクの学校へ移ると成績は上向いた。兄や親族のいる環境に入り、大学へ進む準備が整っていく。
少年から青年へ移る時期、バーデンでは1848年から49年の革命が起きていた。ヴントは晩年の自伝で、自由主義的な政治運動や革命の光景を身近に見た記憶を何度も振り返っている。研究者になる以前の彼にとって、学校、教会、国家、革命は抽象的な制度ではなく、身近で動いているものだった。のちにヴント自身も、議会や労働者教育の場へ入っていく。
1851年、ヴントは医学を学び始めた。最初はテュービンゲンへ行ったが、家計への負担もあり、まもなくハイデルベルクへ戻る。父はすでに亡くなっており、母が家計と息子の学業を支えていた。
若い医師は、薬瓶を取り違えた
医学教育の終盤、ヴントはハイデルベルクの病院で臨床にも携わった。
女性病棟を担当していたある時期、何日も十分に眠れない勤務が続いた。騒いでいるチフス患者を落ち着かせるため薬を取りに行ったヴントは、本来使うはずだったオピウム製剤ではなく、外用のヨードチンキの瓶を手に取った。それを正しい薬だと思い込み、患者に与えようとしたのである。
患者は液体の大半を吐き出した。ヴントはすぐ同僚に話し、翌朝には指導する医師にも報告した。後年の回想では、彼はこの出来事のあと、自分に医師を続ける資格があるのかを何週間も考えたという。
この時期、病院で彼がしていたことは診療だけではなかった。神経症状のある患者を相手に、皮膚のどこへ刺激を与えるとどう感じるかを調べる感覚研究も行っていた。ヴント自身は晩年、病院でのこうした実験を、心理学へ向かう自分の実験研究の「最初の駅」にあたるものとして振り返っている。
臨床の現場では、疲労した自分自身の認識さえ簡単に誤る。一方、研究では刺激や条件をできるだけ切り分け、反応を確かめていく。若いヴントの進路は、この病棟だけで決まったのではない。それでもこの時期には、医師として患者を治療する仕事から、感覚と意識がどう成り立つかを実験で調べる仕事へ、関心の重心がすでに動いていた。
生理学から、心を測る方法へ
ヴントは生理学へ進んだ。ベルリンではヨハネス・ミュラーやエミール・デュ・ボア=レーモンのもとで学び、1858年からはハイデルベルクでヘルマン・フォン・ヘルムホルツの助手になった。
当時、感覚を科学的に調べる土台は急速に整いつつあった。刺激の強さと感覚の関係を数量化したウェーバーやフェヒナー、神経や感覚器を実験的に研究したヘルムホルツらの仕事があった。ヴントはその環境で、身体の働きを測る生理学と、感じる・知覚する・注意するといった心の問題を接続していった。
1860年代には心理学の講義を始める。同じ時期、大学の外ではハイデルベルクの労働者教育運動に参加し、1864年から68年にはバーデンの議会議員も務めた。教育の機会を広げることや、社会制度の改革に関心を持つ自由主義的な立場にいた。
研究者としての道は順調な昇進だけではなかった。ヘルムホルツがハイデルベルクを離れたとき、ヴントはその後任に選ばれなかった。科学を広く伝える雑誌を自分で立ち上げようとした計画も実現しなかった。
それでも研究は積み上がった。1873年から74年にかけて刊行した『生理学的心理学綱要』では、心理学そのものを中心に置きながら、生理学の知識と実験方法を意識過程の分析に使う構想を大きな体系として示した。
同じころ、私生活にも変化があった。1868年にソフィー・マウと知り合い、1872年に求婚した。1874年、ヴントはチューリヒ大学の「帰納哲学」の教授となる。翌1875年にはライプツィヒから招かれ、夫婦で移った。ここから40年以上続く研究と教育の拠点が定まる。
ライプツィヒで、心理学を「制度」にする
ライプツィヒでヴントは、理論と同時に研究の仕組みを組み立てた。
研究には場所がいる。刺激を一定にする装置がいる。時間を測る器具がいる。実験を受ける人と、操作をする人がいる。結果を記録し、比較し、論文にする学生がいる。さらに、その活動を毎年続けるには大学の授業、助手、予算、学位制度が必要になる。
ヴントの実験室は、そうした要素が集まっていく場だった。1875年から器具を置く空間があり、定常的な予算がつく前には、自分の器具を提供して研究を続けた。1879年には学生たちがそこで実験研究を行うようになり、1880年代前半には大学の正式な研究組織として輪郭を持つ。
実験では、音や光などの刺激を与え、反応までの時間を測ったり、感覚の違いを比較したりした。心は直接、机の上に置ける物体ではない。だからこそ、刺激と反応の条件をできるだけ明確にして、意識の過程を調べようとした。
この研究環境は外国からも学生を集めた。アメリカをはじめ各地から若い研究者がライプツィヒへ来て、博士論文を書き、帰国後に心理学の研究や教育を広げていった。ヴントの影響力は、一冊の本が読まれたことに加えて、「こういう場所で、こういう手続きで心理学を研究する」という型が人を通して移動したことにもあった。
教授としてのヴントは長時間教え、学生との相談時間を持った。学生や助手を自宅の日曜の食事に招くこともあった。この制度を動かしたのは、装置に加えて、人間関係を含む日常の教育だった。
実験できる心には、範囲がある
ヴントが実験で扱おうとした中心は、意識の過程だった。
刺激を与え、反応を測り、条件を変える。こうした手続きなら、感覚の違い、反応の速さ、注意の働きなどを比較できる。本人が「生理学的心理学」と呼んだ構想では、心理学が意識過程を扱い、その分析に生理学と実験の手段を利用する。
ただ、ヴントはこの実験の手続きを、心についてのどんな問いにも使えるとは考えなかった。
