一人の人生を読む
六人の名前が残った日
1875年5月22日、中村正直は五人の人々とともに「楽善会」を組織した。古川正雄、津田仙、岸田吟香、ボルシャルト、フォールズ。筑波大学附属聴覚特別支援学校の沿革には、この六人の名前と日付が残っている。彼らが計画したのは、目の見えない人のための教育だった。
楽善会が計画した教育を、実際の学校で始めるまでには時間がかかった。設立が認められるのは翌1876年、東京・築地に建物ができるのは1879年。子どもたちが学び始めるのは1880年になってからだ。中村たちの仕事は、結社をつくればすぐ学校ができるというものではなかった。
このとき中村は42歳。すでに『西国立志編』という広く読まれた訳書があり、私塾も持っていた。外国の思想を日本語に移し、文字を読む人に伝える仕事から、まだ教育を受けるための場所を持たなかった人々の学校へと、活動は広がっていた。
しかし、その出発点にあるのは明治の新しい学校ではない。幕府が学問の場を設け、儒学を教える教師を抱えていた時代である。
幕府から与えられた教室
中村は1832年、江戸の麻布に生まれた。父は幕府の同心、つまり幕府に仕える武士の一人だった。裕福な大名家の子ではなく、職務を持つ武家の家から学問の道へ進んだ。
通称を敬輔、号を敬宇という。中村が学んだ昌平坂学問所は、幕府が儒学を教えるために設けた学問の中心だった。佐藤一斎に師事し、漢学を修める。1855年には学問所で教える側に回り、1857年には甲府の学問所である徽典館の学頭となった。1862年には正式に幕府の儒官となる。
学んだ書物を読み、他人に教える。中村は若くして、その仕事を幕府から任された。中村は儒学を教える一方で英学にも関心を広げ、1866年には幕府が英国へ送った若い留学生たちの監督を命じられた。
中村は留学生としてではなく、若者たちを監督する立場で英国へ渡った。江戸の学問所で教えていた教師が、今度は海を越えて留学生と向き合う。
彼が英国にいる間に、日本では政治の土台が大きく変わった。1868年に帰国するころ、幕府はすでになくなっていた。中村が積み上げてきた役職は、そのまま続けられない。旧幕臣たちが移った静岡で学問所の教員となり、新たな生活を始めることになった。
幕府の儒官という肩書は消えたが、静岡でも中村は学問を教え続けた。
静岡で、一冊の本を日本語へ
静岡で中村が取り組んだ大きな仕事の一つが、英国の著述家サミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles)の『セルフ・ヘルプ』(Self-Help)を訳すことだった。日本語の題は『西国立志編』。初期の刊本には1870年の年記があり、1871年にまとまった形で刊行されたとする資料もある。数冊に分かれた本は、明治初年の読者へ広まっていった。
そこに書かれているのは、職人、発明家、技術者などが、仕事や学びを通じて自分の道を切り開く姿だった。中村は、英国の職人や発明家たちの経験を、明治初年の日本の読者が読める一冊の本にした。
幕府の学問所では、教える者と教わる者は制度の中で出会っていた。『西国立志編』は、中村の教室に通わない読者にも届いた。教室で教える仕事に、本を通じて伝える仕事が重なった。
この時期の中村は、書物を訳すだけでなく静岡で私塾を営んだ。学問所という旧来の制度に代わり、自分の教える場所をつくる。翻訳と私塾は、どちらも教える相手を増やす方法だった。
続いて中村は、英国の思想家ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)の『自由論』(On Liberty)を『自由之理』として訳し、1872年に刊行した。勤勉や努力を説く本と、個人の自由を論じる本。同じ中村の手から、異なる問いを持つ二冊が出た。
本の外にある、いくつもの学校
1872年、中村は東京へ移り、新政府の大蔵省に出仕した。翌1873年には小石川の自邸に英学塾「同人社」を開く。静岡から続いていた私塾の仕事を、東京でも営んだのである。同じころ、福沢諭吉らとともに明六社に参加し、学問や文明、社会について議論する知識人の輪にも加わった。
