一人の人生を読む
昼食後、全校が集まる
1890年代の明治女学校では、昼食が終わると生徒たちが講堂に集まった。
のちにジャーナリスト、教育者となる羽仁もと子は、在学時を振り返り、そこで巌本善治がほぼ毎日話をしたと書いている。話題は時事問題、文学、宗教。教科の授業とは別に、そのとき社会で起きていることや、本で読んだことを全校で聞く時間があった。
相馬黒光の回想には、さらに雑多な話題が出てくる。女義太夫や落語家の名まで巌本の講話に登場し、聞いているうちに自分の視野が広がった、と相馬は記した。
生徒の側から、教師へ言葉を返すこともあった。
相馬は、教師の青柳有美が書いた文章に不満を持ち、そのことを手紙に書いたことがある。後年の彼女の回想では、その手紙が巌本の手に渡り、巌本は「面白い」と受け取り、『女学雑誌』に公開状のような形で掲載したという。
巌本の女子教育は、文章に書かれた主張と、こうした毎日の講話や編集判断の双方に現れている。彼が何を教えようとしたかだけでなく、生徒がその学校で何を言い、何を書けたのかを見ると、人物像はかなり具体的になる。
「学んで生きる」ために東京へ
巌本は1863年、但馬国出石に井上家の次男として生まれた。1868年、母方の叔父の巌本家へ養子に入る。養父は旧藩士で、漢学を教える人物だった。
明治維新は、旧武士の家の暮らし方そのものを変えた。身分に結びついていた経済的な安定が失われ、巌本家でも、子どもが将来自分で生計を立てるための教育が重要になった。善治は十歳のころに母を亡くしている。
1876年、十代前半の巌本は東京へ出た。中村正直の同人社で英語や漢学を学び、1880年には津田仙の学農社へ移る。そこで『農業雑誌』に文章を書くようになり、近藤賢三と知り合った。
1883年にはキリスト教の洗礼を受ける。学校で学ぶ青年だった巌本は、この時期から雑誌に文章を書き、読者へ考えを伝える側へ移っていった。
1885年に『女学雑誌』が始まり、近藤が亡くなった1886年以降、巌本はその中心的な編集者となった。同じ1885年に開校した明治女学校でも、1887年から運営の中枢に入る。二十代半ばの巌本は、雑誌と学校の両方に関わるようになった。
『女学雑誌』で、自分の女子教育論を公にする
1888年、巌本は『女学雑誌』94号と95号に「吾人の意見を明らかにす」を発表した。
そこで彼は、女性と男性を人間として同等の価値を持つ存在として扱い、女性の能力や人格も十分に育てるべきだと論じた。女性の教育を、男性に従うための最低限の教養で済ませる考えとは距離を取っていた。
一方、男女が同じ役割を担うべきだと考えていたわけではない。巌本は出産など身体上の違いを根拠に男女の「天性」には違いがあると考え、女性に固有の資質を教育で育てようとした。ただし、その資質を教育者が先に決めつけるのではなく、女性自身を自由に発達させなければ何がその人の才能なのか分からない、とも論じている。人間としての同等、男女の違い、本人が自分の能力を伸ばす自由が、彼の女子教育論には同時に置かれていた。
この考えは学校の方針にもつながった。
1892年にまとめた『吾党之女子教育』で、巌本は明治女学校を、日本の学問、西洋の学問、中国の学問のどれか一つへ寄せるのではなく、複数を組み合わせる学校として説明している。キリスト教を徳育の土台に置きながら、聖書を通常授業で一律に教え込む形は取らず、日曜日の聖書学習も希望者に開く形を取った。
巌本は、日本・西洋・中国の学びを組み合わせながら、自分なりの学校をつくろうとしていた。
生徒は、書き、異議を言う
巌本が編集した『女学雑誌』には、女性自身も書き手として参加した。
1889年に巌本と結婚した若松賤子は、結婚前から『女学雑誌』に文章を発表していた。結婚後も創作や翻訳を続け、1890年から92年にはバーネットの『小公子』を訳した。
