一人の人生を読む
高校を中退して、軍隊へ行った
ジョン・L・ホーン(John L. Horn)は1928年、ミズーリ州セントジョセフに生まれた。両親は彼が幼い頃に離婚し、母とともにコロラド州デンバーへ移った。その後の少年時代は、母、叔父夫婦、そして彼を家族として迎えた別の家庭と、いくつかの家を移りながら育っている。
研究者としての経歴だけを見れば、のちに知能研究と統計的方法で名を残した大学教授である。しかし、その入口は典型的な優等生のものではなかった。
朝鮮戦争の時期、ホーンは高校を中退してアメリカ陸軍に入り、実戦を経験した。どの部隊で、どの戦闘に参加したのかまで信頼できる伝記資料は詳しく伝えていない。分かっているのは、除隊したあとに高校卒業程度認定資格(GED)を取得し、そこで教育の道へ戻ったということである。
大学へ進むために利用したのは、退役軍人向け教育支援制度(GI Bill)だった。デンバー大学で心理学と化学を学び、1956年、27歳で卒業する。名誉学術団体ファイ・ベータ・カッパ(Phi Beta Kappa)にも選ばれた。
高校卒業から一直線に大学院へ進んだ研究者ではない。いったん学校を離れ、軍務を経て、別の入口から学問へ戻ってきた。
オーストラリアで、キャッテルと出会う
デンバー大学を出たホーンは、さらにアメリカを離れた。オーストラリアのメルボルン大学で、心理学者サム・ハモンドのもと大学院で学ぶことになる。
そこで、彼の研究人生を大きく変える人物と出会った。レイモンド・B・キャッテル(Raymond B. Cattell)である。
キャッテルは、知能を一つの能力としてだけ見るのではなく、未知の問題へ対応する流動性知能(Gf)と、教育や経験を通して蓄積される結晶性知能(Gc)を区別する考えを提示していた。ホーンはオーストラリア滞在中にキャッテルと出会い、ほどなくイリノイ大学へ移って、その指導のもとで研究するようになった。
1961年に心理学の修士号、1965年に博士号を取得する。博士研究は、キャッテルが提案していた流動性知能と結晶性知能の理論を、まとまったデータで実証的に検討した最初期の研究となった。
ホーンは師の理論をそのまま受け継いだだけではない。研究を進めるにつれ、視覚的な処理、処理速度、記憶から情報を取り出す力など、GfとGcだけでは捉えきれない広い能力を区別していった。
知能は、全部同じようには年を取らない
ホーンにとって、「知能はいくつあるのか」という問題は、分類の遊びではなかった。
もし知能が本当に一つの能力だけでできているなら、その能力は年齢とともに一つのまとまりとして変化するはずだ。しかし実際には、初めて見る問題を素早く解く力と、長年かけて蓄積した語彙や知識とでは、年齢による変化の仕方が違う。
ホーンとキャッテルは1960年代、年齢の異なる人々の知的能力を調べた。そこで重要になったのが、流動性知能と結晶性知能の区別だった。新しい問題に対応する力と、経験を通して蓄えた知識は、人生の中で同じ軌道を描くわけではない。
この違いは、ホーンにとって「一つのIQだけを見ればよい」という考えへの疑問につながった。
もちろん、テスト同士には相関がある。ある知的課題が得意な人が、別の課題でも比較的よい成績を取る傾向は存在する。だが、その共通性だけを取り出してしまえば、能力ごとに違う発達や加齢のパターンが見えなくなる。
ホーンは、知能をいくつかの広い能力の組み合わせとして理解しようとした。
因子の数を「いつものルール」で決めない
ホーンが疑ったのは知能の理論だけではない。研究者がデータを分析するときの慣習にも、同じ態度を向けた。
知能研究では、多くのテスト結果から、その背後にいくつの共通因子があるのかを探るために因子分析が使われる。しかし、ここには一つ困った問題がある。
いくつの因子を残せばよいのか。
因子を二つにするのか、五つにするのかで、見えてくる知能の姿は変わる。当時よく使われていた判断法の一つに、「固有値が1を超えた因子を残す」というルールがあった。
1965年、ホーンは別の方法を提案した。
実際に集めたデータだけを見るのではなく、コンピュータでランダムなデータを作り、そのランダムデータから生じる固有値と比較する。観測データの因子が、偶然でも生じる程度の大きさしかないなら、無理に意味のある因子として残さない。
この方法は後に平行分析(parallel analysis)と呼ばれるようになった。
「研究者が慣れているから」という理由ではなく、そのデータから何が言えるかをできるだけ厳しく確かめる。ホーンの研究姿勢がよく表れている仕事である。
gにも反論し、ギルフォードにも反論した
知能研究では、ホーンはチャールズ・スピアマンの一般知能因子gに批判的だった。
スピアマンは、さまざまな知的課題に共通する一般的な能力を重視した。ホーンは、それだけでは人間の認知能力の構造を十分に説明できないと考えた。複数の広い能力があり、それぞれが違う発達をし、違う課題に関わっているというのが彼の立場だった。
しかし、「能力はたくさんある」と言えば何でもよかったわけでもない。
J・P・ギルフォード(J. P. Guilford)は、知能を非常に多くの要素に分ける知能構造モデル(Structure of Intellect)を提示した。ホーンはこの理論にも厳しい批判を向けた。因子分析の仕方によっては、研究者が期待した構造をデータから作り出してしまう危険があると考えたからである。
つまりホーンは、
知能は一つだけではない。けれど、好きなだけ細かく分ければよいわけでもない。
と言っていたことになる。
必要なのは、どの能力が本当にデータの中で区別できるのかを、方法そのものまで疑いながら確かめることだった。
「キャッテル=ホーン=キャロル」という名前だけでは見えないこと
現在、知能研究を学ぶと「キャッテル=ホーン=キャロル理論(Cattell–Horn–Carroll theory)」、略してCHC理論という名前に出会うことがある。キャッテルとホーンが発展させた複数の広い能力の考えと、ジョン・B・キャロルがまとめた階層的な知能モデルを後に統合して呼ぶ名称である。
ただし、この名称から三人がまったく同じ知能観を持っていたと思うと分かりにくくなる。
とくにホーンは、すべての認知能力の頂点に単一のgを置く説明に一貫して慎重だった。後世のCHCモデルは実用上、一つの大きな系統としてまとめられているが、そこに至るまでには「一つの共通能力をどこまで認めるのか」という論争が残っていた。
この違いこそ、知能研究の歴史を面白くしている。
77歳まで、複数の能力を追い続けた
ホーンはデンバー大学で長く研究と教育を行い、1980年には年間最優秀教授(Professor of the Year)に選ばれた。1986年からは南カリフォルニア大学へ移り、成人発達や加齢を含む研究を続けた。
研究対象は知能だけではない。因子分析、人格、アルコール研究、子どもの発達など、複数の変数が絡み合う問題へ広く取り組んでいる。共通していたのは、一つの数字だけで複雑な現象を説明しようとしない態度だった。
2006年8月18日、ロサンゼルスで77歳で死去した。
高校を中退して軍隊へ入り、高校卒業程度認定資格(GED)から大学へ戻った青年は、やがて「知能とは一つの能力なのか」という20世紀心理学の大きな問いに加わった。
ホーンが残したのは、「知能は複数です」という簡単な答えではない。人間の能力を測るなら、最初から一つの答えを決めず、違いが本当にデータに現れているのかを確かめ続けなければならないという姿勢だった。




