一人の人生を読む
調べていた若者は、親と暮らしていた
1991年、山田昌弘は、20代の子どもと50代の親がどのように生活を支え合っているかを調べる共同研究に参加した。家計経済研究所を舞台に、宮本みち子、岩上真珠、米村千代と取り組んだ調査である。対象となったのは、就職した後も結婚せずにいる若者と、その親たちだった。
研究者たちは、成人した未婚の若者なら、親元を出て一人で暮らすことが多いだろうと考えていた。山田自身もそうだった。東京の下町に育ち、狭く貧しい家を早く出た経験が、その見方の背景にあったという。
ところが、長野県松本市と東京都府中市で調査を進めると、親と同じ家に暮らす若者が多かった。仕事で得た給料を自分の買い物や遊びに使い、親もそれを受け入れている。研究仲間も驚いたと、山田は後年の論文に記している。
ここから数年後、彼は「パラサイト・シングル」という、耳に残る言葉を社会へ送り出す。その言葉で知られる以前の山田は、まず、自分の考えていた家族像を調査結果によって覆された研究者だった。
数学を好きだった少年が、家族を調べるまで
山田は1957年、東京都に生まれた。高校時代に目指していたのは社会学者ではなく、数学者だった。数学雑誌に問題の解答を投稿し、数学者の広中平祐とテレビで座談会をしたこともあったという。数字と論理の世界に心をひかれていた。
山田は後年、家族を研究することになった背景として、大学時代の暮らしを挙げている。2026年のインタビューによれば、母は公害病で長く寝たきりとなり、山田は通学しながら介護と家事を担った。父の自営業も経済的に苦しい時期があったという。
家族の誰かが病気になり、家計まで苦しくなったとき、その負担は誰が引き受けるのか。山田は、介護と家事を担った経験から家族の仕組みに疑問を抱いたと説明する。当時は、現在の「ヤングケアラー」のように、自分の境遇を表す言葉さえなかったという。
東京大学で山田が触れたのが、社会学者の見田宗介の講義だった。あたりまえだと思ってきたものを、不思議なものとして見直してみる。山田は、その考え方に背中を押されたと回想している。
1981年に東京大学文学部を卒業し、大学院へ進む。1983年に社会学の修士課程を修了し、1986年に博士課程を満期退学した。やがて東京学芸大学で研究と教育に携わるようになる。
本人が後年語ったところでは、1980年頃の社会学では、家族は大きく変わらない安定した対象だと見なされ、研究者の関心が薄かったという。山田には、その安定した姿と自分が経験した家庭のあいだに距離があった。親子や夫婦の愛情を扱うときも、お金、仕事、生活の支えを切り離さない研究が始まった。
調査室から、新聞の夕刊へ
山田たちの1991年の調査が着目したのは、20代の未婚の子と50代の親のあいだの、お金のやりとりだった。子どもの養育や高齢者の扶養に比べ、この時期の親子関係はほとんど研究されていなかった。親に住まいや食事を支えられながら、働いて得た収入を自分の消費に回す。その暮らし方が結婚や働き方とどう関わるのか、山田は考え始めた。
1993年には米国のカリフォルニア大学バークレー校へ留学した。指導を受けたのは、感情社会学の研究者アーリー・ホックシールド(Arlie Hochschild)だった。山田によれば、週に一度、30分ほど面談の時間を設けてもらったという。感情や親密な関係を社会の仕組みとともに研究し、その成果を一般の読者にも伝えるホックシールドを、山田は後年まで尊敬する社会学者として挙げている。
1994年には『近代家族のゆくえ』を刊行する。さらに1997年2月8日、日本経済新聞の夕刊に「パラサイト・シングル」という言葉を載せた。1999年には『パラサイト・シングルの時代』を出版する。
その呼び名には強い響きがあった。「寄生」という言葉は、親の負担や子の依存を一方的に連想させる。実際、当時の著書は、親元にいて経済的な余裕を享受する若者と、結婚や自立を先送りすることの関係を問題にしていた。書名は広く知られ、海外でも取り上げられた。家族社会学の専門用語だった問題が、新聞やテレビで使われる言葉になっていく。
