一人の人生を読む
心理学者になる前、映写機をつくっていた
ルイス・レオン・サーストン(Louis Leon Thurstone)は1887年、シカゴでスウェーデン系移民の家庭に生まれた。父はスウェーデン軍で数学を教えた経験を持ち、のちにルター派の牧師、新聞編集者、出版人として働いた。家族はアメリカとスウェーデンを行き来し、サーストンはイリノイ、ミシシッピ、ストックホルム、ニューヨーク州ジェームズタウンなど、いくつもの土地で学校生活を送っている。
高校では幾何学のコンテストに勝ち、その賞金の一部でコダックのカメラを買った。『サイエンティフィック・アメリカン(Scientific American)』には、ナイアガラの滝を保全しながら水力を利用する案や、角の三等分に関する自分の考えまで投稿している。心理学より先に彼が惹かれていたのは、図形、機械、写真、そして「どうすれば仕組みをうまく動かせるか」という問題だった。
コーネル大学では電気工学を学んだ。音をフィルムへ記録する実験や、ちらつきを抑える映写機の設計に取り組み、実働する模型を作って特許も取得した。1912年、25歳になる頃、その映写機をトーマス・エジソンの研究所で実演する機会を得る。エジソンは生産方式をサーストンの装置へ切り替えなかったが、彼自身には研究所で働く職を提示した。
サーストンは卒業後、その職を受けた。しかし滞在は短かった。同じ1912年の秋にはミネソタ大学へ移り、記述幾何学と製図を教え始めている。発明家の研究所に残るより、大学へ戻る道を選んだ。
機械を設計していると、人間が問題になる
工学から心理学への転身は、まったく別の世界への飛躍だったわけではない。コーネルで機械設計を学んでいた頃から、サーストンは「機械を動かす人間の側の性質」も設計上の問題になることに関心を持っていた。現在なら人間工学と呼ばれる領域に近い問いである。
ミネソタ大学では初めて実験心理学を本格的に学び、練習時間と学習成績の関係を調べ始めた。1914年、27歳でシカゴ大学の心理学大学院へ進む。1915年からはカーネギー工科大学で応用心理学の研究に加わり、1917年にシカゴ大学で博士号を取得した。第一次世界大戦中には、陸軍の職業技能を判定する検査にも関わっている。
彼の仕事には早い段階から一貫した癖があった。目に見えない「能力」や「学習」を、そのまま曖昧な言葉として扱わず、変数を取り出し、その関係を測ろうとすることである。工学で機械の変数を考えていた人間が、心理学では人間の能力を測る変数を探し始めたとも言える。
心理学を「測れる科学」にしたい
1924年、37歳のサーストンはシカゴ大学へ戻った。同じ年、心理学者テルマ・グウィン・サーストン(Thelma Gwinn Thurstone)と結婚する。テルマはその後、知能検査や適性検査の研究で長く共同研究者となった。二人の仕事は、夫の研究を妻が補助したというより、心理測定を一緒に発展させた研究者同士の仕事として見る方が近い。
当時すでに知能検査は広く使われ始めていた。しかし、テストで数字を出せることと、その数字が何を意味するのかを説明できることは同じではない。サーストンは、心理検査が理論的な基盤の弱いまま広がっていることに不満を持った。
そこで彼が力を入れた方法の一つが因子分析だった。複数のテスト結果が互いにどの程度関係しているかを調べ、その背後にどんな共通の能力が潜んでいるかを推定する。サーストン以前にもチャールズ・スピアマン(Charles Spearman)がこの方法を知能研究へ導入し、さまざまな知的課題に共通する一般知能因子「g」を重視していた。
サーストンが変えたのは、問いの立て方である。「すべてに共通する一つの能力は何か」ではなく、これらのテストの関係を説明するには、いくつの能力が必要なのかと考えた。
一つのIQでは、人の能力を描ききれない
1938年、51歳のサーストンは『基本精神能力(Primary Mental Abilities)』を刊行した。最初の大規模な研究では、240人の成績の高い大学生に57種類のテストを実施し、その得点の関係を因子分析した。
そこから彼は、知能をいくつかの比較的独立した能力として捉えた。現在よく紹介されるのは、言語理解、語の流暢さ、数、空間、連合記憶、知覚速度、推理の七つである。
ここで発想が変わる。同じ「IQ 120」の二人でも、一人は言語理解が高く、もう一人は空間能力や数の扱いに強いかもしれない。一つの総合点だけを見るより、複数の能力を並べたプロフィールを見る方が、その人が何を得意としているかを細かく記述できる。
サーストンは、この考えを研究論文だけに置かなかった。テルマとともに基本精神能力を測る検査群を整備し、教育や職業選択にも使える形へ発展させていく。シカゴ大学の心理測定研究所には、適性検査や能力を分離して測るための多数の資料が残されている。
「gを否定した人」では終わらない
知能研究の歴史では、スピアマンが「知能は一つ」、サーストンが「知能は複数」と対立したように説明されることがある。入口としては分かりやすいが、そのままでは少し単純すぎる。
サーストンの分析では、複数の基本能力が完全に無関係である必要はなかった。むしろ能力同士に相関があるなら、その相関をさらに分析して、より上位の因子を考えることもできる。彼自身、スピアマンのgが第一段階の因子としてではなく、より高い階層の因子として現れる可能性を認めている。
つまり争点は、「gが存在するか、しないか」という二択だけではなかった。人間の知能を説明するとき、一つの共通性をどこまで重く見るのか。複数の能力をどの階層で区別するのか。サーストンの仕事は、その後の知能研究がこの問いをより複雑な構造として扱うための道を広げた。
測定のための「場所」までつくる
サーストンは研究方法だけでなく、それを続ける制度づくりにも関わった。1930年代、シカゴ大学では心理測定研究所を率い、研究者や学生が数量的な心理学を進める場をつくった。
1935年9月4日には、ミシガン州アナーバーで心理測定学会(Psychometric Society)の最初の組織会合が開かれた。サーストンは六人の創設者の一人で、初代会長となる。翌1936年には専門誌『サイコメトリカ(Psychometrika)』が創刊された。当時、教育や心理学に数学的・統計的な方法を用いる研究を発表できる場所そのものが十分ではなかったためである。
研究者が新しい問いを持っても、それを研究する研究所も、議論する学会も、発表する雑誌もなければ分野は育ちにくい。サーストンの仕事には、測定方法を考えるだけでなく、心理測定学という専門領域が継続できる環境をつくる面もあった。
65歳で、もう一つの研究所へ
1952年、65歳でシカゴ大学を退職すると、サーストンは研究を終えるのではなく、ノースカロライナ大学チャペルヒル校へ移った。そこで研究教授となり、新たな心理測定研究所を率いる。1955年9月29日、68歳でチャペルヒルに死去した。
サーストンが残した七つの基本精神能力を、そのまま現在の知能理論の最終回答と考える必要はない。その後、能力の数や構造は何度も組み替えられた。一方で、「一つの数字だけで人の知的能力を語ってよいのか」という問いは残った。
スピアマンが異なるテストに共通するものを探したのに対し、サーストンは、その共通性の中に隠れてしまう違いを測ろうとした。知能研究は、この二つの視点のどちらか一方を捨てるのではなく、両方をどう組み合わせるかという方向へ進んでいくことになる。




