一人の人生を読む
逮捕を待ちながら、室内楽を演奏した夜
1933年4月28日の夜、ベルリンでヴォルフガング・ケーラーと家族、心理学研究所の人々は室内楽を演奏して過ごした。
その日にケーラーは新聞へ一本の文章を出していた。ナチ政権がユダヤ系の教授や研究者を大学から排除し始めるなか、著名な実験物理学者ジェームズ・フランクをはじめ、追われる学者たちを擁護する内容だった。周囲では、この記事を書いたケーラーが逮捕されるのではないかと考えられていた。
その夜、逮捕はなかった。
当時46歳のケーラーは、ベルリン大学心理学研究所の所長であり、すでに世界的に知られる心理学者だった。彼はマックス・ヴェルトハイマー、クルト・コフカとともにゲシュタルト心理学を築き、チンパンジーが道具を使って問題を解く実験でも名を知られていた。
だからこそ、1933年の行動には失うものがあった。地位だけではない。研究所には助手や学生がいて、長い時間をかけてつくられた研究の場があった。ケーラーはその後も約2年間ドイツに残り、政治が大学の内部へ入り込んでくるたびに抵抗を続けることになる。
ただし、この4月の記事を、現在の意味で完全な反差別宣言として読むことはできない。ケーラーはユダヤ系研究者の一律排除に反対し、その能力と人間性を公然と擁護した一方、同じ文章の中には、当時「ユダヤ人問題」と呼ばれた枠組みそのものを退けず、ユダヤ人の社会的参加を制限する発想へ譲歩する言葉も残っている。
危険を伴う抵抗だった。同時に、時代の偏見から完全に自由な抵抗でもなかった。
この矛盾を抱えた人物は、心理学では何をしようとしていたのか。彼の研究は一貫して、目の前の現象を細かな部品へ分けたときに失われるものを扱っていた。
点が二つあるだけなのに、動きが見える
ケーラーは1887年、ロシア帝国領だったレヴァル、現在のエストニア・タリンに生まれた。父はドイツ語学校の教育者で、1893年に家族はドイツへ移り、ケーラーはヴォルフェンビュッテルで育った。
大学では哲学だけでなく、数学や自然科学、心理学を学んだ。ベルリンでは心理学者カール・シュトゥンプフのもとで聴覚の研究を行い、1909年に博士号を得る。そこからフランクフルトへ移ったことが、研究者としての大きな転機になった。
同じ研究所にはクルト・コフカがいた。さらにマックス・ヴェルトハイマーが、後にゲシュタルト心理学の出発点の一つとなる「見かけの運動」を調べていた。
たとえば、離れた位置にある二つの光を適切な間隔で順番に点灯させる。物理的には、一方が消えて、もう一方が点くだけである。それでも条件によっては、一つの光が場所を移ったような「動き」が見える。
刺激を一個ずつ記述しただけでは、その動きは出てこない。見えているものは、各点の性質だけでなく、時間や位置の関係を含んだ配置全体から決まっている。
ヴェルトハイマー、コフカ、ケーラーが共有していったのは、この種の問題だった。人間の経験を、小さな感覚や反応の鎖へほどいて説明するだけでは足りない。何がどのような関係で置かれ、全体がどう組織されるかそのものを、心理学の対象にしなければならない。
ケーラーはやがて、この問いを人間の知覚だけでなく、動物が問題を解く場面へ持ち込むことになった。
一年のはずだった島で、戦争が始まった
1913年、26歳のケーラーは、カナリア諸島テネリフェ島にあったプロイセン科学アカデミーの類人猿研究施設を任された。それまで動物研究の経験はほとんどなかった。
家族と島へ着いたのは1913年12月だった。予定では、およそ一年の滞在だった。ところが翌年、第一次世界大戦が始まる。
ケーラーはドイツへ戻って兵役に就こうとしたが、イギリス海軍が海上を支配する状況では、ドイツ人を乗せて航行する中立国の船を見つけられなかった。帰れないまま、彼は1920年までテネリフェに残ることになった。
そこで有名になったのが、チンパンジーの問題解決実験である。
