恋愛の近代史・前編 / 明治から戦後へ

「好きな人と結婚する」は、いつから自由な人生の象徴になったのか。北村透谷、巌本善治、与謝野晶子、平塚らいてう、厨川白村の言葉と暮らしをたどり、「家」から恋愛結婚へ向かった近代日本の複雑な歩みを読む。

01 / 本文

誰と結婚するかを、親や親族が決める。本人の気持ちよりも、家を継ぐことや親戚との関係が優先される。

そんな結婚の話を聞くと、いまの私たちは「自分の人生なのに」と思う。

好きな相手を自分で選ぶ。結婚するかどうかも自分で決める。その感覚はあまりに自然なので、それがかつて新しい考え方だったことを忘れやすい。

ただし、昔の日本に恋愛がなかったわけではない。平安時代には恋の歌があり、江戸時代には恋のために生き方を変える人もいた。変わったのは、恋する気持ちの有無ではなく、その気持ちを結婚と人生の選択の中心に置くべきだという考え方だった。

恋愛結婚が見合い結婚を上回ったのは、実は1960年代後半のことだ。だが、その何十年も前から「愛情によって結婚することが、自由に生きることになる」という理想が語られていた。

明治から戦後にかけて、日本では「自分で愛する相手を選び、二人で家庭をつくる」ことが理想として語られるようになる。けれど、その自由は最初から誰にでも同じように与えられていたのではない。恋愛を称える男性が女性の役割を決め、自由な結婚を選んだ女性たちが、子育てや生活費に直面することもあった。

なぜ恋愛して結婚することが、「自分の人生を生きる」ことになったのだろう。

結婚は「二人のこと」だけではなかった

いま、結婚を考える二人がいれば、まず本人同士の気持ちを尋ねるだろう。

ところが明治期の結婚は、家を継ぐこと、財産や商売、親族のつながりと深く結びついていた。家々の事情も地域の慣習も異なるので、どの結婚も親が一方的に決めたわけではない。それでも「当人が好きだから」という理由だけでは済まない場面が、いまよりずっと多かった。

ここで注意したいのは、明治の近代化が古い結婚を消したのではなかったことだ。

1898年施行の明治民法は、戸主を中心とする「家」の仕組みを法制度に位置づけた。その一方、雑誌や学校では個人の人格、夫婦の愛情、家庭内の団欒が語られた。しかも、仲人を介する「媒酌結婚」も、古代から同じ形で続いてきた不変の習慣ではない。研究によれば、それも明治期に正統な結婚の形として広まっていった。

つまり、近代日本には一つの方向だけがあったのではない。

家の秩序を保とうとする力と、本人の意思や夫婦の愛情を大切にしようとする力が、同時に働いていた。

その時代に、恋愛を人生の根本へ置こうとした若者がいた。

北村透谷――恋愛は、人生の鍵になるのか

1892年、23歳の北村透谷は『女学雑誌』に「厭世詩家と女性」を発表した。

冒頭に置いたのが、「恋愛は人世の秘鑰なり」という一節だった。「秘鑰」とは、奥深いものを開く鍵のこと。恋愛を、人が自分の内面や人生の意味に触れる大きな出来事として語っている。

1890年ごろの北村透谷の肖像写真
1890年ごろの北村透谷。撮影者不詳/早稲田大学アーカイブ由来。Wikimedia Commons/Public domain。

透谷は小田原に生まれ、東京へ移り、自由民権運動の人々に接近した。政治運動からは離れ、キリスト教を受け入れ、詩と評論を書くようになる。1888年には石阪美那と結婚した。

彼は結婚前にだけ恋愛の理想を夢見たのではない。すでに妻のいる身で、恋愛と婚姻について書いた。

しかも、この評論は「恋愛は素晴らしい」で終わらない。詩人がどれほど高い理想を抱いても、結婚すれば日々の義務が始まる。恋愛の理想と結婚生活が食い違うことを、透谷自身が論じている。

もっと厄介なのは、透谷が人間の内面的な自由を称えながら、女性を男性に愛され、男性に寄り添う存在として描いていることだ。恋愛を人生の鍵とする言葉は、まだ男女に等しく開かれた自由を意味してはいなかった。

恋愛で「自分の人生」を生きると言うとき、その「自分」は誰を指していたのか。

明治の恋愛論には、すでにこの問いが潜んでいる。

巌本善治――「好きな人を選ぶ」先に、新しい家庭があった

透谷の評論を掲載した『女学雑誌』には、もう一人、重要な人物がいた。

編集と女子教育を担った巌本善治である。

但馬の旧武士の家に育った巌本は、十代で東京へ出て学び、1880年代半ばには雑誌と明治女学校の運営に深く関わるようになった。そこで問われたのは、女性に何を教え、社会でどう生きてもらうかという問題だった。

