一人の人生を読む
1611年、京都の二条城に豊臣秀頼がやって来た。秀吉の遺児で、かつて家康が仕えた豊臣家の当主である。秀頼はまだ十代の若者だったが、すでに成長したその姿で、徳川家康と顔を合わせることになった。
この日のことを記す『当代記』によれば、家康は庭まで出て秀頼を迎えた。家康は互いに礼を交わそうと申し出たが、秀頼は遠慮して家康に礼をした。挨拶の作法にも、二つの家の立場が現れていた。秀吉の妻だった高台院も、この会見に立ち会っている。
家康はこのとき、征夷大将軍ではなかった。六年前にその職を息子の秀忠へ譲っていたからだ。それでも豊臣家の当主を迎え、朝廷や大名を動かす政治の中心にいた。家康の生涯を振り返ると、この光景は不思議にも見える。かつて自分自身が、他の大名家の事情によって住む場所も家族との暮らしも決められた子どもだったからである。
岡崎を離れた竹千代
家康は1542年、三河国岡崎に松平広忠の子として生まれた。幼いころの名は竹千代。父の松平家は今の愛知県東部を中心に勢力を保とうとしていたが、周囲には尾張の織田氏と駿河・遠江の今川氏という、より大きな力を持つ家があった。
母の於大は、竹千代がまだ幼いころに広忠と別れた。婚姻は両家の政治的な結びつきと切り離せず、関係が変われば夫婦や子どもの生活も変わった。竹千代もまた、今川氏へ預けられる途中で織田方の手に渡り、その後、捕虜交換を経て今川氏のもとへ移されている。父の広忠は、竹千代が岡崎に戻る前に亡くなった。
今川家のもとで少年は成長し、元服すると松平元信、やがて元康と名乗った。「元」の字には今川義元との関係が表れている。義元の家臣である関口氏の娘、のちに築山殿と呼ばれる女性との婚姻も結ばれた。主君との関係は武士の名に刻まれ、結婚する相手にも及んだのである。
1560年、織田信長の軍に今川義元が討たれると、戦場から引き揚げた元康は岡崎城へ戻った。家を継ぐ当主として故郷に立ったものの、領国の内側をまとめる仕事は、帰城しただけで終わらなかった。
家臣が敵方へ回る
三河を治める過程で家康が直面したのは、外から攻め込んでくる軍勢だけではなかった。1563年から翌年にかけて起きた三河一向一揆では、寺院やその支持者と家康方との対立が広がり、長く仕えた家臣の一部まで一揆方に加わった。敵方に回った家臣をどう扱うかは、一揆を収めた後の領国統治にも関わる問題だった。
一揆は和議を経て収束したが、松平家が一つの意思で動く集団ではなかったことは明らかだった。元康は今川義元の「元」を外して家康と改名し、1566年には松平から徳川へと姓を改めた。改名によって家中の争いが消えたわけではない。敵対する家を相手にすることと、自分の側の人間をつなぎ止めることは別の仕事だった。
西の織田信長と同盟し、東では甲斐の武田信玄と争った。家康は遠江に進出して浜松を拠点としたが、1572年の三方原で武田軍に敗れた。この戦いでは家康の家臣も多く命を落とした。後世には敗北した夜の家康について多くの逸話が作られたが、確かなのは、領土を広げた当主が戦場で大きな損害を受けたという事実である。
1579年、家康の長男・信康が自害し、最初の妻・築山殿も同じ年に命を落とした。信康の死は家康の命によるものと伝えられる一方、その背景には諸説があり、単純に信長が命じたからだと決めつけることはできない。
後に家康は、信康が残した娘の登久姫と国姫を養育し、二人の婚姻にも関わった。息子がいなくなった後にも、孫娘たちの行く末を引き受ける日々が続いていた。家を守る政治と、家族が経験した喪失を、きれいに分けることは難しい。
戦に勝ち、秀吉に従う
1582年、本能寺で織田信長が討たれたとき、家康は堺にいた。京の近くで織田家の後ろ盾を失った家康は、伊賀を経て三河へ帰国する。その後、甲斐や信濃の旧武田領をめぐる争いの中で勢力を伸ばした。
ところが、信長の死後に政治の中心へ躍り出たのは羽柴秀吉だった。1584年、家康は信長の次男・織田信雄と組んで秀吉方と戦い、小牧・長久手では軍事的な勝利を得た。しかし、それによって秀吉を退けることはできなかった。秀吉は信雄と和睦し、家康は戦の勝敗とは別に、秀吉の力が拡大していく現実に向き合うことになった。
両者の関係が変わると、婚姻もその証しになった。秀吉の妹・旭姫が家康に嫁ぎ、さらに秀吉の母も岡崎に滞在した。1586年、家康は上洛して秀吉への臣従を明らかにした。家康は戦場での勝利とは別に、武力で対抗した秀吉を政治上の上位者として認めた。