果物を手の届かないところへ置く。箱を積まなければ届かない高さに吊るす。短い棒だけでは取れないが、その棒を使えば、もっと長い棒を引き寄せられるようにする。
チンパンジーのスルタンは、短い棒では直接目標へ届かない状況で、その棒を使って長い棒を手元へ寄せ、長い棒で目標を取った。ケーラーが注目したのは、反応を無数に繰り返して少しずつ正解へ近づく場面だけではなく、しばらく状況を見た後に、行動のまとまり方が変わる場面だった。
彼はこれを「洞察」による問題解決と考えた。
ここでいう洞察は、チンパンジーの頭の中に突然、人間と同じ考えが浮かんだと断定する言葉ではない。ケーラーが示そうとしたのは、行動を一つずつ独立した反応として数えるより、「棒と棒」「道具と目標」「自分と障害物」がつくる場面全体の関係を捉え直したと見る方が、観察された変化を説明しやすいということだった。
この研究は後に『類人猿の知能』(The Mentality of Apes)として英語圏にも広く知られる。しかし、テネリフェでの六年以上を、毎日新しい発見が続く黄金時代として描くと実情から離れる。重要な実験の多くは早い時期に集中し、1915年末にはケーラー自身、毎日チンパンジーを見続けることへの疲れを手紙に漏らしていた。1917年以後には重い病気も繰り返したとされる。
島に閉じ込められた長い時間に、彼の関心はチンパンジーからさらに大きな問題へ動いていった。
チンパンジーから、脳と物理世界へ
「全体がどう組織されるか」という問題が知覚や行動にあるなら、その組織は脳の中ではどう起きているのか。
ケーラーはここで、かなり大胆な方向へ進んだ。
心理的な経験に一定の形や関係があるなら、それを生み出す脳の物理過程にも対応する構造があるはずだ。後に「心理物理的同型説」と呼ばれる考えである。彼はさらに、物理学の世界にも、個々の要素を独立に足すだけでは説明できない安定した場や分布があることを手がかりにした。
1920年に出した『静止および定常状態における物理的ゲシュタルト』(Die physischen Gestalten in Ruhe und im stationären Zustand)は、その野心を表した本だった。心理学だけでなく、物理学や生物学まで見渡しながら、「ゲシュタルト(Gestalt)」を自然科学の中に置こうとしたのである。
1922年、ケーラーはベルリン大学心理学研究所の教授・所長となった。かつての師シュトゥンプフの後を継ぐ立場だった。研究所では知覚だけでなく、記憶や運動、学習へ研究が広がり、1929年には英語で『ゲシュタルト心理学』(Gestalt Psychology)を刊行する。ケーラーは国際的な学派の中心人物になった。
しかし、大きな理論には大きな穴も残った。
ゲシュタルト心理学では、知覚がよりまとまりのよい、簡潔で安定した形へ組織される傾向を「プレグナンツ(Prägnanz)」と呼んだ。ところが、何をもって「よい形」「簡潔な形」とするのかを先に決めなければ、結果を見てから「それがプレグナンツだった」と説明できてしまう。
ケーラー自身、この問題に気づいていた。1950年代になっても授業で学生たちに、もっとよい定義を考えるよう求めていたという。創始者であることは、その概念を完成させたことを意味しなかった。
それでも彼は、知覚の構造と脳の物理過程の構造が対応するという同型説には強い確信を持ち続けた。その確信を実験で支えようとする仕事は、やがてアメリカへ移った後まで続く。
その前に、ベルリンの研究所そのものが研究どころではなくなった。
研究所から、人が消されていった
1933年、ナチ政権は大学からユダヤ系、あるいは「非アーリア人」と分類した研究者を排除し始めた。
ケーラーが4月28日に新聞へ文章を出した背景には、ノーベル賞を受けた物理学者ジェームズ・フランクの辞職があった。彼は、研究者の価値を出自で一律に切り分ける政策へ公然と異議を唱えた。この記事が出た夜に、冒頭の室内楽の場面がある。
