一人の人生を読む
海辺で塩を手にする
1930年4月6日、インド西部の海辺の村ダンディで、モハンダス・カラムチャンド・ガンディー(Mohandas Karamchand Gandhi)はイギリスの塩法に反する行動をとった。塩は料理に欠かせない。植民地政府は、その製造と販売を独占していた。ガンディーはひと月近く前、仲間たちと歩いてアーメダバードを出発し、海までの道を進んできた。
この行進は、巨大な国家への抗議を、誰の家にもあるものに結びつけた。軍隊も議会の議席も持たない人びとが、日々使う塩を通じて法律に異議を申し立てる。ガンディーはその方法を、長い年月をかけて形にしてきた。しかし、彼が最初から大衆運動の指導者だったわけではない。
弁護士になるまでの遠回り
ガンディーは1869年、インド西部のポールバンダルに生まれた。父カラムチャンドは地方の行政を担い、母プトリーバーイは信仰を大切にする人だった。十三歳のとき、同じ年頃のカストゥルバーと結婚する。結婚は家の大人たちが取り決めた。後年の自伝で彼は、祭りのような準備に浮き立った少年の自分を振り返り、幼すぎる結婚の仕組みを批判している。
彼が法学を学ぶためロンドンへ渡ったのは1888年だった。インドに残した妻との間にはすでに幼い息子がいた。本人の回想によれば、船では英語をうまく話せず、乗客の輪に加わるのが苦手だった。肉を食べないと決めていたため、食卓に出る料理をたずねることさえためらい、持参した食べ物で済ませることもあった。後に大勢の人びとの前で話す人物の、出発点はこんな内気な青年だった。
1891年に弁護士資格を得て帰国しても、仕事は順調ではなかった。法廷で弁論する自信も、実務の経験も乏しい。そんなとき、南アフリカで商売を営むインド人の会社から法律関係の仕事を頼まれ、1893年に海を渡った。のちの思想を完成させるためではなく、まずは仕事をするための移動だった。
客車から降ろされた法律家
南アフリカでガンディーが直面したのは、人種によって権利を区切る植民地社会だった。1893年6月、ピーテルマリッツバーグの駅で、彼は一等車の切符を持ちながら別の車両へ移るよう求められ、拒んだため列車から降ろされた。法律を学んだ人間が、切符を持っていても席に座れない。これは彼の長い抵抗運動を語る際に繰り返し引かれる出来事である。
だが、南アフリカのインド人のあいだには、ガンディーが来る前から権利を求める活動があった。彼が初めに代表したのも、商売を営むインド人たちの利益が中心だった。契約労働者やアフリカ人の苦しみを、最初から同じように考えていたわけではない。初期の彼自身のアフリカ人に関する表現には、人種的な偏見が見える。後年の変化をどう評価するかについても、研究者の意見は分かれている。
法律家として請願や交渉を重ねていた彼は、やがて不当だと考える法に従うことを拒み、逮捕されても抵抗を続けるようになった。インド人に登録証を持たせ、移動や商売を制限する制度に対して、従わず、逮捕も引き受ける。彼はこの抵抗を「サティヤーグラハ」、真理をつかもうとする力と呼び、何もしないまま耐える態度とは区別した。
家の台所から政治の現場へ
ガンディーは南アフリカで、新聞を発行し、仲間や家族が暮らして働く共同体をつくった。自分の手で働き、食べ、掃除する日常も、公の活動とつながっていた。1908年には抵抗者たちが登録証を焼き、彼自身も投獄された。獄中では一緒に捕まった人びとの食事をつくり、便所を掃除したと記録されている。弁護士の仕事場と共同生活の場所が、互いに離れなくなっていった。
政治の方法が家庭を変えたことをよく示すのが、1913年の抗議運動である。南アフリカの裁判所がヒンドゥー教徒やイスラーム教徒の婚姻を認めない判断をしたことをきっかけに、女性たちが抵抗に加わった。その中にはカストゥルバーもいた。彼女は仲間たちと移動し、逮捕されることを選んだ。
この運動について南アフリカの歴史資料は、出発の日、ガンディーら男性が料理や洗濯、掃除を引き受け、女性たちをダーバンの駅まで見送ったと伝えている。結婚した女性たちが家を出て抗議するには、これまで誰が担っていた家事を誰が行うかという問題があった。台所を引き受けた夫の行動は興味深いが、逮捕の危険を負って列車に乗ったのはカストゥルバーたち自身だった。
運動は繰り返し投獄と交渉を伴い、思いどおりの成果だけを残したわけではない。登録制度をめぐる政府との妥協に反発する仲間もいた。外から見える指導者の決断は、仲間の生活と危険をまとめて引き受けられるほど単純なものではなかった。
一人の抗議が国じゅうの運動になる
1915年にインドへ戻ると、ガンディーが向き合う相手と人びとの数は大きく変わった。1917年にはチャンパランで困窮する農民の訴えに関わり、翌年には工場労働者や別の農民たちの要求を支えた。南アフリカでの商人の代理人は、農村で働く人たちの問題を公共の争点にしていった。
彼が求めたのは、支配に抗議しながら、自分たちの暮らし方も変えることだった。外国製の布を買わず、糸を紡ぎ、共同生活の中で仕事を分担する。1909年の『インドの自治』(Hind Swaraj)では、英国の統治だけでなく、近代文明そのものへの疑いも記した。家庭の食卓や衣服から政治を考える姿勢は、南アフリカでの生活にも通じている。
第一次世界大戦後、ガンディーは英国の支配に協力しない運動を広げた。1920年ごろの非協力運動は、イスラーム教徒がオスマン帝国のカリフの地位を心配していた問題とも結びつき、学校、法廷、商品など、日常の多くの場所に及んだ。宗教の違う人びとが同じ運動に加わる可能性が生まれる一方、それぞれの願いが同一になるわけではなかった。
