Hegelroom / Biography

Nakamura Masanao

教育 / 江戸・東京 / 1832–1891

一冊の訳書から、まだ教室のなかった人々へ。

礼服姿で椅子に座る中村正直の白黒肖像写真
1832Born
1891Died
58Age
教育Field

02 / Profile

中村正直とは?

中村正直(1832–1891)は、幕府の儒官として英国へ渡り、維新後の静岡でスマイルズの『西国立志編』とミルの『自由之理』を翻訳した教育者・思想家。東京で同人社を営み、女子師範教育や視覚・聴覚障害者の学校の創設にも関わった。キリスト教と儒教のあいだを歩み、晩年には教育勅語の初期草案を執筆するも採用されなかった、その選択と仕事をたどる。

生誕
1832年6月24日
死去
1891年6月7日
年齢
58歳
出生地
江戸・麻布(現在の東京都港区周辺)
活動地域
江戸・東京、甲府、イギリス、静岡
分野
教育、翻訳、思想、儒学

03 / Life

一人の人生を読む

六人の名前が残った日

1875年5月22日、中村正直は五人の人々とともに「楽善会」を組織した。古川正雄、津田仙、岸田吟香、ボルシャルト、フォールズ。筑波大学附属聴覚特別支援学校の沿革には、この六人の名前と日付が残っている。彼らが計画したのは、目の見えない人のための教育だった。

楽善会が計画した教育を、実際の学校で始めるまでには時間がかかった。設立が認められるのは翌1876年、東京・築地に建物ができるのは1879年。子どもたちが学び始めるのは1880年になってからだ。中村たちの仕事は、結社をつくればすぐ学校ができるというものではなかった。

このとき中村は42歳。すでに『西国立志編』という広く読まれた訳書があり、私塾も持っていた。外国の思想を日本語に移し、文字を読む人に伝える仕事から、まだ教育を受けるための場所を持たなかった人々の学校へと、活動は広がっていた。

しかし、その出発点にあるのは明治の新しい学校ではない。幕府が学問の場を設け、儒学を教える教師を抱えていた時代である。

幕府から与えられた教室

中村は1832年、江戸の麻布に生まれた。父は幕府の同心、つまり幕府に仕える武士の一人だった。裕福な大名家の子ではなく、職務を持つ武家の家から学問の道へ進んだ。

通称を敬輔、号を敬宇という。中村が学んだ昌平坂学問所は、幕府が儒学を教えるために設けた学問の中心だった。佐藤一斎に師事し、漢学を修める。1855年には学問所で教える側に回り、1857年には甲府の学問所である徽典館の学頭となった。1862年には正式に幕府の儒官となる。

学んだ書物を読み、他人に教える。中村は若くして、その仕事を幕府から任された。中村は儒学を教える一方で英学にも関心を広げ、1866年には幕府が英国へ送った若い留学生たちの監督を命じられた。

中村は留学生としてではなく、若者たちを監督する立場で英国へ渡った。江戸の学問所で教えていた教師が、今度は海を越えて留学生と向き合う。

彼が英国にいる間に、日本では政治の土台が大きく変わった。1868年に帰国するころ、幕府はすでになくなっていた。中村が積み上げてきた役職は、そのまま続けられない。旧幕臣たちが移った静岡で学問所の教員となり、新たな生活を始めることになった。

幕府の儒官という肩書は消えたが、静岡でも中村は学問を教え続けた。

中村正直の旧居に近い静岡・富春院門前に立つ「尚志」の石碑
静岡市の「尚志」碑。中村正直がかつて近くに住んだことを記念する。写真:Halowand、2023年。 — Halowand / CC BY-SA 4.0

静岡で、一冊の本を日本語へ

静岡で中村が取り組んだ大きな仕事の一つが、英国の著述家サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)の『セルフ・ヘルプ』(Self-Help)を訳すことだった。日本語の題は『西国立志編』。初期の刊本には1870年の年記があり、1871年にまとまった形で刊行されたとする資料もある。数冊に分かれた本は、明治初年の読者へ広まっていった。

