一人の人生を読む
新入生に、大学の不都合な数字を話す
2019年4月12日、東京・日本武道館。東京大学の入学式で祝辞を頼まれた上野千鶴子は、新入生を祝ったあと、大学の入り口にある不平等について話し始めた。
前年に発覚した東京医科大学の不正入試問題。女性が大学へ進もうとするとき、成績とは別の理由で不利になることがある。上野は公表された調査結果を挙げ、東京大学でも女子学生の割合が長く低いままだと指摘した。
それから、女子学生が東大生であることを初対面の相手に伝えにくいという話を取り上げた。学歴が評価されるはずの場所でも、その評価のされ方は男女で同じではない。大学の式典という、おめでたい場で上野が語ったのは、そこにいる学生たちが努力したことと、その努力だけでは埋まらない差の両方だった。
上野は1993年から2011年まで、この大学で教えていた社会学者である。だが、こんなふうに「その場で当然とされていること」を問い直す仕事は、東京大学に来て突然始まったわけではなかった。
父の家で、娘に期待されたこと
1948年、上野は富山県に生まれた。父は内科の開業医、母は専業主婦。兄と弟に挟まれた一人娘だった。
2019年のインタビューで、上野は父を、診察室では仕事のできる医師だったが家では強い権限を持つ父親だった、と振り返っている。母は家事と家庭内の人間関係を引き受けていた。兄弟と自分とでは父の接し方が違ったことも、上野の記憶に残っていた。
父にかわいがられた娘としての記憶と、母が家の中の仕事を引き受けていた記憶は、上野のなかで並んでいた。
高校時代を金沢で過ごしたのち、京都大学へ進む。大学では、1960年代末の学生運動に加わった。後年、上野は当時ヘルメットをかぶっていたと語っている。
しかし、運動が一段落してから先へ進めたわけではない。本人はその後、意欲を失い、就職にも踏み出せなかった時期があったと回想する。大学院に進んだものの、女性の研究者に開かれた職の道が広かったわけでもなかった。
そんなころ、京都で女性たちが自主的に学ぶ日本女性学研究会に参加した。月経、出産、家族、働くこと。これまで学問の中心に置かれにくかった経験を、集まった女性たちが自分たちの言葉で調べ始めていた。
上野は後年、この研究会で出会った女性たちを、大学以上に刺激的だったと振り返っている。学ぶ題材を自分たちで決め、調べ、議論する場がそこにはあった。
その本は、もっと下の棚に
1979年、上野は京都の平安女学院短期大学で専任講師となった。社会学を教える相手は、主に十代の学生たち。上野は専門用語を使わない授業を心がけ、学生が面白がったり退屈したりする反応に自分の教え方を鍛えられた、と後年話している。
このころの京都で、上野は女性の本屋「松香堂」を営む中西豊子と出会った。
中西がのちに語ったことによれば、初めて店に来た上野は、女性の身体についての本が高い棚に置かれているのを見て、もっと手の届きやすい下の棚にあった方がよい、と助言したという。中西は実際に本を移したと振り返る。
ささやかな出来事だが、そこで扱われているのは「何が書かれているか」だけではない。誰がその本を見つけ、手に取れるかという問題である。
同じ時期、各地の公民館や社会教育の場では、女性学やフェミニストカウンセリングの講座が広がっていた。上野が長年交流を続けた河野貴代美も、講座を各地で開いた一人だ。女性の経験を言葉にする場は、大学の研究室よりずっと広いところにあった。
上野も、家事や出産、妻や母として求められる振る舞いを、社会の仕組みと結びつけて研究していった。ただし大学の中で女性学を教える道は平坦ではなかった。新しい講座を設けようとした際、男性教員から女性学が学問なのかと問われ、悔し涙を流したことを、上野は後年語っている。
家庭の中に、賃金のつかない仕事がある
1989年に京都精華大学へ移った上野は、1990年に『家父長制と資本制』を刊行した。1993年には東京大学の助教授となり、1995年から2011年まで同大学で教授を務めた。
会社や工場での労働には賃金が払われる。一方、食事を用意し、洗濯をし、子どもや高齢の家族の暮らしを支える仕事は、家庭の中では無償で担われることが多い。その担い手として、女性が期待されてきた。