1922年、北インドのチャウリ・チャウラで抗議行動が暴力に転じ、警察官らが殺害された。ガンディーは非協力運動を停止する。全国へ広がった運動を、自分の求める方法から外れたとして止める決断だった。独立を急ぐ他の運動家にとって、これは簡単に受け入れられるものではなかった。人びとを立ち上がらせる力と、その行動を望んだ形に保てない現実を、彼自身が突きつけられた。
それから八年後、塩の行進が始まった。今度は、英国の塩の独占という具体的な法律を選んだ。1930年4月6日、ダンディでの行動は、大きな政治の話を誰の台所にもある塩へ戻した。だが、そこで一致して歩いた人びとも、自由になったあとの国について同じ答えを持っていたわけではない。
誰が人びとを代表するのか
ガンディーは「不可触民」と呼ばれて差別されてきた人びとへの扱いを変えようとした。一方で、差別されてきた人びとが独立した政治集団として代表を選ぶことには反対した。1932年、その点で彼と鋭く対立したのがビームラーオ・アンベードカル(B. R. Ambedkar)である。本人もカースト差別を受けてきたアンベードカルは、上位カーストの多数派に候補者選びを左右されない政治的代表を求めていた。
ガンディーには、ヒンドゥー社会の内部で不可触民制をなくしたいという考えがあった。アンベードカルには、社会の変化を待つだけでは自分たちを守れないという切実な政治的理由があった。ガンディーは獄中で断食し、交渉の末にプーナ協定が結ばれる。議席は被差別集団のために確保されたが、選挙は多数派と共通の仕組みで行われることになった。
これは誰か一方が納得して終わった話ではない。アンベードカルは後年も、その制度では自分たちの代表が多数派の支持に依存すると批判した。ガンディーが差別に反対した事実と、彼の考える解決策が当事者の自立した政治的な声を十分に守らなかったという批判は、両方とも残る。
1934年、ガンディーは国民会議派を離れ、農村の生活や差別の問題に改めて取り組んだ。1936年にはセーヴァーグラームに共同生活の拠点を設けた。教育にも目を向け、第二次世界大戦下の1940年には個人による不服従運動を始めている。大きな行進が終わった時期にも、日々の暮らしと政治をつなぐ試みは続いていた。
彼は他者に、そして自分の近くにいる人びとにも厳しい節制を求めた。食事、衣服、労働、性的な禁欲を自らの活動と切り離さなかったからである。この方法は自分を支える日課であると同時に、周囲の人びとの暮らしも左右した。その点を考えると、彼の人生を公共の演説や行進だけで語ることはできない。
妻がいなくなったあと
1942年、英国にインドから退くよう求める運動ののち、ガンディーは再び拘束され、妻や仲間とともにプネーのアーガー・ハーン宮殿に閉じ込められた。長年の秘書マハーデーヴ・デサイがそこで亡くなり、1944年2月にはカストゥルバーも拘禁中に亡くなった。長い結婚生活は、政治活動とは別の場所で終わったのではない。夫妻の生活が運動と重なってきたまま、妻の最期を迎えた。
一方、晩年のガンディーには別の難しい関係もあった。1946年から翌年にかけて、親族で若い随行者だったマヌ・ガンディーと、同じ寝床を使って自らの禁欲を試す行為を続けた。マヌの日記を検討した研究では、彼女自身の参加意思を重視する読みと、年長の指導者が若い女性に課した負担を問う読みが並ぶ。本人の宗教的な説明があったとしても、二人の立場の差まで消えるわけではない。
この時期、英国による支配の終わりが近づいていた。しかし、ヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立が深まり、各地で人びとが殺され、住む土地を追われた。ガンディーは1946年から、東ベンガルのノアカリなど暴力の起きた地域を訪ねて歩いた。人びとのあいだで身を置き、報復を止めることを訴えたが、それで分離独立を防げたわけではなかった。
1947年8月、インドとパキスタンが別々の国として独立した。ガンディーは首都の祝賀の中心に立つより、宗教間の衝突が続く現場にいた。英国の植民地支配からの独立は、彼が長く求めてきたものだった。しかし、国境が引かれたことで住む場所を追われ、避難を余儀なくされた人びともいた。
祈りの場へ向かう道
ガンディーは1947年秋のデリーで、ヒンドゥー教徒やシク教徒がイスラーム教徒を攻撃することも、逆向きの報復も、繰り返し批判した。新しく生まれた二つの国が、それぞれの少数者を守る責任を負うと考えていた。英国に抵抗するため一緒に行動した人びとが、いまは隣人を疑っていた。
1948年1月12日、彼は翌日から断食すると表明した。軍や警察が町の表面を鎮めても、人びとの憎しみは残っていると語った。十三日に始めた断食は十八日に終えられたが、宗教間の緊張はそれで消えなかった。二十日には祈祷の集まりで爆弾が爆発した。それでも彼は集まりを続けた。
一月三十日、七十八歳のガンディーはデリーのビルラー邸で、夕方の祈りの場へ向かう途中、ナートゥーラーム・ゴードセに撃たれて亡くなった。
若いころ法廷で思うように働けなかった人物は、やがて不服従によって植民地支配に抗う道を多くの人に示した。だが、独立の年を越えたガンディーには、まだ終わらせられない仕事があった。最後の数週間、彼が向き合っていたのは、いま目の前にいる人びとが互いに殺し合わずに暮らせるかという問題だった。




