一人の人生を読む
博士号を取って、畑へ戻った
ドイツで経済学を学び、博士号まで取った。帰国すれば、大学か研究機関で仕事が始まる。そう考えても不思議ではない経歴だった。
ところが1878年にアメリカへ戻った26歳のサイモン・ネルソン・パッテンには、行く先がなかった。
彼はイリノイ州サンドウィッチ近郊の家族農場へ戻った。かつての学生は、パッテンがそこで一年ほど、畑を耕し、干し草を扱い、家畜の世話をしたと記している。父ウィリアムは、ドイツで博士になった息子が職を得られないことに失望したという。
パッテン自身も、農場経営へ落ち着いたわけではなかった。父子で進路を考えた末、翌1879年の秋にはシカゴで法学を学び始める。
しかし、その道も約6週間で止まった。目を使うと激しい痛みが続き、読書も仕事も難しくなったのである。症状はすぐには治まらず、約2年半にわたって彼の活動を制限した。
博士号の次に教授職があり、その先に名声がある。パッテンの20代後半は、そんな経歴とは逆方向へ進んだ。学んだことを生かす職がなく、別の職業へ移ろうとすると身体が止まる。経済学者として知られるようになるのは、この空白のあとだった。
農場の少年から、36歳の大学教師へ
パッテンは1852年5月1日に生まれた。出生地については、家族に近い二つの系統の資料でも食い違いがある。一方は母方祖父の家があったニューヨーク州コサユナ、もう一方はイリノイ州サンドウィッチ近郊としている。確かなのは、幼少期をサンドウィッチ近郊の大きな農場で過ごしたことだった。
その農場は貧しい開拓農家ではなかった。父ウィリアムは農地の排水や設備、新しい家畜育種にも関心を持つ比較的裕福な農場経営者で、地域の政治にも関わっていた。家には新聞や雑誌が入り、宗教と政治が身近にあった。
一方、4歳のときには家庭に大きな変化が起きた。パッテンがチフスにかかり、看病した母エリザベスも感染して亡くなった。父は約7か月後に再婚し、パッテンは異母きょうだいを含む大きな家族の中で育つことになる。
青年期にはノースウェスタン大学で学び、1876年にドイツへ渡った。ハレ大学でヨハネス・コンラートのもと政治経済学を学び、1878年前後に博士号を得る。ドイツでは、経済を抽象的な市場法則だけでなく、歴史や制度の変化の中で考える学問に触れた。
それでも、帰国後に専門職は見つからなかった。さらに法学への転身が目の不調で止まる。1882年に治療を受けて視力が改善すると、最初に得た安定した仕事は大学ではなく学校教育だった。パッテンは地方の学校で教え、学校運営にも携わった。
そして1888年、ドイツ留学時代から知るエドマンド・J・ジェームズのつながりで、ペンシルベニア大学へ移る。36歳になっていた。
フィラデルフィアで、「不足」を疑い始める
パッテンが着任したウォートン・スクールは、現在のビジネススクールにつながる若い教育機関だった。彼は政治経済学を教え、1896年から1912年には学部運営を率いる立場にもなった。
この時期のアメリカでは、工業化と都市化が進み、大量生産の力が急速に伸びていた。もちろん貧困はなくなっていない。労働条件も住環境も深刻な問題を抱えていた。それでもパッテンは、経済学がいつまでも「物は根本的に足りない」という一つの前提だけから社会を考えてよいのか、と問い始めた。
彼が見たのは、豊かさが完成した社会ではない。生産する力が増え、以前より多くの財やサービスを生み出せる条件ができつつあるのに、その成果を生活へ移す制度や習慣が追いついていない社会だった。
だから関心は、生産量をどう増やすかだけでは終わらない。人は何を消費するのか。生活水準をどう高めるのか。余暇をどう使うのか。家族や社会階級はどう変わるのか。社会が生み出した余剰を、教育や福祉を含む共同の生活へどう戻すのか。
1902年の『繁栄の理論』、1907年の『文明の新しい基礎』では、こうした問いが前面に出た。
豊かさは、問題の終わりではなかった
