一人の人生を読む
パリのクラブで、遺言に署名する
1895年11月27日、アルフレッド・ノーベルはパリのスウェーデン=ノルウェー・クラブで、一通の遺言に署名した。
立ち会ったのはスウェーデン人の四人。法律家はいなかった。文面はノーベル自身が書いたもので、その秋には二か月ほどパリに滞在して内容を整えていた。
彼はすでに62歳。ダイナマイトの発明者としてヨーロッパ各地に工場と企業を持ち、巨額の財産を築いていた。遺言では、親族らへの分配を定めたうえで、残る財産の大半から基金をつくり、その収益を五つの賞に充てるよう指示した。
物理学、化学、生理学または医学、文学、そして平和。
いまなら「ノーベル賞」の五分野と分かる。だが、この日のパリにはまだ授賞式も財団もない。財産を残そうとしているのは、一人の発明家であり、各国で爆薬を製造する会社の経営者だった。
その仕事は何を生み、何を失わせたのだろう。
父の事業を追って、ロシアへ渡る
ノーベルは1833年、スウェーデンのストックホルムに生まれた。父イマヌエルも発明家だったが、事業は安定せず、家族を残してロシアへ渡った。やがてサンクトペテルブルクで軍用の機雷などを製造する仕事を得ると、1842年には妻や子どもたちを呼び寄せた。
アルフレッドはそこで少年時代を過ごす。学校に長く通ったわけではなく、家庭教師から外国語や理科を学んだ。父の仕事場には金属や機械があり、その技術の買い手として軍がいた。彼は化学に強い関心を示した一方で、文学や詩にも心を寄せていた。
十代後半には海外で学ぶ機会を得て、パリでは化学者テオフィル・ペルーズの研究室に身を置いた。そこで触れたのが、強い爆発力を持ちながら、衝撃などで思いがけず爆発しかねないニトログリセリンだった。
父の会社はクリミア戦争の軍需で栄えたが、戦争が終わると注文が減り、経営は行き詰まった。軍の需要が家族を豊かにし、同じ需要の消失が家族の生活を変えた。アルフレッドはやがて、危険な液体を工事や採掘に使える商品へ変える仕事に進む。
弟を失っても、工場は続いた
ニトログリセリンには強い力があった。しかし、その力を必要な場所で、必要なときに発揮させるのは難しい。ノーベルは起爆装置を改良し、液体の製造と利用を事業として進めた。
1864年9月3日、ストックホルムの工場で爆発が起きる。亡くなった人々の中には、まだ若い弟エミールがいた。しかし、犠牲になったのはエミールだけではない。同じ現場で働いていた人々も命を落とした。
ノーベルはニトログリセリンの仕事をやめなかった。液体をそのまま運び扱う危険を減らすため、さまざまな材料を試し、1867年には珪藻土に吸収させた爆薬「ダイナマイト」の特許を得る。扱いやすさが増したことは、鉱山やトンネル、道路工事にとって大きかった。
しかし、扱いやすくしたことと、製造の危険がなくなることは違う。
スウェーデンのヴィンテルヴィーケンにあった工場では、1868年の爆発で十四人が死亡した。1874年にも建物を巻き込む爆発と火災が起き、死者が出た。
工場の事故原因をすべてノーベル個人の判断に帰すことはできない。それでも、彼が築いた産業の中で人が働き、人が死んだ。ダイナマイトの成功と、そうした犠牲は同じ時代に起こっていた。
ダイナマイトの利益は、国境を越える
ダイナマイトの需要は各国へ広がった。
岩盤を砕き、坑道を掘り、鉄道や道路を通す。工事の現場で爆発を制御できることには大きな価値があった。ノーベルは特許を取得し、工場を設立し、企業同士を結びつけた。ハンブルク、スコットランド、フランスなど、各地に仕事の拠点が増えていく。
彼は実験室だけにいる研究者ではなかった。技術を商品にし、資金や経営に向き合い、国ごとの制度や競争相手を相手にする実業家でもあった。
発明もダイナマイトで止まらない。1875年には「爆破ゼラチン」と呼ばれる別の強力な爆薬を開発し、1887年には銃砲の発射に使う無煙推進薬「バリスタイト」の特許を得た。