11月には、教授が講義の冒頭でナチ式敬礼をすることが命じられた。ケーラーはその動作を戯画化するように行ったうえで、学生たちへ、自分はその敬礼が表してきた思想を共有していないと説明した。茶色の制服を着た者やナチ支持者もいる聴衆の前だった。
抵抗は一度の演説では終わらなかった。研究所には監視や査察が入り、助手たちには政治的な告発が続いた。ケーラーは大学執行部や省庁と交渉し、査察に抗議し、助手を守ろうとした。
彼が守ろうとしたのは、抽象的な学派の看板だけではなかった。研究所で働く人々がいなければ、研究所は続かない。1935年、助手の多くが排除され、研究所長として仕事を続ける条件そのものが崩れると、ケーラーはドイツに残る可能性をほぼ諦めた。
アメリカのスワースモア大学からの職の申し出を受け、同年にドイツを離れる。新しい職には、ロックフェラー財団と、追放された研究者を支援する委員会の援助も関わっていた。
ベルリンでの彼の行動は、ナチ体制に公然と反対した大学人の希少な例として記憶されている。同時に、1933年の記事の言葉には、その時代の反ユダヤ的な枠組みを完全には脱していない部分もあった。ケーラーの抵抗は、その二つを同時に含んでいる。
アメリカで、理論は勝ち切らなかった
1935年、48歳でスワースモアへ移ったケーラーは、研究をやめなかった。ベルリン時代の助手だったハンス・ヴァラッハも後に加わり、知覚図形を長く見た後に、次に見る形の大きさや位置が違って感じられる「図形残効」を研究した。
ケーラーはこうした現象を、知覚を生み出す脳内の場が、直前の活動によって変化する証拠と考えた。さらにリチャード・ヘルドとともに、頭皮上の電極から、視覚刺激の変化と同期する直流電位を測ろうとした。
測定そのものには成果があった。しかし、そこで記録された電流が、ケーラーの同型説が想定したように、知覚の形を決める中心的な仕組みだと証明するところまでは届かなかった。
これは、彼の研究人生にとって小さな注釈ではない。
テネリフェのチンパンジー実験は、「場面全体の関係」を見ることで新しい問いを開いた。一方、その考えを脳の物理過程まで一気に貫く理論は、同じ強さでは確かめられなかった。観察の力と、理論の射程は一致しなかったのである。
ケーラーは1946年にアメリカ市民となり、翌年には米国科学アカデミー会員に選ばれた。ヨーロッパを離れた後も国際的な評価は戻り、ドイツ側からもさまざまな栄誉を受けるようになる。
「ゲシュタルト」という答えより、残った問い
1959年、72歳のケーラーはアメリカ心理学会の会長を務めた。その会長講演の題は「今日のゲシュタルト心理学(Gestalt Psychology Today)」だった。
若い頃のゲシュタルト心理学は、既存の心理学への強い反対運動として育った。感覚を細かな要素へ分ける考え、連合の鎖で学習を説明する考え、行動を刺激と反応だけで扱う考え。ケーラーたちは、それらが経験の「組織」を取り逃がしていると批判した。
ところが晩年のケーラーは、学派の違いを強調し続けること自体を目的にはしなかった。どの陣営が勝ったかより、人間の経験や行動について、まだ説明できていない問題へ建設的に取り組むことを求めた。
1967年6月11日、ケーラーはニューハンプシャー州エンフィールドで80年の生涯を終えた。
彼の名前は、いまもチンパンジーの「洞察」とゲシュタルト心理学に結びついている。しかし、その生涯を最後までたどると、残るのは一つの完成した原理ではない。
部分を細かく調べても、それらの関係が変われば、見えるものも行動も変わる。だから全体の組織を見なければならない。
けれども、「全体」や「ゲシュタルト」と名づけただけで説明が終わるわけでもない。プレグナンツの定義も、脳内の同型説も、ケーラー自身が未解決のまま抱えた。
彼が残したのは万能な答えというより、部分を説明したことで全体まで説明したと思い込まないための、しつこい問いだった。