そこに書かれているのは、職人、発明家、技術者などが、仕事や学びを通じて自分の道を切り開く姿だった。中村は、英国の職人や発明家たちの経験を、明治初年の日本の読者が読める一冊の本にした。

幕府の学問所では、教える者と教わる者は制度の中で出会っていた。『西国立志編』は、中村の教室に通わない読者にも届いた。教室で教える仕事に、本を通じて伝える仕事が重なった。

この時期の中村は、書物を訳すだけでなく静岡で私塾を営んだ。学問所という旧来の制度に代わり、自分の教える場所をつくる。翻訳と私塾は、どちらも教える相手を増やす方法だった。

続いて中村は、英国の思想家ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)の『自由論』(On Liberty)を『自由之理』として訳し、1872年に刊行した。勤勉や努力を説く本と、個人の自由を論じる本。同じ中村の手から、異なる問いを持つ二冊が出た。

明六社の設立メンバー10人の白黒肖像を二列に並べた合成画像。中村正直は上段左から4人目
明六社の設立メンバーを肖像で並べた後世の合成図。中村正直は上段左から4人目。実際の集合写真ではない。 — Uraniwa (compilation of historical portraits) / Public domain (PD-Japan-oldphoto; PD-1996)

本の外にある、いくつもの学校

1872年、中村は東京へ移り、新政府の大蔵省に出仕した。翌1873年には小石川の自邸に英学塾「同人社」を開く。静岡から続いていた私塾の仕事を、東京でも営んだのである。同じころ、福沢諭吉らとともに明六社に参加し、学問や文明、社会について議論する知識人の輪にも加わった。

中村はキリスト教にも深い関心を寄せ、1874年に洗礼を受けた。幕府の儒官だった人が英国の書物を訳し、今度はキリスト教徒となる。中村は後年、儒教の道徳を改めて重んじるようになる。キリスト教の洗礼も、儒学との関わりの終わりを意味しなかった。

同じ時期、彼の関心は女子教育にも向かっていた。1875年11月に開校した東京女子師範学校で初代摂理を務め、1880年まで学校の運営に関わる。お茶の水女子大学に続く学校の歴史には、当時の中村の役職が具体的な年月とともに記録されている。男子の儒学教育を担っていた人が、女子の教員を育てる学校にも関わることになった。

そして、楽善会である。

1875年の六人の計画は、すぐに完成した学校の姿で現れたわけではない。築地に訓盲院の建物ができ、1880年に視覚障害のある子どもたちを、続いて聴覚障害のある子どもたちを迎えた。1885年には学校は文部省の直轄となる。施設や人員を整え、教育を続けることは、結社を作ることよりずっと長い仕事だった。

楽善会は、中村一人で進めた事業ではない。六人の発起人に加え、開校までには多くの人々が携わった。中村もまた、他者とともに学校を生み出す仕事の一端を担った。

訳書なら、教室から遠く離れた読者にも読んでもらえる。一方、訓盲院が子どもを迎えるには、校舎ができるまで待たなければならなかった。同じ教育の仕事でも、本を訳すことと学校をつくることでは、実現までの道筋が違っていた。

最後まで一つにならなかった道徳

1881年、中村は東京大学教授となり、漢学を教えた。英国の思想を訳し、キリスト教の洗礼を受けたのちも、儒学を教える仕事を担っていた。

1886年には元老院議官となり、1890年には貴族院議員に選ばれた。教育の現場と政府の職務を行き来してきた彼が、晩年にもう一度、国家の教育をめぐる大きな仕事に関わる機会が訪れる。

当時、政府の内部では、学校でどのような道徳を教えるべきかが争点になっていた。明治の教育は西洋の知識や技術を取り入れながら拡大したが、それを支える徳目をどう定めるかでは意見が分かれた。政府は1890年、教育の基本方針を示す勅語を準備する。

その初期草案を書いたのが中村だった。草案の作成時期ははっきりしない。国立国会図書館の調査論文によれば、中村案は儒教を基調にしつつ、キリスト教や西洋哲学の思想も取り入れていた。