ここでは用途がはっきり変わっている。山を削り、道を通すための爆薬から、兵器を動かすための技術へ。彼の仕事の中には、その両方があった。
ノーベル自身は、恐ろしい兵器が戦争を思いとどまらせるかもしれないという考えも持っていた。だが、それは彼の期待であって、彼の開発した兵器が戦争をなくしたということではない。
工場から離れた時間に、手紙を書く
事業の中心の一つとなったパリで、ノーベルは研究と経営を続けながら、人とのつながりを手紙に保った。
1876年、秘書や家政を任せる人を探していた彼のもとへ、オーストリアのベルタ・キンスキーがやって来た。勤めた期間は短かったが、その後彼女は結婚してベルタ・フォン・ズットナーとなり、戦争に反対する作家・平和運動家として活動した。ノーベルとベルタは長く書簡を交わした。
平和に関する彼の考えには、彼女との交流が重要な位置を占めている。同時に、それを一人の説得によって突然生まれた決心とするには、ノーベル自身が長く抱いていた文学や政治への関心も、爆薬産業に携わり続けた事実も大きい。
ベルタとの交流とは別に、ノーベルはゾフィー・ヘスとも長年にわたって親密な交際を続けた。二人の間には1870年代後半から1896年までにわたる書簡が残され、後年、研究者によってまとめられた。そこからは、各地を移動し、仕事の会議に出席するノーベルの姿もうかがえる。
ノーベルは生涯結婚しなかった。残された手紙からは、各地を移動しながらも人との関係を保っていたことがうかがえる。
文学への関心も晩年まで続いた。1896年には、病気のあいだに戯曲を書いたとベルタへ知らせている。
パリを離れても、事業を手放さない
1891年、ノーベルは長く暮らしたパリを去り、イタリアのサンレモへ住まいを移した。バリスタイトをめぐってフランス当局と対立したことが背景にある。
そこからも研究や事業は続いた。1894年にはスウェーデンのボフォースを買い、軍需にもつながる企業を自分の事業へ加えた。平和を語る相手と文通しながら、兵器にかかわる仕事から退いたわけではなかった。
彼が生活を置いたのは、スウェーデン一国でもパリ一都市でもない。少年時代はロシア、長い成人期はフランス、最後の住まいはイタリア。多くの国に工場や取引先を持ち、故郷へ戻る構想もあった。
その一方で、財産が自分の死後どう扱われるかは、具体的な取り決めが必要な問題になっていた。
1895年の秋、彼はパリで遺言を整えた。家族や身近な人への遺贈も定め、残る大きな財産を五分野の賞に充てた。物理学や化学は自身の仕事に近く、文学は書き続けてきた関心に近い。平和のために活動した人々にも賞を設けた。
それは発明の成功と工場の死者を帳消しにする文章ではない。軍需企業を手がけていた事実を消す文章でもない。多くの矛盾を抱えたまま生きたノーベルが、財産の使い道を自分で決めたのである。
遺言を書いた人は、最初の授賞式を見ていない
1896年12月10日、ノーベルはサンレモの自宅で亡くなった。63歳だった。
彼の遺言はそのまますぐ賞になったわけではない。巨額の財産をどう管理し、どの機関が賞を選ぶのか。遺言を現実の制度へ変える仕事は、残された執行人や関係者が引き受けた。
最初のノーベル賞が授与されたのは、彼の死から五年後の1901年12月10日である。
世界中に名を残した「ノーベル賞」は、彼が受賞者を迎えた仕事ではなく、死後に人々が実施した遺言の結果だった。
いまも名前とともに残るものは、賞ばかりではない。19世紀に広がった爆薬の技術、各地につくられた工場、そこで働いた人たちの歴史もある。
パリで署名したあの遺言を知ったあとでも、1864年の弟と同僚たち、1868年と1874年の工場で亡くなった人々の存在は変わらない。文学や平和への関心も、軍需事業への関わりも、消えることはない。
その全部が、アルフレッド・ノーベルの生涯に属している。