『家父長制と資本制』で上野は、この無償労働を家庭内の役割分担だけの問題にせず、家父長制と資本主義の関係から論じた。1994年の『近代家族の成立と終焉』では、夫婦や親子に期待される役割を、歴史の中でつくられ、変化してきたものとしてとらえ直した。
大学に所属しても、そこで出会う学生を大学の正式な履修者だけに限ったわけではない。上野はのちのインタビューで、他大学の学生や社会人が自分のゼミに学びに来ることを受け入れていた、と振り返っている。大学の外で学問を始めた経験は、大学で教える立場になってからも消えてはいなかった。
教え方が穏やかだったというわけではない。教え子で社会学者の千田有紀は、研究を批判されて泣いていたとき、上野からさらに厳しい言葉を受けたと語っている。学びの場を開くことと、そこで人に要求する水準を下げることは、上野のなかで同じではなかった。
「老後」は、自分にも訪れる
若いころ上野が調べていたのは、性や結婚、出産をめぐる女性の経験だった。だが、自分が年を取ると、関心の向かう先も変わっていった。
2010年のインタビューで上野は、老後を扱うようになった理由を、自分自身が年を重ねたからだと説明している。
2007年に刊行した『おひとりさまの老後』は、一人で年を取るときの住まい、金銭、支え合いを考える本だった。上野が意外だったと振り返るのは、未婚の女性だけでなく、結婚している女性も読んだことだ。結婚していれば老後に誰かが必ずそばにいるとは限らない。夫婦でも、友人がいても、人はそれぞれ老いていく。
2011年の『ケアの社会学』では、さらに介護を支える仕組みを論じた。誰が世話をするのかという問いには、介護を受ける人の希望をどう扱うかという問いも重なってくる。
これまで「家族の中で当たり前に行われる仕事」を研究してきた上野にとって、介護もまた、家族の善意だけに任せて済む話ではなかった。
同じ2011年、上野は東京大学を退職し、女性たちの情報と活動を結ぶ認定非営利団体、ウィメンズ・アクション・ネットワークの理事長に就任する。大学の教室や著作とは違う形で、知識や経験を行き来させる場を支える仕事が始まった。
世話する側に立ったとき
山梨県北杜市、八ヶ岳の南麓。歴史家の色川大吉は、ここに山荘を建てて暮らしていた。上野も隣に書庫兼仕事場を持ち、二人は近くで生活していた。
上野が2023年の『婦人公論』で振り返ったところによれば、色川は2016年に室内で転倒して大腿骨を折った。医師は入院して手術を受けるよう勧めたが、色川は入院を望まず、上野も本人の判断を受け入れた。
色川が車椅子を使うようになってから、上野は約3年半、在宅介護を取り仕切る役割を担ったと語っている。色川は2021年に亡くなった。
本人の望む場所で暮らし続けるには、その意思を聞くだけでなく、日々の介護を支える人や仕組みが要る。上野は色川の暮らしに関わるなかで、研究書で考えてきたケアの問題を、今度は支える側から経験した。
「次は誰がやるのか」という問い
2011年、ウィメンズ・アクション・ネットワークの理事長になった上野は、就任の挨拶で、次の世代へ活動を渡していくことを課題の一つに挙げていた。
後継体制ができるまでには時間がかかった。上野はその後15年間、理事長を務めた。
2026年5月の総会と理事会を経て、団体は一人の理事長に代わって、伊田久美子、内藤和美、中谷文美、古久保さくらの四人が共同で代表を務める体制に移った。上野は理事長を退き、顧問理事になった。
退任の挨拶で、上野はこの団体が専従職員を置かず、理事や多くのボランティアの無償の仕事に支えられていることを説明している。そして、自分は情報技術の変化についていけなくなっていた、とも率直に書いた。
家庭の中で女性が無償で担ってきた仕事に目を向けた上野は、この挨拶では、自分の属する団体を支えてきた無償の仕事を数えていた。
四人の共同代表は、前の体制で副理事長を務めていた人たちである。上野の退任に先立って共同代表を引き受けると申し出て、理事会が承認し、団体は定款も改めた。十五年越しの世代交代は、一人の後継者を指名して終わるものではなかった。
上野は理事長を退いた後も、顧問理事としてこの団体に関わる。新しい体制には、サイトの大規模改修や会員制度の見直しという仕事が残されている。