1888年、巌本は女性も男性と等しい人間として人格や能力を育てるべきだと論じた。ところが同時に、男女には異なる性質や役割があるとも考えていた。

女性は学び、ものを書き、自分の考えを持つ。しかし、家庭では女性に固有の役割もある。その二つが彼の中で並んでいた。

『女学雑誌』は男性が女性について一方的に説教する場でもなかった。若松賤子や清水紫琴ら女性自身が執筆し、作品を発表した。若松は1889年に巌本と結婚し、その後も翻訳と創作を続けた。学校の教え子たちも、ときには教師を批判する文章を残した。

ここで変わろうとしていたのは、結婚相手の選び方だけではない。

明治期の雑誌を調べた社会学者・牟田和恵は、家内の団欒や家族同士の心の交流を大切にする「家庭(ホーム)」という新しい理想が、明治20年代に姿を現したと指摘している。家柄や義務だけでなく、夫婦や親子の愛情によって結ばれる家族である。

一見すると、「家」から「個人」への解放だ。だが、同じ新しい家庭は、国を支える生活の基礎としても期待された。

自由な恋愛を政府が計画して人々に植えつけた、というわけではない。個人の気持ちを尊重する考えが広がる一方で、その個人が新しくつくる家庭にも、社会の側から役割が求められていたのである。

与謝野晶子――自分で愛する。その後、どう暮らすか

1900年、大阪で一人の若い歌人が、東京から来た歌人と会った。

堺の和菓子商の家に生まれた与謝野晶子と、東京新詩社を率いていた与謝野寛、鉄幹である。

晶子はそれ以前から短歌を作り、地元の文学仲間や雑誌を通じて作品を発表していた。鉄幹との出会いだけで、彼女の人生が突然始まったのではない。すでに、自分の言葉を社会へ送り出す道を探していた。

二人の関係が進んだとき、鉄幹にはまだ妻がいた。1901年、晶子は上京し、8月に第一歌集『みだれ髪』を刊行する。鉄幹が前妻と離婚した後、二人は同年10月に結婚した。

1901年刊行、与謝野晶子『みだれ髪』初版の表紙。藤島武二による装丁
与謝野晶子『みだれ髪』(1901年)。装丁・藤島武二。Wikimedia Commons/Public domain。

家で定められた道から外れ、自分の望む相手のもとへ行く。晶子の行動は、後世から見ると恋愛による自己決定の象徴に映るだろう。

しかし、それを美しい恋愛物語だけにすると、前妻との離婚や周囲の人間関係が消えてしまう。そして結婚の後には、もっと長い生活があった。

晶子は11人の子どもを育てながら、原稿を書き、翻訳をし、教育に携わり、家庭の経済を支えた。恋愛によって一度人生を選べば、その後は自由が約束されるわけではなかった。

1918年、晶子は女性の経済的独立を強く主張し、母性を理由に国家へ特別な保護を求める考えを批判する。

誰かを愛する自由と、誰かに生活を依存しない自由。晶子にとって、その二つは別々に考えられない問題だった。

平塚らいてう――結婚を選ばない自由も、同じ問いから生まれた

晶子より八歳年下の平塚らいてうは、1911年に女性たちと文芸誌『青鞜』を創刊した。女性が書き、論じ、自分の言葉を持つ場所だった。

1911年9月刊行の女性文芸誌『青鞜』創刊号の表紙。長沼智恵子による図案
『青鞜』創刊号(1911年)。表紙図案・長沼智恵子(のちの高村智恵子)。Wikimedia Commons/Public domain。

1914年、らいてうは画家志望の奥村博との共同生活を『青鞜』で公にした。婚姻届は出さず、法律上の夫婦になることを選ばなかった。二人は子どもを育て、後の1941年になって婚姻届を提出する。

ここには、晶子とは違う選択があった。

愛する相手と一緒に生きたい。しかし、法律で定められた結婚の形まで当然に受け入れる必要があるのか。

もっとも、形式に縛られない生活を選んでも、子どもが生まれれば世話が必要になる。らいてうは原稿を書く仕事と育児を両立する難しさを、自分の身体で経験した。

1918年、晶子とらいてうは母性保護をめぐって論争した。

晶子は女性の経済的独立を強調し、国家に依存することを警戒した。一方、らいてうは妊娠・出産・育児を女性個人の努力だけに委ねず、社会が支える必要を訴えた。山川菊栄や山田わかも論争に加わった。

