一人の人生を読む
鉄のランプが盗まれた
エピクテトス(Epictetus)は、家の祭壇のそばに鉄製のランプを置いていた。あるとき物音を聞き、あとでランプが盗まれたことに気づいた。『語録』(Discourses)第1巻18章で、彼はその出来事を教えの中に持ち出している。
翌日からは、土製のランプを使えばよい。
この話で目立つのは、立派な格言より先に、盗まれたのが一個の生活用品だということである。ランプは失われた。しかし、盗まれた物と一緒に、自分の判断まで相手へ渡す必要はない。エピクテトスが自由を考えるとき、こうした小さな日常の出来事と、奴隷や主人、皇帝といった大きな権力の問題は、同じ問いへつながっていた。
1世紀のローマ帝国で生きたこの哲学者自身も、若いころには自分の身分を自分で決められる人ではなかった。
ヒエラポリスからローマへ、奴隷として
エピクテトスは、1世紀半ばの50年代頃、小アジアのヒエラポリスに生まれたとされる。正確な生年は分かっていない。両親や兄弟についても、確かな材料はほとんど残らない。
若い時期、彼はローマでエパフロディトゥスという人物の奴隷だった。エパフロディトゥスは皇帝ネロの宮廷で秘書を務めた解放奴隷であり、エピクテトスはその家に属する人間としてローマ社会の中にいた。
彼は足が不自由だったとも伝えられている。後世には、主人が脚をねじり上げ、エピクテトスが「折れる」と警告したあと実際に折れた、という逸話まで語られた。一方、足の障害そのものは複数の資料に伝わるものの、その原因については異なる説明が残っている。
ローマにいた彼は哲学を学ぶ機会を得た。師となったのはストア派哲学者ムソニウス・ルフス(Musonius Rufus)である。奴隷であったエピクテトスが、いつ、どのような経路でその講義へ通うようになったのか、細部までは分からない。それでも、のちに彼自身が教えることになるストア派の思想へ、ローマ時代に接続していたことは確かである。
解放されても、自由の問題は残った
エピクテトスはのちに奴隷身分から解放された。いつ解放されたのかは分からないが、自由身分となった後、彼は自ら哲学を教える側へ移っていく。
元奴隷となった彼は「自由」を、法的な身分だけの問題としては扱わなかった。『語録』第4巻1章は、ほとんど一章まるごと自由についての講義になっている。
そこには、奴隷、主人、解放、官職、皇帝の寵愛、財産、評判といった例が繰り返し出てくる。奴隷でなくなれば自由なのか。市民であれば自由なのか。高い地位に就けば自由なのか。エピクテトスは、そのどれも、それだけでは十分ではないと考えた。
身体をどう扱われるか、財産を持てるか、どんな評判を得るか、どの地位に就けるか。こうしたものは、自分だけで決められるものではない。それに対して、何を正しいと判断するか、何を欲するか、何を選ぶかについては、自分の働きかける余地がある。彼が自由を置いたのは、主としてこちら側だった。
この自由論は、ムソニウスから受けた教育とストア派の長い伝統の中にある。『語録』第4巻1章で、エピクテトスは奴隷、主人、解放、官職、皇帝の寵愛を次々に例へ持ち込む。かつて奴隷であり、のちに解放された教師が、自由を語るときに使ったのは、彼が生きた社会の具体的な語彙だった。
皇帝に居場所を動かされ、ニコポリスで教える
自由身分になったあとも、エピクテトスが自分の生活条件をすべて決められたわけではない。
1世紀末、皇帝ドミティアヌスはローマやイタリアから哲学者を追放したと古代の記録に伝えられている。年代の整理には幅があるが、エピクテトスもこの追放の時期にローマを離れ、ギリシア西岸のニコポリスへ移った。
法的には自由人であっても、皇帝は哲学者の居場所を変えることができた。
ローマを離れたエピクテトスは、ニコポリスで学校を開き、長く教えた。『語録』には、地位ある訪問者が彼を訪ね、自分の家庭や行動について話す場面も残っている。教室では、そうした具体的な悩みや行動がそのまま哲学の材料になった。
病気の娘から逃げた父に、質問を返す
ある父親がエピクテトスのもとを訪れた。幼い娘がひどく病気になったとき、心配に耐えられず、家から逃げ出したのだという。
父親は、それほど娘を愛していたからこそ、その場にいられなかったと説明した。