言葉が広まるなか、山田は1997年に厚生省の研究会、1999年には人口問題審議会などに加わった。親子の暮らしをめぐる研究が、行政の議論にも持ち込まれていった。
その名前が、現実からずれていく
ところが、社会の変化は、山田が付けた言葉の中に収まらなくなっていった。
1990年代初めの調査で目立ったのは、働きながら親と同居し、比較的自由にお金を使う若者だった。だが2001年に非正規雇用の若者を調べると、事情は変わっていた。正社員になる機会が限られ、独立した生活を望んでも十分な収入を得られない人が増えていたのである。
山田は1999年の著書で、不況によって親の世代の暮らしが苦しくなり、若者は親に頼れなくなるのではないかと予測していた。山田の分析によれば、企業や官庁は中高年の雇用を優先し、新卒採用を抑えて非正規雇用へと置き換えた。親に住まいを支えられなければ、生活を続けられない若者もいた。
こうした若者の雇用不安定化は、2004年の『希望格差社会』にもつながった。仕事や家族の条件の違いが、現在の収入にとどまらず、将来を思い描けるかどうかまで左右する。山田が見つめる対象は、親元を出ない若者の生活から、そもそも自立できる条件が失われていく社会へ移っていた。
2020年、山田は自分の歩みを振り返った学術論文で、1999年当時の予測は誤っていたと明確に認めた。生活のため親に頼る子もいれば、子の収入を頼りに暮らす親もいる。親子の関係を「寄生」と呼ぶより、互いに頼っていると考えたほうが実情に近い場合があると記している。同じ親同居でも、裕福さと貧しさでは意味が異なる。
1991年には、親と同居する若者が多いことに驚いた。今度は、親と同居する理由が変わっていく現実に向き合うことになった。
「結活」より、「婚活」
もう一つ、山田の名とともに広まった言葉がある。「婚活」だ。
2007年、ジャーナリストの白河桃子が雑誌『アエラ(AERA)』の取材で、山田に「結婚活動」について尋ねた。山田は翌2008年の共著で、そのときのことを振り返っている。就職活動を「就活」と呼ぶのなら、結婚活動は「結活」になる。しかし、それでは言いにくい。そこで「婚活」を提案したという。
命名のきっかけは、日常の取材の中の言葉のやりとりだった。その呼び名は、白河との共著『「婚活」時代』とともに広まる。
山田と白河が考えていたのは、結婚したい人にとって、以前のように職場や親族の紹介から自然に結婚相手と出会う仕組みが弱くなっていることだった。相手を探すために自分から動くこと、結婚相手への経済的な期待や性別役割を考え直すことを、二人は論じた。
やがて「婚活」は、自治体の結婚支援や企業のサービス、イベントの名前にも使われるようになる。後年の研究は、言葉の普及が結婚相手を探す行動を後押しする一方、サービスの利用には従来の男女の役割観も残っていたと分析した。白河との取材から生まれた短い言葉は、二人の本を離れ、さまざまな思いや期待のもとで使われていった。
家族の外にある関係へ
2008年、山田は中央大学文学部教授となった。2025年には『希望格差社会、それから』で20年前の議論を振り返り、『単身リスク』では、親族に頼れない単身者の老後を取り上げた。
2026年、山田はペットを家族として愛する人々や、人工知能と結婚したという事例に言及した。結婚する人が減っていく社会で、人は誰と親しい関係を結び、どこに愛情を向けるのか。山田はアンケートやインタビューを通じて、その実態を調べている。
かつて山田が見落としていたのは、親と同居する若者の多さだった。いま問いかけているのは、家族と暮らさない人がどこに愛情を見いだすのか、家族に頼れない人の生活を何が支えるのかということだ。調査対象は変わっても、学生時代の介護を通じて考え始めた、家族だけで負担を引き受けることへの疑問は残っている。