ところが、この案は採用されなかった。法制局長官の井上毅(いのうえ・こわし)は、1890年6月20日の山県有朋宛の書簡で、中村案のキリスト教的な色彩などを強く批判した。教育勅語の文案は、井上と元田永孚(もとだ・ながざね)らを中心に作り直され、同年10月30日に発布された。

中村案には、彼が長く関わってきた儒教に加え、キリスト教や西洋哲学の要素も含まれていた。幕府の儒官から翻訳者、教育者へと歩んだ中村の思想は、国の教育方針を示す文書をめぐって井上の批判にさらされた。最終的に発布されたのは、中村案とは異なる文案だった。

校長のまま終わった人生

中村は1890年3月から女子高等師範学校の校長も務めていた。かつて初代摂理として関わった学校へ、今度は晩年の校長として戻ってきたことになる。教育勅語の草案が退けられたころにも、学校での仕事は続いていた。

1891年6月7日、中村正直は58歳で死去した。学校長の在職中だった。儒官だったころから約30年、幕府がなくなり、仕事の場所を変え続けた人は、再び教える制度の中にいるときに生涯を終えた。

『西国立志編』は広く読まれ、教育勅語の草案は採用されなかった。一方、楽善会から始まった教育の事業は制度を変えながら続き、女子教育の場にも中村が務めた年月が記録されている。

お茶の水女子大学には、中村の筆による掛軸が残る。学校や公職の記録と並んで、本人が書いた文字も後世へ伝わっている。

幕府の学問所で教えることを始めた中村は、最後には、幕府のころにはまだない形の学校に名を残した。広く読まれた本と、採用されなかった文章。その両方が、同じ人の仕事だった。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 18320歳

    江戸の幕府同心の家に生まれる

  2. 185522–23歳

    昌平坂学問所の教授方となる

  3. 186229–30歳

    幕府の儒官となる

  4. 186633–34歳

    幕府留学生の監督としてイギリスへ渡る

  5. 186835–36歳

    幕府の崩壊を経て帰国、静岡の学問所で教える

  6. 187138–39歳

    『西国立志編』の刊行が進み、広く読まれる

  7. 187239–40歳

    『自由之理』を刊行し、東京に移る

  8. 187340–41歳

    東京小石川に同人社を開き、明六社にも参加する

  9. 187441–42歳

    キリスト教の洗礼を受ける

  10. 1875年5月22日42歳

    津田仙ら5人と楽善会を組織し、視覚障害者の教育を計画する

  11. 188148–49歳

    東京大学教授となり漢学を教える

  12. 188653–54歳

    元老院議官となる

  13. 189057–58歳

    女子高等師範学校長・貴族院議員となり、教育勅語の初期草案を執筆する

  14. 1891年6月7日58歳

    女子高等師範学校長の在職中に死去する

05 / Works

主な翻訳と教育活動

01

翻訳 / 1871

『西国立志編』

サミュエル・スマイルズ『セルフ・ヘルプ』の翻訳。初期刊本には1870年の刊年もあり、明治初年に順次広まった。

02

翻訳 / 1872

『自由之理』

ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』を日本語で紹介した。

03

私塾 / 1873

同人社

静岡時代にも営まれ、東京小石川では英学を学ぶ私塾として活動した。

04

教育事業 / 1875

楽善会・訓盲院

中村を含む6人が視覚障害者教育を計画。1880年に視覚・聴覚障害のある児童を迎える学校へ発展した。

05

教育 / 1875

東京女子師範学校・女子高等師範学校

初代摂理を1875〜1880年、校長を1890〜1891年に務めた。

06 / Conditions

中村正直の人生をつくったもの

  • 01

    教える場所を変える

    幕府の学問所から私塾へ、さらに女子教育や視覚・聴覚障害者の教育へと活動が広がった。

  • 02

    異なる思想のあいだで

    儒学を学び、英国の思想を訳し、キリスト教の洗礼を受け、後年には儒教道徳も重視した。

  • 03

    採用されなかった言葉

    1890年の教育勅語の初期草案は中村が書いたが、宗教的・哲学的な色彩を批判され、採用されなかった。

07 / Read more

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