後世、パッテンは「不足から豊かさへの転換」を唱えた経済学者として説明されるようになった。ここでいう「不足」と「豊かさ」は、単なる物量の多寡ではなく、経済学が置く社会条件の前提を表している。
ただし、彼の主張は「もう物は十分にあるから経済問題は解決した」というものではなかった。
工業化や科学技術によって生産力が高まれば、人間は以前ほど生存ぎりぎりの不足だけに縛られずにすむ可能性が生まれる。だが、生産力が変わったからといって、所得の分配、消費の習慣、教育、家族、社会的な保障まで自動的に変わるわけではない。
パッテンにとって、新しい問題はそこにあった。
欠乏の時代に適応してきた制度や価値観を、そのまま豊かさの時代へ持ち込めば、せっかく増えた生産力がよりよい生活へ結びつかない。経済学は価格や生産だけでなく、消費や生活の質、社会制度の組み替えまで見なければならない。
この発想は、のちの大量消費社会をそのまま肯定する理論でもなかった。パッテンは欲望や消費を無制限に放置するより、教育や社会的な規範を通じて、人々が新しい条件に適応する必要があると考えた。豊かさへの期待と、社会を計画的に整えたいという統制志向は、彼の中で並んでいた。
教室では、人の考えを動かした
パッテンは、文章だけを読むと捉えにくい人物でもある。
学生だったレックスフォード・G・タグウェルの回想では、パッテンは講義に大量の原稿を持ち込まなかった。粗い紙にわずかなメモを書き、話し始めるとほとんどそれを見ず、最後には学生からの質問や議論へ時間を残した。大学院生とは教室の外でも話し、若い教員たちとの朝食や夜の議論にも加わった。
その一方で、書いたものはしばしば難解だった。タグウェルは、話しているときには生き生きしていた発想が、文章になると追いにくくなることがあったと振り返っている。強い影響を受けた学生が多くても、一つのまとまった「パッテン学派」ができたわけではないと見ていた。
スコット・ニアリングやタグウェルのように、のちに独自の道へ進んだ学生もいた。パッテンが残したものは、同じ答えを繰り返す弟子の集団というより、問いを別の方向へ運んでいく人々だった。
妻が働く社会を語り、妻から反論された
1903年、51歳のパッテンはシャーロット・キンボールと結婚した。
ちょうどこの時期、彼は女性の仕事と所得について、当時としてはかなり強い主張をしていた。結婚した女性を夫の所得に依存する存在として固定するのではなく、女性自身が有償労働を持ち、独立した所得を得られる社会を支持した。晩年には同一労働同一賃金の原則も明言している。
ところが、シャーロットはこの議論の一部に公の場で異論を示した。夫が妻を扶養しようとすることを、パッテンほど否定的には見なかったのである。
二人は結婚から約5年後に離婚した。公の論争と離婚の間にどのような私的事情があったのかは分からない。二人の公のやり取りから見えるのは、同じ時代の家族・仕事・所得を、夫婦が異なる立場から考えていたということだ。
女性参政権にもパッテンは賛成し、行進に参加したと後世の研究は伝えている。女性の経済的自立という点では、彼は同時代の男性改革者の中でもかなり踏み込んだ側にいた。
「進歩的」という一語では収まらない
女性の経済的自立を強く支持した一方で、人種・優生学や社会統制をめぐる考えには、同じ進歩主義の別の側面が現れる。
20世紀初頭のアメリカの進歩主義には、生活条件の改善や労働・福祉改革と並んで、専門家が社会を科学的に管理できるという強い期待があった。その中には、遺伝によって人間の価値や能力を序列化し、出生や移民を統制しようとする優生学の発想も入り込んでいた。
パッテンも、この時代の語彙から自由ではない。1903年には『遺伝と社会進歩』を刊行し、「不適者」や「人種自殺」といった、現在では人種主義・優生学との関係を抜きに読めない言葉を使った。見解も一貫しておらず、優生学的な議論へ近づく時期と、そこから離れる時期があった。