一人の人に刺激を与え、その場の反応を調べることには向いている問題がある。しかし、人が使う言語は一人で作ったものではない。神話も、慣習も、法も、一人の頭の中だけで生まれて完結するものではない。それらには長い時間と、多くの人どうしの相互作用が含まれている。
ヴントは心理学を実験科学へ近づけながら、「科学的であること」と「すべてを実験すること」を同じ意味にはしなかった。
この考えが、彼の後半生を占めるもう一つの巨大な仕事につながっていく。
言葉は、一人ではつくれない
ヴントが Völkerpsychologie と呼んだ研究領域は、日本では長く「民族心理学」と訳されてきた。彼がそこで扱ったのは、言語、神話、慣習、芸術、社会、法など、個人どうしの相互作用の中で歴史的に形づくられる精神生活だった。
たとえば言語を考えると、一人の人間だけを実験室へ入れても、その人が使っている言葉が何世代にもわたってどう変化してきたかは分からない。言葉は個人が使うが、その仕組みそのものは多くの人のやりとりの中で作られてきた。
ヴントの説明では、共同体は互いに関係する個人から成り、その相互作用から、一人の意識だけでは説明できない言語や慣習が生まれる。それらはまた、次の個人が考え、話し、行動する条件にもなる。
1900年から刊行を始めた『民族心理学』は最終的に10巻へ膨らんだ。ヴントの体系では、実験と歴史的・比較的な研究は、異なる種類の問題に使う方法として並んでいた。
この二つを並べると、彼が構想した心理学の広さが見えてくる。心について何を問うかによって方法を変え、個人の意識から共同体の歴史までを一つの学問の射程に置こうとしていたのである。
家と研究室のあいだで、書き続ける
ライプツィヒでの長い研究生活は、家族の時間とも重なっていた。
ソフィーとの間には、1876年にエレオノーレ、1879年にマックス、1880年にルイーゼ――家族からはリリーと呼ばれた娘――が生まれた。リリーは4歳で亡くなっている。
ソフィーは講義原稿を書き写す作業にも関わった。のちには娘エレオノーレが父の仕事を手伝うようになり、死後には膨大な文書を保存する役割を担う。
ヴントの日常には、派手な旅行より読書と散歩が多かった。犬を連れて長く歩き、その間に文章の構成を考えたと伝えられている。年を取って視力が悪くなると、タイプライターも使った。何十年も講義をしながら、著作を改訂し、新しい巻を書き続けた。
研究生活のまわりには、原稿を整える家族、実験を動かす助手、問いを持ち込む学生、場所と予算を与える大学がいた。その環境の中で、何を一冊の体系へまとめるかを決め続けたのがヴントだった。
自由主義者から、戦争を擁護する知識人へ
ヴントの公共的な立場には、長い生涯の途中で大きな変化があった。
30代の彼は、ハイデルベルクで労働者教育に関わり、バーデン議会では教育機会の拡大や社会制度の改革を論じた。大学教育を特権的な狭い層だけのものにしない方向を支持し、女性が大学で学ぶことにも肯定的だった。
それから半世紀ほど後、第一次世界大戦が始まると、82歳のヴントはドイツの戦争を公然と擁護した。
1914年9月、ライプツィヒ大学で行った講演『真の戦争について』では、ドイツの戦争を自己防衛として語った。翌月には、ドイツの知識人・芸術家らが連名で発表した「93人の宣言」に署名した。この声明は、ドイツが戦争を引き起こしたという非難や、ベルギーでの軍事行動への批判を否定し、ドイツの軍事と文化を擁護するものだった。
戦争が続くにつれ、ヴントはドイツと敵国の違いを、政治だけでなく国民の世界観や哲学の違いとしても語るようになった。
若い時代の自由主義的な教育運動と、晩年の国家主義は、きれいな一つの成長物語にはつながらない。研究上の共同体概念と、戦時の国家観も同一ではない。それでも、個人を越えた精神生活について考えてきた研究者が、戦争の時代には「国民」を強い単位として語り、公共の場で一方の国家を擁護した。その変化は、ヴントの人生から外せない。
実験室の外まで残った心理学
1917年、85歳になったヴントはライプツィヒ大学での教職を退いた。それでも執筆は続けた。最晩年には自伝をまとめ、1920年には『民族心理学』の仕事も完結へ向かっていた。
1919年、娘エレオノーレはライプツィヒ郊外のグロースボーテンに家を購入した。翌1920年8月31日、ヴントはそこで88歳で亡くなった。そばにはエレオノーレと息子マックスがいた。
死後、エレオノーレは父の文書を整理し、ヴント・アーカイブをつくった。その資料は後にライプツィヒの大学や図書館で整理され、現在も研究に使われている。
後世の心理学史では、ヴントは「実験心理学の父」や「最初の心理学研究室をつくった人」という短い肩書きで記憶されてきた。20世紀後半以降の研究では、実験心理学だけでなく、哲学や Völkerpsychologie を含む広い仕事も繰り返し再検討されている。
ヴントが心理学へ残したのは、「心も実験できる」という答えだけではなかった。
どんな問いなら実験にできるのか。どんな心の働きは、一人の被験者を調べるだけでは分からないのか。実験、歴史、言語、社会を、どこで分け、どこでつなぐのか。
彼はその境界を一生かけて動かした。
だからヴントの生涯は、1879年に心理学が始まったという一行よりも、実験室をつくり、その外まで心理学の仕事だと考え続けた長い過程として読む方が近い。そして、その広い研究とは別に、晩年の彼が国家と戦争をめぐる強い言葉を公にしたことまで含めて見ると、心理学を新しい大学制度として育てた人物の姿は、単純な「創始者」という呼び名よりずっと複雑になる。