二人はどちらも、自分の人生を他人任せにしようとはしていない。ただ、自由を可能にする条件をめぐって意見が違った。

好きな相手を選ぶだけでは、暮らし方までは自由にならない。

恋愛と結婚を自分で決めようとした時代の人々は、その先で、働くことや育てることを誰が担うのかという問題に突き当たった。

厨川白村――恋愛が、新聞を読む人たちの「人生論」になる

ここまでの出来事を、特別な作家や運動家だけの話として読むこともできる。

だが1921年、英文学者の厨川白村は、朝日新聞で恋愛について連載を始める。翌1922年には『近代の恋愛観』として単行本になった。

1920年ごろの英文学者・厨川白村の肖像写真
1920年ごろの厨川白村。撮影者不詳/鎌倉文学館資料由来。Wikimedia Commons/Public domain。

白村は大学で英文学を教え、西洋文学を一般読者に紹介してきた人だった。書く相手は学生だけではない。新聞を読み、仕事をし、結婚を考える人々にも届く文章を書いた。

『近代の恋愛観』には、恋愛を高く掲げる章がある。同時に「結婚と恋愛」「恋愛と結婚と経済関係」という章もある。

愛が大切なら、生活費はどうするのか。自由な結婚を望む人にとって、経済的な条件は本当に無関係なのか。

白村は女性の経済的独立にも触れた。自身も家計の苦しさを知り、教師として働き、結婚した男性である。理想の恋愛を語る言葉が、生活の問題を避けて通れなかったことは重要だ。

『近代の恋愛観』は大きな反響を呼び、出版文化の広がりとともに読まれた。ただし、新聞連載が好評だったことと、社会の誰もが自由に恋愛結婚できたことは、まったく別だ。

恋愛をすれば人生が豊かになる。結婚は愛情に基づくべきだ。そうした理想が広まるほど、逆に「本当に愛していなければ、正しい結婚ではない」という新しい圧力も生まれうる。

恋愛は、古い秩序に逆らう言葉であると同時に、新しい秩序をつくる言葉にもなった。

「恋愛結婚が普通」になるまでには、さらに何十年もかかった

ここで時計を戦後まで進めよう。

戦前の日本では、結婚した夫婦のうち見合い結婚が約七割を占めていた。明治の恋愛論から何十年がたっても、恋愛結婚はまだ多数派ではなかった。

戦後、1947年の民法改正を経て、旧来の「家」の法的な仕組みは廃止され、夫婦や家族をめぐる制度は大きく変わった。一方、高度経済成長期には地方から都市へ移り、企業で働き、夫婦と子どもで暮らす家庭が広がっていく。

それでも、法改正や都市化のどちらか一つによって恋愛結婚が生まれたわけではない。結婚相手との出会い、親族の影響、働き方、男女の役割、生活の場所が、長い時間をかけて変わっていった。

国立社会保障・人口問題研究所の出生動向基本調査によると、恋愛結婚が見合い結婚を上回ったのは1960年代後半だった。

1892年に透谷が恋愛を人生の鍵と書いてから、およそ七十年以上。

恋愛という感情は昔からあった。それでも、自分で相手を選び、愛情を結婚の根拠にするという考えが、実際の多数派になるまでにはこれだけの時間が必要だったのである。

自分の人生を選ぶために、恋愛は必要だったのか

「恋愛して結婚することが、自分の人生を生きることになる」。

その考え方は、ある日誰かが決めて、日本中に広めたものではない。

透谷は恋愛を人間の内面に結びつけたが、女性の自由を同じようには考えていなかった。巌本は女子教育と人格を重んじながら、男女の役割を分けた。晶子は愛する相手を自分で選び、その後も仕事で家庭を支え続けた。らいてうは一緒に生きることと、法律上の結婚を別々に選んだ。白村は恋愛を広い読者に説きながら、経済的な問題を論じた。

彼らが一致した思想を持っていたわけではない。

それでも、どの人の人生にも、家や世間に任せておくだけでは済まなくなった問いがある。

誰と生きるか。どう働くか。子どもを育てる責任は誰にあるか。愛情によって結ばれた家庭とは、いったい何なのか。

こうした問いを自分たちで引き受けることが、近代日本で恋愛に託された希望だった。

ただ、その希望が自由を広げる一方で、今度は「自分で愛する相手を見つけ、結婚し、家庭をつくること」が当然の人生として期待されるようになる。

家に決められた人生から、自分で選ぶ人生へ。その変化は、恋愛を自由の象徴にすると同時に、恋愛して結婚するという新しい標準をつくった。

そして、その標準が広く受け入れられたころ、次の問いが現れる。

自分で相手を選べるようになったとして、恋愛して結婚することまで、誰もが望まなければならないのだろうか。

ここから先は、戦後後半から現代へ続く、もう一つの物語である。

02 / 人物

この問いを受け渡した人物

理論だけではなく、その問いを引き受けた人の生涯へ。

03 / さらに読む

このテーマをもう少し読む

人物の流れをつかんだあとに、この問いをもう少し深くたどりたい人へ。

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