一人の人生を読む
変装してやって来た日本語の先生
1860年2月、神奈川の成仏寺に暮らしていたジェームズ・カーティス・ヘボンのもとへ、一人の日本人医師が通うようになった。三十二歳の医師で、英語を学びたがっていた。役人の疑いを招かないよう変装して訪ねてきた、とヘボンは手紙に書いている。名前はヤゴロウと伝わる。
ヘボンはアメリカから来た医師であり、キリスト教を伝えるためにも日本へ渡っていた。だが日本語はまだ十分に話せない。ヤゴロウが求めていた英語と、ヘボンが欲しかった日本語を、二人は教え合った。ヘボンは役人の目を避けるため、その医師を家で働く人として住まわせた。外国人との接触を警戒する幕府のもとでは、言葉を学ぶための往来にも用心が必要だった。
ヘボンが来日したのは、そのわずか数か月前である。新しい国で診療を始めようとした人は、患者の訴えを聞くための言葉さえ、少しずつ人から教わらなければならなかった。のちに彼の名は日本語をローマ字で書く方法に残る。その仕事の最初の姿は、書斎で一人きりになって文字を考えることではなく、誰かの口から出る言葉を聞くことだった。
一度は帰った医師が、もう一度海を渡る
ヘボンは1815年、アメリカのペンシルベニア州ミルトンに生まれた。信仰を大切にする家庭で育ち、大学で学んだあと医学を修め、医師となる。若いころから海外で医療と宣教に従事することを望んでいたが、家族の反対もあった。
開業先で出会ったクララ・メアリー・リートと1840年に結婚する。クララも海外での活動を望んでおり、翌年、夫妻は中国へ向かった。ヘボンは医師として働いたが、その生活は長く続かなかった。クララが病気になり、1845年、二人はアメリカに戻る。
帰国したヘボンはニューヨークで医院を開き、およそ十三年間、診療を続けた。医師として成功し、暮らしも安定した。海外で働く希望は、いったん遠いところへ置かれたように見える。
転機は1858年に訪れる。日本とアメリカの修好通商条約が結ばれたことを知り、ヘボンは新たに日本へ派遣してもらえるよう申し出た。翌年の出発時には四十四歳だった。今度の出発では、年老いた父親と息子のサムエルをアメリカに残した。1859年4月、ヘボンとクララは船に乗り、同年10月に神奈川へ到着する。
中国への渡航はクララの病によって終わった。日本への再出発では、今度は父と息子をアメリカに残すことになった。ニューヨークで医師として築いた生活を離れ、ヘボンはクララともう一度海を渡った。
寺の施療所は、長く続かなかった
夫妻が最初に住んだのは、神奈川宿の成仏寺だった。日本では外国人が自由に行き来できる場所は限られていた。ヘボンは身の回りの人々や通りで出会う人に物の名前を尋ね、少しずつ日本語を覚えた。「これは何ですか」という問いを繰り返したと、明治学院の資料に残っている。
人と話すことには壁があったが、医師の仕事は早く始めた。1861年、成仏寺の近くにある宗興寺で無償の施療所を開いた。患者は集まったものの、活動は約五か月で事実上閉鎖される。多くの日本人が外国人医師のもとに通うことを奉行所が警戒したのではないか、と後世の資料は説明している。
ヘボンは診療をやめず、翌1862年、横浜の外国人居留地39番に移る。そこに新たな診療の場を設けた。外国人居留地は神奈川奉行所の権限が及ばない区域だった。神奈川宿の寺では続けられなかった施療を、ヘボンはそこで再開した。
横浜での診療には、歌舞伎俳優の三代目沢村田之助の治療もあった。田之助は脚の病気のために切断手術を受け、その後、義足で舞台に立った。辞書を編む一方で、ヘボンはこうした患者の治療にも向き合い続けていた。
診療は、日本語を知る機会でもあった。患者だけでなく、働く人、町で行き会う人、学問を求めて訪れる人が、別々の言い方を持っていた。ヘボンはそれらを聞き、書き留めた。初めに教えてくれたヤゴロウのほかにも、何人もの日本人が彼の日本語の先生になった。
診療所で聞いた言葉が、辞書になる
ヘボンが日本語を学び始めた当時、英語とのあいだで言葉を引ける辞書は乏しかった。彼は手元にあった先行の語彙集や古い辞書を参考にしたが、後年『和英語林集成』の序文では、自分が頼りにしたのは実際に言葉を話す人々だったと記している。