1590年、秀吉が小田原の北条氏を滅ぼすと、家康は長年の基盤だった三河・遠江などを離れ、関東への移封を命じられた。新たな居城は江戸となる。領地の規模は大きくなったが、代わりに長く治めてきた土地を去らねばならない。家臣とその家族、領国の統治の仕組みも、移転に合わせて組み直す必要があった。
家康は秀吉のもとで大大名となった。しかし、その江戸の地は、本人が最初から選び取った土地ではなかった。
将軍になり、職を譲る
1598年に秀吉が死去すると、豊臣政権に集まった大名たちの対立が激しくなった。1600年の関ヶ原で家康方が勝ち、家康は諸大名の配置や領地に大きな影響力を持つようになる。1603年には朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に新たな武家政権を開いた。
それからわずか二年後、家康は将軍職を息子の秀忠に譲った。本人の引退というより、将軍の地位が徳川家の中で継承されることを示す動きだった。家康は駿府を拠点としながら、引き続き政治の重要な案件に関わる。秀忠が江戸にいても、すべてを秀忠一人で決める政権にはなっていなかった。
家康が晩年に行った仕事は、戦や人事ばかりではない。海外との交易では朱印状を発給し、僧侶らの知識を用いて外交文書を整えた。寺社の領地を保護し、武士と朝廷をめぐる法制度にも関与した。後に秀忠の名で発布される武家諸法度を含め、政権は複数の人間と組織によって制度の形を取っていく。
家康は書物の出版も進めた。歴史書の『吾妻鏡』などを活字で刊行する事業があり、伏見や駿府で木活字・銅活字が用いられた。戦国の武将が、軍勢を動かすこととは別に、過去の記録を読める形で残そうとしていたのである。
二条城の後に残ったもの
家康が将軍職を譲っても、豊臣家はなくなっていなかった。秀吉の子の秀頼は大坂城に暮らし、豊臣家を支える家臣たちもいた。冒頭の二条城会見は、そうした二つの家が並び立っていた時期の出来事である。家康は秀頼を丁重に迎えた。礼が交わされたからといって、領地や軍事力、家の存続に関わる問題が解消されたわけではない。
1614年、京都の方広寺の鐘に刻まれた文字をめぐって徳川方が異議を唱えるなど、豊臣家との対立が深まり、大坂冬の陣が始まった。鐘銘は対立の一つの焦点だったが、それだけで開戦を説明することはできない。いったんは和睦が成立し、交渉には家康に仕えてきた阿茶局も徳川方の使者として加わった。
和議によって戦いは終わらず、翌1615年の夏の陣で大坂城は落ち、秀頼は命を絶った。豊臣家は政治的な家として終わりを迎える。将軍職を息子に渡した後にも、家康の政治は大きな戦争に向かった。その決着の影響は、大坂城にいた人々だけで終わらない。豊臣方に仕えた者の領地の没収には家康の意向が関わっていたことを示す、当時の書状も残る。
同じ年、武家諸法度や禁中並公家中諸法度が整えられた。秀忠が将軍として法を発する体制のもとで、家康は徳川家の政治を制度として残そうとしていた。戦争で相手の家を失わせることと、自分の家が次代にも統治できる形をつくることとが、同じ晩年に重なっている。
駿府で終わった生涯
1616年の初め、家康は鷹狩に出かけた後に体調を崩した。食べ物が原因だったという話も伝わるが、病名や発病の直接の理由は確かではない。駿府城に戻った家康は病が重くなるなか、側近たちへ死後のことを指示したと記録されている。
家康は同年四月、駿府城で死去した。七十代半ばまで生きたその生涯は、幼いころの人質暮らしから、徳川家の将軍を次代へ渡す政治にまで及んだ。死後、遺骸は久能山に葬られ、日光へと続く祭祀のなかで家康は「東照大権現」としてまつられるようになる。絵画や史書に表れる堂々とした家康像には、こうした死後の顕彰も重なっている。
けれども、その長い生涯には、敗れた戦いも、失った息子も、従わねばならなかった相手もいた。少年の竹千代は、他家の判断によって岡崎を離れた。晩年の家康は、どの家が城や領地を持ち、どの家が次代に残るかを左右する立場にいた。徳川家が続いていく一方で、豊臣家は途絶え、領地を失う者もいた。日光にまつられた家康の肖像の背後には、そうした人々と過ごした、勝利だけでは語れない時間がある。