エピクテトスはそこで、愛情を否定する説教を始めない。代わりに問いを返す。もし娘を愛しているなら家から離れるのが自然なのだとすれば、母親も離れた方がよいのか。乳母も、教育係も、兄弟も、みな愛情があるほど病人から逃げるべきなのか。
相手の説明を一度受け取り、その説明を別の人にも当てはめてみる。すると、「愛しているから逃げた」という言葉と、実際の行動の関係が揺らぎ始める。
エピクテトスの哲学は、完成した答えを暗記することだけではなかった。自分が目の前の出来事をどう判断し、その判断からどんな行動を選んだのかを点検する訓練でもあった。ここで鍛えられているのは、外の出来事を支配する力ではなく、自分の説明や判断を問い返す力である。エピクテトスが自由を置いた場所は、こうした判断の訓練にも現れている。
本を書かなかった哲学者の声を、弟子が書く
後世にこれほど読まれたエピクテトスは、自分では著作を残さなかった。
現在『語録』として読む文章は、弟子アリアノス(Arrian)が記録した。アリアノスは序文で、自分は文学作品としてこれを構成したのではなく、エピクテトスが話したことを、できるだけ聞いたとおりに書き留めたのだと説明している。
それが一言一句そのままの速記録だったとまでは分からない。だが、文章には教室での応答や呼びかけの感触が強く残る。訪問者への質問、学生への叱責、身近な例、反論への応答。それがエピクテトスという教師の姿を、体系書とは違う形で残した。
『語録』はもともと少なくとも8巻あったと考えられているが、現在残るのは4巻である。短い『要録』(Enchiridion)も、アリアノスがその教えをまとめたものとして伝わる。
エピクテトスは、自分の哲学を書物として残さなかった。そのため今日の読者が接しているのは、本人の声と、弟子がそれを保存しようとした行為の重なりである。
老年の家に子どもがいた、という後代の記憶
エピクテトスの私生活は、講義内容ほど詳しく残っていない。
数世紀後、6世紀の哲学者シンプリキオス(Simplicius)は、彼が長く独身で暮らしたあと、貧しい友人が捨てようとしていた子どもを引き取り、その子を育てるために女性を家へ迎えたと伝えている。
これはエピクテトスから数世紀後の記録だが、晩年の家庭生活について残る数少ない記述の一つになっている。
『語録』第3巻22章で、彼は理想的なキュニコス派の哲学者について、普通の家庭を持てば、その使命と責任が衝突しうると論じている。そこで扱われているのは、特殊な使命を担う哲学者と家族責任との緊張である。晩年の養育伝承は、その議論とは別の場面で、具体的な一人の子どもを引き受けたエピクテトスの姿を伝えている。
土のランプが、死後には高値になった
エピクテトスは135年頃に死去したとされる。正確な日付や死因は分かっていない。
その教えは、すでに次の世代へ広がっていた。皇帝マルクス・アウレリウス(Marcus Aurelius)は『自省録』(Meditations)第1巻で、師ユニウス・ルスティクスからエピクテトスの講話に接したことに感謝している。二人が直接会ったわけではない。ニコポリスで語られた教えは、ルスティクスの蔵書を通じて後の皇帝の読書へ入っていた。
さらに2世紀の風刺作家ルキアノス(Lucian of Samosata)は、エピクテトスが使っていたという土製のランプに、ある人物が3,000ドラクマを払ったという話をからかっている。そのランプを手に入れれば、眠っているあいだにエピクテトスの知恵まで手に入るとでも考えたのか、と風刺したのである。
生前、鉄のランプを盗まれたエピクテトスは、次は土のものを使えばよいと語った。死後、ルキアノスの風刺では、その土のランプに3,000ドラクマの値がついた。彼が自由の外側へ置いたはずの「物」と「評判」が、死後には結びついて価格を生んだのである。
しかし、より長く残ったのはランプではなかった。エピクテトス自身は本を書かなかった。それでも、教室で人に問い返した言葉をアリアノスが書き留めたため、奴隷、主人、財産、病気、家族といった具体的な場面の中で自由を考える教師の声が残った。自由を財産や地位から切り離した人は、自分の名を所有物に刻むのではなく、他人の筆の中で読まれ続けることになった。