近年の経済思想史研究が指摘するのは、その揺れである。パッテンは一部の同時代人ほど遺伝的な「劣等」を固定的に扱わず、後期には文化や生活環境、経済条件の違いを重く見るようになった。移民についても、排除を生物学的に正当化する立場とは距離があった。
それでも、当時の人種的な分類や社会を上から整える発想そのものが消えたわけではない。さらに彼は保護関税を支持し、大企業による協調に期待し、禁酒運動にも関わった。女性の自立を支持した人物と、社会を強く統制しようとする人物は、同じパッテンの中にいる。
パッテンが描いた「進歩」は、自由を広げる提案と、社会を上から管理しようとする発想を同時に含んでいた。
戦争と大学で、進歩の居場所が狭くなる
ドイツ留学は、パッテンの学問形成に大きな影響を与えた。若い頃の彼はドイツの思想と文化に強く惹かれ、それがアメリカの経済学を変えると期待していた。
ただ、のちには自分がドイツ思想へ寄りすぎたため、イギリス経済学を誤って読んだと振り返っている。第一次世界大戦が始まると、ドイツ文化への評価とドイツ軍国主義への評価も分けようとした。
大学との関係も、この時期に不安定になった。
1915年、パッテンの教え子でウォートンの改革派教員だったスコット・ニアリングが大学から解任された。パッテンは同僚に辞職ではなく大学内部での改革を続けるよう促した。
1917年、パッテン自身が65歳になると、ペンシルベニア大学の理事会は任用を延長しなかった。当時、著名な教員には65歳を超えて延長が認められることもあった。パッテンは以前に平和主義を支持し、直前には著名な平和主義者デイヴィッド・スター・ジョーダンを反戦集会で紹介することにも同意していた。一方、アメリカが参戦した後の戦争そのものには反対しなかったとされる。
そのため、1917年の退職を一つの理由だけで説明するのは難しい。年齢による退職制度、大学内の改革派をめぐる対立、反戦運動との接点が重なった場所で、約30年続いたペンシルベニア大学での仕事が終わった。
書き残した未来は、完成図ではなかった
退職後もパッテンは書くことをやめなかった。
経済学だけでなく、宗教、文化、社会改革、文学にまで手を伸ばしていた彼は、1922年には『マッド・ホロウ』という小説的な作品も刊行した。しかし評判はよくなかった。長く彼を知ったタグウェルも、この作品を重要な自己表現と見ながら、作品としては失敗だったと評している。
同じ年の7月24日、パッテンは70歳で亡くなった。
翌1923年には、アメリカ経済学会で複数の同僚・学生が追悼文を寄せ、タグウェルも56頁に及ぶ長い評伝を書いた。そこで繰り返し語られたのは、整った体系を残した学者というより、人の考えを動かした教師の姿だった。
その後、パッテンは「豊かさの経済学」を早く考えた人物として再発見されてきた。さらに近年は、女性の経済的自立、移民、人種、優生学、専門家統治といった論点から、その進歩主義そのものが読み直されている。
評価が一つに定まらないのは、パッテンの思想そのものに、豊かさによって自由が広がる期待と、社会を強く整えようとする欲望が同居していたからである。
豊かさの先に、何を変えるのか
パッテンは、物が増えれば自動的に社会がよくなるとは考えなかった。
生産する力が変わる。ところが、制度や習慣、人間関係、何をよい生活と考えるかは、それより遅く変わる。そのずれを埋めなければ、豊かさは人々の生活へ届かない。これが、彼が経済学の外側まで問いを広げた理由だった。
同時に、誰が新しい社会を設計するのか、どこまで社会を統制してよいのかという問題は残った。女性の自立を進める主張と、人種や優生学をめぐる時代の偏りが同じ人物の中にあることは、「よりよい社会」を誰がどう設計するのかという問いを、いっそう複雑にする。
不足だけを前提にした社会のルールは、豊かさの到来だけでは消えない。パッテンの仕事が残したのは、豊かさそのものへの賛歌より、条件が変わったあとに制度や生活をどう組み替えるかという未完の問いだった。




