一人の人生を読む
『7つの習慣』より14年前、言葉はまだ宗教の中にあった
1975年5月27日、42歳のスティーブン・R・コヴィー(Stephen R. Covey)は、ブリガム・ヤング大学(Brigham Young University、BYU)の講壇に立っていた。まだ『7つの習慣』が出る14年前である。この日の講演題は「教育された良心(An Educated Conscience)」。聴衆は学生や教職員で、内容は末日聖徒イエス・キリスト教会(The Church of Jesus Christ of Latter-day Saints)の信仰を前提とした宗教講演だった。
途中でコヴィーは、聴衆に四つの問いを投げかけた。キリストへ近づくために何をするか。家族の一員として何をするか。教会での責任をどう果たすか。そして、学生や教職員として何をするか。少し黙って、自分の良心に聞くよう促した。
ここには、後のコヴィーを有名にした言葉がまだそのまま並んでいるわけではない。けれど骨格はかなり近い。人生には複数の責任があり、何を優先するかを自分で考え、役割を引き受け、行動する。講演の終わりで彼は、人生を「キャリア」より「使命」として捉える考えを示した。
『7つの習慣』につながる問いは、すでにこの宗教講演の中にあった。コヴィーは長いあいだ、宗教、家族、教育、仕事を一つの原則の下に置けないかと考えていた。やがて彼は、その問いを宗教内部の言葉から、企業や家庭でも使える言葉へ移し替えていく。
松葉杖をついていた三年間
コヴィーは1932年10月24日、ユタ州ソルトレイクシティに生まれた。少年時代は活発で、テニスなどのスポーツを好んだという。ところが中学生の頃、大腿骨頭すべり症(slipped capital femoral epiphysis)を患い、約3年間、松葉杖で生活することになった。
BYUの後年の人物記事では、この時期に彼の関心がスポーツから読書や討論へ移ったとされている。松葉杖で過ごした三年間に、少年の生活の中心は身体を動かす活動から読書や討論へ移った。のちの教育者としての歩みは、その後さらに宣教、大学、研究、企業研修という別の経験を重ねて形づくられていく。
高校を早く終え、ユタ大学(University of Utah)で経営学を学んだ。卒業後は家族のホテル事業へ進む道もあったが、20代前半の彼はまず、教会の宣教師としてイギリスへ渡った。そこで宣教師や地域の責任者を訓練する役割を任される。小さな集会所や街頭で人に話し、教える経験の中で、彼は教育そのものへ強く惹かれていったと、家族やBYU関係者は後に振り返っている。
教える仕事と、9人の子どもを持つ家庭
1955年、イギリスでコヴィーはサンドラ・メリル(Sandra Merrill)と出会った。サンドラはタバナクル合唱団の欧州ツアーで現地を訪れていた。二人は翌1956年8月に結婚する。同じ頃、コヴィーはハーバード・ビジネス・スクール(Harvard Business School)でMBAを修め、その後、家業ではなくBYUで教える道を選んだ。
夫婦にはやがて9人の子どもが生まれる。家庭もまた、コヴィーが「責任」「優先順位」「原則」を考える現場になっていった。
1962年、29歳のコヴィーは、新しく設けられたアイルランド伝道部(Irish Mission)の初代責任者となる。サンドラと幼い子どもたちも一緒に渡った。サンドラは後年のオーラルヒストリーで、若い母として大人数の宣教師を抱える生活を送りながら、青年向けの活動や音楽グループづくりにも関わったと語っている。子どもたちを含む一家の生活は、宗教共同体の運営と深く重なっていた。
帰国すると、コヴィーはBYU学長アーネスト・L・ウィルキンソン(Ernest L. Wilkinson)の補佐や大学広報に関わり、その後経営学部の教員へ戻った。ウィリアム・G・ダイアー(William G. Dyer)らと組織行動(organizational behavior)の教育を育て、学生だけでなく企業向けの研修も始める。この頃の彼は、大学、教会、企業、家庭をまたいで同じ問題を教え始めていた。
「原則」を大学で測ろうとする
1976年、43歳のコヴィーはBYUで宗教教育博士号を取得した。博士論文の題材は、人間関係訓練に宗教的な原則と「スチュワードシップ(委ねられた責任)」を組み込むと、学生の社会的・感情的・道徳的成長にどのような違いが出るか、というものだった。