そのなかに岸田吟香がいる。岸田は日本語をよく知り、ヘボンの医療にも関わり、辞書づくりを手伝った。ヘボンが一つの単語を聞いて意味をつかむことと、その単語を日本語の読者や英語の読者が引ける形にすることは、同じ作業ではない。大量の言葉を整理して一冊の本にするには、言葉を教える人、書き取る人、印刷する人が必要だった。
1867年、『和英語林集成』が上海で刊行された。日本語から英語を引く部分に加え、英語から日本語を引く部分も備えた本格的な辞書だった。なぜ日本国内ではなく上海なのか。当時の日本で大部の辞書を組むには、使える漢字活字と印刷技術が限られていたからである。ヘボンは上海の美華書館で、技師ウィリアム・ガンブルの力を借りて印刷を進めた。
辞書が刊行されたあとも、言葉を表す作業は終わらなかった。日本語を英字でどう書き表すか、ヘボンは版を重ねながら工夫を続ける。1886年の第3版では、前年に結成された羅馬字会の提案も取り入れた。今日「ヘボン式ローマ字」と呼ばれる方式につながる表記は、この改訂を経て整えられたものだった。
『ヘボン辞書』と呼ばれる一冊が形になるまでには、成仏寺に出入りした人、診療所に来た人、岸田のように編集を手伝った人、そして活字を組んだ印刷工の仕事が重なっていた。
クララの学校と、何人もの手で訳した聖書
横浜居留地39番の家は、医療と辞書づくりだけの場所ではなかった。1863年、クララがそこで英語を教える塾を始める。学んだ者のなかには、のちに外交官となる林董や政治・財政の仕事を担う高橋是清がいた。学校は何度か形を変え、他の教育活動とも結びつき、のちの明治学院へつながっていく。
夫妻の生活では、クララが自分の教育活動を担い、ヘボンは診療や言語の仕事に多くの時間を使っていた。来日時に二人で日本へ渡ると決めたことと同様に、この時期の仕事も、片方の名前だけで言い尽くせない。ヘボンが医学を教えた若者がいる一方で、クララから英語を教わった若者がいた。
ヘボンにとって、言葉を学ぶもう一つの大きな目的は聖書を日本語で読めるようにすることだった。辞書の刊行後、サミュエル・ロビンズ・ブラウンらと翻訳に取り組み、日本語の聖書が少しずつ刊行されていった。1874年には翻訳の委員会が組織され、1880年に新約聖書、1887年に旧約聖書の翻訳事業が完成する。作業には複数の宣教師や日本人の協力者が加わっていた。
医師としては目の前の患者を診ていたヘボンが、辞書と聖書では、まだ会ったことのない読み手に向けて言葉を整えた。診療を続けながら、彼の仕事に本をつくる営みが加わっていた。
さらに辞書の第3版の版権を丸善に譲った収入が、学校のために使われた。1887年、東京・白金の明治学院に寄宿舎「ヘボン館」が完成する。もとは神奈川で人に尋ねて覚えた言葉の集積が、今度は日本の学生の寝起きする建物になったのである。
仕事を引き渡し、夫妻で日本を去る
1889年、明治学院はヘボンを学校の代表にあたる総理に選んだ。すでに七十四歳だった。ヘボンはいったん辞退するが、井深梶之助が副総理として実務を担うことを条件に受け入れた。1891年には井深が第2代総理となり、学校の運営を引き継いだ。
このころ、横浜ではヘボンが関わってきたキリスト教会の新しい会堂の建設が進んでいた。人々の集う場所を整えるため、資金を集め、自らも負担した。1892年、横浜指路教会の会堂が完成する。ヘボン夫妻はその年の10月、日本を離れ、アメリカへ帰った。日本で暮らした年月は三十三年に及んだ。
帰国後、夫妻はニュージャージー州イースト・オレンジで生活した。海を渡り、中国での病気による帰国を経験し、アメリカの医院を営み、ふたたび長い海外生活を送った二人が、老年には同じ土地で暮らした。1906年、クララが亡くなる。ヘボンは彼女より五年長く生きた。
1911年9月21日、ヘボンは九十六歳で亡くなった。その日、遠く離れた東京の明治学院では、彼の寄付から生まれた古い寄宿舎ヘボン館が火災で失われた。二つの知らせが重なったことは、当時の新聞にも取り上げられた。
ヘボンが日本で関わった仕事は、焼けた建物一つに収まっていたわけではない。辞書は何度も改訂され、聖書は他の翻訳者とともに完成し、クララの教室から始まった教育は別の人々に引き継がれた。ヘボン自身も最後にはその場を離れた。人から学び、人と作り、人に渡した仕事が、彼の帰国後も日本に残っていた。