同じころ、清水紫琴は上京して女学雑誌社に入り、記者として働いた。紫琴は女性の権利をめぐる活動を続けながら、小説も発表している。『女学雑誌』は女性について論じる媒体であると同時に、女性が記者や作家として文章を世に出す職場でもあった。
明治女学校の生徒たちも、自分の言葉で応答した。羽仁もと子は学校で学ぶ一方、『女学雑誌』の原稿に関わる仕事をした。相馬黒光は教師の文章を批判した。相馬の回想にある手紙の一件では、その批判そのものが巌本の編集を通って雑誌へ出ていった。
若松、清水、羽仁、相馬には、それぞれ自分の考えと仕事があった。巌本が運営した学校と雑誌では、彼女たちが読み、書き、時には教師へ異議を言う機会が生まれていた。
火事の五日後、妻を失う
1896年2月5日の夜、明治女学校で火災が起きた。校舎の大部分と、教師や生徒の寄宿舎が焼けた。
その五日後、2月10日に妻の若松賤子が亡くなった。
学校の建物を失い、家庭では配偶者を失う。巌本は学校経営と財政に加えて、一人親として子どもを育てる責任も負うことになった。校舎の再建と家庭の立て直しが、ほぼ同時に巌本の課題となった。
学校は近隣の邸宅を一時的に借りて授業を続けた。各地から援助が集まり、1897年には巣鴨で再出発する。しかし新しい場所は以前より都心から遠く、巌本自身、生徒には好まれにくい場所だと書いている。
明治女学校は移転後も、規模や条件を変えながら存続した。
女子大学は実現せず、学校は小さくなる
巌本には、明治女学校をさらに発展させ、女子大学へつなげる構想があった。しかし、その計画は実現しなかった。
学校の財政は安定せず、教師や協力者も減っていく。1900年代に入ると、巌本の文章には女子教育への失望も見えるようになる。彼は、立派な机や椅子、海老茶袴のような外形が整っても、教育の中身が伴わなければ意味がないと批判した。
自分が関わってきた女子教育が広がったからといって、望んだ方向へ進んでいるとは感じていなかったのである。
1904年ごろ、巌本は『女学雑誌』の編集責任者を退き、教育・ジャーナリズムの中心から少しずつ離れていった。それでも津田英学塾では1908年まで講話や寄宿舎の監督に関わっている。明治女学校も1900年代末には閉じた。
女子教育のための雑誌と学校に二十年近く関わった仕事は、ここで一区切りを迎えた。
女子教育の中心から離れて
1906年、横山源之助が移民会社を取材した同時代の記事に、巌本善治の名が出てくる。
そこでは、女子教育で知られた人物が、明治殖民会社の業務担当社員として紹介されている。会社はペルーへの移民を計画していた。女子教育の中心から少しずつ離れていった時期、巌本の仕事は移民事業にも広がっていた。
その後も編集の仕事は続き、1930年には勝海舟の談話を編んだ『海舟座談』を刊行した。
1942年10月6日、巌本は79歳で亡くなった。
教えられた側が残した巌本像
明治女学校で学んだ女性たちも、何十年か後に学校の日々を書き残し、巌本の姿を伝えている。
羽仁もと子は、明治女学校と巌本を「恩」のある存在として振り返った。一方で、学校にはキリスト教思想はあっても、生きた信仰が足りなかったという厳しい批判も書いている。
相馬黒光は、巌本の講話に強い印象を受けたことを書いた。同時に、教師への不満を率直に語り、学校が経済的に終わっていったことも惜しんでいる。
羽仁と相馬の記憶には、昼食後の講話を聞き、生徒自身も文章を書き、ときに教師へ異議を述べた学校の日常が残っている。相馬の批判の手紙は、巌本の編集を通じて雑誌にも載った。
巌本自身は男女に異なる役割を認めていた。その一方で、彼が運営した学校と雑誌では、女性たちが自分の言葉を使う機会が広がっていた。
教える側には明確な考えがあり、教えられる側にも自分の考えがあった。明治女学校の日常には、その両方が出会い、ときにぶつかる場面があった。




