一人の人生を読む
画家になるか、科学へ行くか
ウィリアム・ジェームズ(William James)は1842年1月11日、ニューヨークに生まれた。弟には後に小説家として知られるヘンリー・ジェイムズがいる。裕福で知的な家庭で育ち、少年期には家族とともにアメリカとヨーロッパの各地を移動した。
十代の終わりごろ、ジェームズが本気で考えていた進路の一つは絵だった。画家ウィリアム・モリス・ハントのもとで学び、芸術家になる可能性を試している。しかし1861年、19歳でその道を離れ、ハーバード大学のローレンス科学学校へ入った。化学や解剖学を学び、1864年には医学部へ進む。
絵から科学へ、科学から医学へと進んだ。20代のジェームズには身体の不調があり、医学博士号を取った後も医師として開業しなかった。
23歳、ブラジルへ行く
1865年、23歳のジェームズは、博物学者ルイ・アガシーが率いたブラジル学術遠征、セイヤー遠征(Thayer Expedition)に参加した。アガシーはハーバードで大きな影響力を持つ科学者で、遠征では南米の自然史資料を大規模に集めようとしていた。ジェームズも採集に関わり、旅のノートにスケッチと記録を残している。
ハーバードに残るノートから見えるのは、若い医学生が、動物、土地、人々を観察しながら、自然科学の現場に入っていたことだ。一方で旅の途中には体調を崩し、予定より早く帰国した。
帰国後も医学を続け、ドイツで学ぶ期間を挟みながら、1869年に医学博士号を取得した。だが医師として開業することはなかった。
医学博士号のあと、自由意志を考える
20代後半のジェームズには、目や背中などの身体的不調が繰り返し現れた。医師として開業せず、大学での職もまだなかった時期に、自由意志と決定論をめぐる哲学的な問題が、抽象的な学説以上の重さを持つようになる。後年の資料からは、この時期に抑うつ状態と強い不安を経験していたことも確認できる。
ここで注意したいのは、ジェームズの人生を「思想の力で病気を克服した成功物語」にしないことである。健康問題はその後も続いたし、一つの本を読んだ瞬間に人生が解決したわけでもない。それでも、一つの日付が資料に残っている。
1870年4月30日、28歳のジェームズは日記に、フランスの哲学者シャルル・ルヌーヴィエの自由意志論を読んだことを書いた。そして、自分の最初の自由な行為を「自由を信じること」として扱ってみよう、と記している。世界が決定されているかどうかを理論だけで決着させるのではなく、自分がどの立場から行為するのかを選ぼうとした記録だった。
この一日を、その後すべての思想の起点にすることはできない。ただ、後に意志、注意、習慣、信念を繰り返し考えた人物が、28歳のときにはそれらを自分の生活に関わる問題として書いていたことは分かる。
30歳、ハーバードで教え始める
1872年、30歳のジェームズはハーバード大学で教え始めた。最初に任されたのは脊椎動物生理学の授業だった。医学を学んできた経歴から、生理学に近いところで大学の教員生活が始まったのである。
やがて関心は、身体の働きと心の働きの境界へ向かう。1875年には「生理学と心理学の関係」を扱う授業を開き、学生に実験を見せるための設備を整えた。現在のハーバード大学心理学部は、この時期を同大学における心理学の制度形成の重要な段階として位置づけている。
ジェームズは心理学を自然科学のように完成した体系とは考えず、まだ方法も概念も作りつつある分野として扱っていた。生理学から出発しながら、哲学を捨てず、実験も内省も使う。この境界の曖昧さは、彼の仕事の特徴になった。
1878年、36歳でアリス・ハウ・ギベンズと結婚した。ホートン図書館には夫妻の大量の書簡が残っている。公的な著作だけでなく、家族とのやり取りまで含めて、ジェームズは比較的豊富な一次資料を残した人物である。
心理学を「できあがった学問」と思っていなかった心理学者
1890年、48歳のジェームズは大著『心理学原理』を刊行した。執筆には長い時間がかかり、当初の予定を大幅に超えた。そこで扱われたのは、感覚や知覚だけではない。習慣、注意、感情、自己、意識の連続、意志まで、人間の経験を広い範囲で考えようとしている。