222人の学生を対象にした研究で、彼は伝統的な授業と、個別の目標設定・説明責任・宗教的な読書や討論を組み込んだ授業を比較した。結果は、後年の世界的成功を先取りするような鮮やかなものではない。全体の事前・事後質問紙ではグループ間に有意な差は出ず、一部の観察評価や面接などで「スチュワードシップ」型の授業に小さな改善が見られた。コヴィー自身も、原則を十分厳密に適用できていない可能性を挙げ、より精密な方法で研究し直す必要があるとした。
この論文は『7つの習慣』の効果を調べた研究ではない。それでも興味深いのは、のちに「時代を越える原則」を強く語る人が、40代前半には大学の中で、その原則をどう教え、どう測るかを実験していたことである。信念と測定は、この時点では同じ机の上に置かれていた。
宗教の言葉を、企業の言葉へ
1970年代から80年代初め、コヴィーはBYUで教えながら企業向け研修を続けた。週末に企業へ出向き、組織行動や人間関係について教える。顧客が増え、教室の外に大きな需要があることが見えてくる。
大学から研修事業へ重心を移した節目の年は、記録によって少し異なる。BYU側は1983年、FranklinCoveyの追悼文は1984年を節目としている。SEC提出資料では、大学教員の在籍を1957年から1983年、コヴィー・リーダーシップ・センター(Covey Leadership Center)の経営関与を1980年からと記している。複数の記録を並べると、大学教育と研修事業は数年間重なりながら、1980年代前半に活動の重心が移っていった。
この移行では、聞き手とともに語彙も変わった。1975年の講演では「良心」「聖霊」「スチュワードシップ」「使命」といった宗教語が前面に出ていた。企業や一般読者へ向けた著作では、それらは「原則」「主体性」「ミッション・ステートメント」「最優先事項」「Win-Win」といった言葉へ組み替えられていく。
コヴィーがしたのは、自分が宗教的世界の中で真理だと考えていたものを、宗派の外でも使える語彙へ翻訳することだった、と読むことができる。
七つの習慣に、長い助走をまとめる
1989年、56歳のコヴィーは『7つの習慣(The Seven Habits of Highly Effective People)』を刊行した。第1の習慣「主体的である」から始まり、「終わりを思い描くことから始める」「最優先事項を優先する」と自分自身の扱い方を組み立てた後、「Win-Winを考える」「まず理解に徹し、そして理解される」「シナジーを創り出す」と他者との関係へ進み、最後に「刃を研ぐ」で再新再生を置く。
長男スティーブン・M・R・コヴィー(Stephen M. R. Covey)は後年、父はこれらの考えを自分が発明したとは主張しておらず、既にある原則を記憶しやすく、使いやすい順序に整理したのだと語っている。
コヴィーは、変わらないと信じる原則を見つけ、順序づけ、生活の言葉に直す教師として振る舞った。この家族証言は、その本人側の仕事理解をよく表している。
本は巨大な成功を収め、講演と企業研修の需要も急増した。コヴィーは世界各地を移動し、一日に何度も講演するような日程をこなすようになる。大学の教室で始まった「教える仕事」は、国家指導者や大企業の経営者を含む聴衆へ広がった。
「最優先事項」を、家族でどう守るか
その一方で、コヴィーが説いた「最優先事項」は、もっと小さな場面でも試されていた。長女シンシア・ハラー(Cynthia Haller)は、12歳の頃の一晩を後に語っている。
父娘は何か月も前から、サンフランシスコで二人きりの夜を過ごす予定を立てていた。コヴィーは日中、会議で教えた後、娘との予定へ向かおうとする。その場で大学時代の旧友と偶然再会し、夕食に誘われた。シンシアは、自分との予定はなくなると思ったという。しかし父は、娘と特別な約束があるからと誘いを断った。
これは娘が後年に語った記憶である。同じBYUの記事は、コヴィーの移動量が非常に多く、同行者がついていけないほどだったとも伝えている。
その二つを並べると、この夜の意味が見えやすい。家族を優先したと語るだけなら簡単である。実際には、仕事の機会、古い友人、長く計画した娘との時間が同じ場所でぶつかった。そのとき何を断るかまで含めて「優先順位」は生活になる。コヴィーの家族は、その選択を父の教えと結びつけて記憶した。