中村はキリスト教にも深い関心を寄せ、1874年に洗礼を受けた。幕府の儒官だった人が英国の書物を訳し、今度はキリスト教徒となる。中村は後年、儒教の道徳を改めて重んじるようになる。キリスト教の洗礼も、儒学との関わりの終わりを意味しなかった。
同じ時期、彼の関心は女子教育にも向かっていた。1875年11月に開校した東京女子師範学校で初代摂理を務め、1880年まで学校の運営に関わる。お茶の水女子大学に続く学校の歴史には、当時の中村の役職が具体的な年月とともに記録されている。男子の儒学教育を担っていた人が、女子の教員を育てる学校にも関わることになった。
そして、楽善会である。
1875年の六人の計画は、すぐに完成した学校の姿で現れたわけではない。築地に訓盲院の建物ができ、1880年に視覚障害のある子どもたちを、続いて聴覚障害のある子どもたちを迎えた。1885年には学校は文部省の直轄となる。施設や人員を整え、教育を続けることは、結社を作ることよりずっと長い仕事だった。
楽善会は、中村一人で進めた事業ではない。六人の発起人に加え、開校までには多くの人々が携わった。中村もまた、他者とともに学校を生み出す仕事の一端を担った。
訳書なら、教室から遠く離れた読者にも読んでもらえる。一方、訓盲院が子どもを迎えるには、校舎ができるまで待たなければならなかった。同じ教育の仕事でも、本を訳すことと学校をつくることでは、実現までの道筋が違っていた。
最後まで一つにならなかった道徳
1881年、中村は東京大学教授となり、漢学を教えた。英国の思想を訳し、キリスト教の洗礼を受けたのちも、儒学を教える仕事を担っていた。
1886年には元老院議官となり、1890年には貴族院議員に選ばれた。教育の現場と政府の職務を行き来してきた彼が、晩年にもう一度、国家の教育をめぐる大きな仕事に関わる機会が訪れる。
当時、政府の内部では、学校でどのような道徳を教えるべきかが争点になっていた。明治の教育は西洋の知識や技術を取り入れながら拡大したが、それを支える徳目をどう定めるかでは意見が分かれた。政府は1890年、教育の基本方針を示す勅語を準備する。
その初期草案を書いたのが中村だった。草案の作成時期ははっきりしない。国立国会図書館の調査論文によれば、中村案は儒教を基調にしつつ、キリスト教や西洋哲学の思想も取り入れていた。
ところが、この案は採用されなかった。法制局長官の井上毅(いのうえ・こわし)は、1890年6月20日の山県有朋宛の書簡で、中村案のキリスト教的な色彩などを強く批判した。教育勅語の文案は、井上と元田永孚(もとだ・ながざね)らを中心に作り直され、同年10月30日に発布された。
中村案には、彼が長く関わってきた儒教に加え、キリスト教や西洋哲学の要素も含まれていた。幕府の儒官から翻訳者、教育者へと歩んだ中村の思想は、国の教育方針を示す文書をめぐって井上の批判にさらされた。最終的に発布されたのは、中村案とは異なる文案だった。
校長のまま終わった人生
中村は1890年3月から女子高等師範学校の校長も務めていた。かつて初代摂理として関わった学校へ、今度は晩年の校長として戻ってきたことになる。教育勅語の草案が退けられたころにも、学校での仕事は続いていた。
1891年6月7日、中村正直は58歳で死去した。学校長の在職中だった。儒官だったころから約30年、幕府がなくなり、仕事の場所を変え続けた人は、再び教える制度の中にいるときに生涯を終えた。
『西国立志編』は広く読まれ、教育勅語の草案は採用されなかった。一方、楽善会から始まった教育の事業は制度を変えながら続き、女子教育の場にも中村が務めた年月が記録されている。
お茶の水女子大学には、中村の筆による掛軸が残る。学校や公職の記録と並んで、本人が書いた文字も後世へ伝わっている。
幕府の学問所で教えることを始めた中村は、最後には、幕府のころにはまだない形の学校に名を残した。広く読まれた本と、採用されなかった文章。その両方が、同じ人の仕事だった。