「意識の流れ」という表現で知られるように、彼は心を静止した部品の集合としてだけ扱わなかった。私たちの意識は刻々と移り、選び、注意を向け、過去の経験とつながりながら進む。また感情については、身体変化と感情経験の関係を論じ、デンマークの生理学者カール・ランゲとは独立に、後にジェームズ=ランゲ説と呼ばれる考えを提示した。
その心理学には、生き物が環境の中で何をしているのかという問いがある。心の働きを、机上の分類だけでなく、行為と適応のなかで捉えようとした点は、その後のアメリカ心理学にも大きな影響を与えた。
「30歳で固まる」は、何について書かれた言葉だったのか
『心理学原理』の「習慣」の章には、後世まで繰り返し引用される「30歳ごろには性格が石膏のように固まる」という一節がある。ただし、その直前と直後まで読むと、現在の人格心理学でいう性格特性だけを論じた文章ではないことが分かる。
ジェームズは、職業に就くことで身につく振る舞い、思考の癖、偏見、業界特有のものの見方などを挙げ、それらが年齢とともに抜けにくくなると論じた。そのうえで30歳ごろには「性格・人格(character)」が固まると書き、続く段落では20代を知的・職業的習慣の形成に重要な時期、20歳以前を発音、身振り、動作、人との接し方などの個人的習慣が固まりやすい時期として区別している。
したがって、ここでいう固定には、現代的な意味での人格特性だけでなく、考え方の癖、職業上の習慣、偏見、話し方や身振りまでが混在している。「30歳で性格が完成する」という一文だけに縮めると、ジェームズ自身の議論より狭くなる。
一方で、後世の人格心理学はこの「石膏」の比喩を別の形で受け継いだ。20世紀末から2000年代の研究では、30歳以降のビッグファイブなどの人格特性がどこまで安定するのかという仮説を「プラスター仮説(plaster hypothesis)」と呼び、ジェームズの一節を歴史的な起点の一つとして引用している。その研究史では、成人後にも平均的な人格特性の変化が観察されることが報告され、「30歳で完全に固定する」という強い形の仮説は支持されにくくなった。
ここでは、ジェームズが1890年に習慣と性格・人格について書いたことと、後世の人格心理学がその比喩を人格特性の安定性へ読み替えて検証したことを分けておきたい。
心理学から哲学へ
ジェームズは心理学の制度形成に大きな役割を果たしたが、晩年まで心理学だけに留まらなかった。1897年には『信ずる意志』、1902年にはエディンバラで行った講義をもとに『宗教的経験の諸相』を刊行する。そこで関心の中心になったのは、宗教制度そのものより、一人ひとりが経験する信仰、回心、苦悩、救済だった。
さらに1907年、『プラグマティズム』を刊行した。考えの意味を、その考えを採用したとき経験にどんな違いが生じるかから問う。真理を、現実と照合するだけの固定物ではなく、人間の経験と実践との関係から考えようとした。
心理学から哲学へ移った、とだけ言うと単純すぎる。ジェームズの仕事には最初から、身体と心、事実と価値、決定と選択を一つの専門領域だけで切らない傾向があった。後半生は、その範囲がさらに広がった時期だったと見る方が近い。
一つの専門に収まらなかった人生
1907年、65歳でハーバード大学を退職した。1910年8月、68歳で死去する。現在、ハーバード大学ホートン図書館には、日記、ノート、原稿、家族や友人への大量の書簡が保存されている。
ウィリアム・ジェームズは、習慣の力を強く書いた心理学者だった。同時に、画家をやめ、医学を学び、医師として開業せず、生理学を教え、心理学の制度形成に関わり、その後は哲学と宗教経験へ仕事を広げた人物でもある。
ただし、この職業上・学問上の移動そのものをもって、「だから30歳を過ぎても性格は変わる」と結論することはできない。職業や研究対象が変わることと、人格特性、価値観、習慣が変わることは同じではないからである。
ジェームズの人生と著作を並べると見えてくるのは、もっと限定された関係だ。自分の身体や仕事が思うように進まない時期を経験した人物が、意志、注意、習慣、信念を繰り返し考え、やがてそれらを心理学と哲学の双方から書いた。その問いが、彼の人生の複数の場面と接していたことまでは、資料からたどることができる。