原則が会社になる
『7つの習慣』の成功後、コヴィー・リーダーシップ・センターは研修プログラムや教材を広げ、企業や組織の中で同じ語彙を教える仕組みをつくった。
1997年、同社は時間管理で知られたフランクリン・クエスト(Franklin Quest)との合併を発表する。発表時の取引規模は約1億6000万ドル。新会社はフランクリン・コヴィー(Franklin Covey Co.)となり、コヴィーとフランクリン・クエストのハイラム・スミス(Hyrum Smith)が共同会長となった。
一人の教授が教室で語っていた「責任」「優先順位」「人間関係」は、この頃には書籍、研修、認定講師、企業契約を通じて流通する大きな事業になっていた。フランクリン・コヴィー社自身は、コヴィーが会社運営の細部より執筆と教育に重点を置き、経営実務を他の人々へ任せたと説明している。
原則を広く教えるため、個人の講演は組織、商品、契約、販売網へ組み込まれていった。普遍的だと語られた原則は、同時に、巨大な教育ビジネスとして届けられるようになった。
「普遍的な原則」は、本当に普遍的なのか
コヴィーは原則を、流行するテクニックより深い、時代が変わっても残るものとして扱った。日本語版『完訳7つの習慣』でも、「人格」と「原理原則」は中心に置かれている。
しかし、外部の研究者はその前提をそのまま受け入れなかった。1999年、経営学者ブラッドリー・G・ジャクソン(Bradley G. Jackson)は、コヴィーを中心とする「エフェクティブネス運動(Effectiveness movement)」の魅力を、管理技術の優劣だけでなく、人々の物質的・実存的・精神的な欲求に響く修辞として分析した。成功法則が広がった理由を、「正しいから」だけではなく、「生き方の意味まで与える物語だったから」と考えたのである。
2002年には教育行政学者フェンウィック・W・イングリッシュ(Fenwick W. English)が、さらに強く批判した。コヴィーの著作は実証科学として組み立てられたものではなく、その認識論にはキリスト教的な啓示や預言の前提がある、と論じた。教育行政の大学院教育で、科学的に検証された知識と同じように扱うべきではないという主張である。
経営学者クリス・アージリス(Chris Argyris)も、コヴィーを含む経営助言の一部について、助言同士に緊張があったり、現場で「いつ、どちらを選ぶか」を決めるための手がかりが足りなかったりすると批判した。
三者が問題にした点は異なる。1976年の博士論文で効果測定に苦労した本人が、十数年後には「普遍的原則」を大きな確信をもって語るようになったという時間の流れと並べると、ひとつの緊張は残る。原則が人を導くことと、その効果を科学的に証明できることは、同じではない。
最後に戻った場所は大学だった
2010年2月、77歳のコヴィーはユタ州立大学(Utah State University)に加わり、ジョン・M・ハンツマン・プレジデンシャル・チェア・イン・リーダーシップ(Jon M. Huntsman Presidential Chair in Leadership)の初代就任者となった。世界的な著者となり、会社も巨大になった後で、肩書はまた「大学で教える人」に近づいた。
晩年は年齢と健康上の問題から旅行や講演を減らしていたが、執筆は続けた。2012年4月にはサイクリング中に転倒して負傷し、その後、体調が弱っていく。7月16日、アイダホ州アイダホフォールズの病院で79歳で亡くなった。最期には妻サンドラと9人の子ども、その配偶者たちが集まっていた。
コヴィーが長く語ったのは、何を達成するかだけではなく、何を人生の中心に置くかだった。その答えを、彼は最初は信仰の言葉で語り、大学では教育として試し、企業には「原則」として伝え、家庭にも同じ枠組みを持ち込んだ。
その原則が本当に誰にとっても普遍的だったのかは、彼の人生だけでは決まらない。むしろ残ったのは、宗教、仕事、家族を別々の箱に入れず、同じ判断基準で生きられるのかという問いである。『7つの習慣』の七項目より長く続いているのは、コヴィーが何度も形を変えて投げかけた、その問いなのかもしれない。




