一人の人生を読む
大坂城から届いた手紙
大坂城から届いた手紙には、戦いが起こらなければまた会いたい、という願いが記されていた。差出人は真田信繁。宛先は義兄の小山田茂誠と、その息子の之知だった。
旧暦1615年3月19日付とされるこの手紙が書かれたころ、大坂城の豊臣方と徳川方は、前年の冬の陣でいったん戦を収めていた。それでも信繁は、一日先の命さえわからないという趣旨の言葉を記している。
信繁は、後世「真田幸村」と呼ばれる武将である。最後の戦いで名を残したその人は、それ以前に九度山で約十四年を過ごしていた。
父と同じ側に、兄とは違う側に
信繁は信濃の武将・真田昌幸の次男として生まれた。兄は信之。真田家は、周囲の強大な勢力との関係を変えながら生き残りを図っていた。
1585年、信繁は上杉方へ証人として送られた。家同士の約束を支えるため、相手の家で暮らす人質に近い立場だった。のちに豊臣秀吉に仕え、大谷吉継の娘を妻に迎えた。信繁自身の暮らす場所や役目も、真田家を取り巻く政治の動きと結びついていた。
1600年、関ヶ原の戦いをめぐって真田家は分かれる。父昌幸と信繁は西軍につき、兄信之は徳川家康に従う東軍についた。
西軍が敗れると、兄は徳川方の領主として生き残り、父と弟は上田を離れて高野山の麓の九度山へ移された。同じ家に生まれた兄弟は、ここから異なる場所で生きることになった。
九度山で過ごした十四年
九度山は現在の和歌山県にある。信繁は父昌幸とともに、この地で蟄居生活を送った。かつて武将として仕えていた信繁の暮らしは、親族の援助を受けながら過ごすものへ変わった。
信繁が兄信之の家臣へ、焼酎を送ってほしいと頼んだ手紙が残っている。敵味方に分かれた兄弟の間にも、暮らしを支える連絡は続いていた。九度山では信繁の長男、大助も育った。信繁は父と暮らし、同時に子どもの成長を見守る父親でもあった。
1611年、昌幸は九度山で亡くなった。関ヶ原から十一年、故郷に戻ることはなかった。父を失っても信繁の蟄居は終わらず、さらに三年をこの地で過ごすことになる。
父に従って来た九度山で、信繁は父を見送り、子を育てた。後に大坂の陣で知られる信繁の人生には、合戦とは異なる長い時間があった。
九度山を出て、大坂へ
1614年、豊臣秀頼に招かれた信繁は大坂城に入った。冬の陣では城の南東側に出丸を築き、徳川方の攻撃を退けた。「真田丸」と呼ばれるこの出丸は、城の外側に設けられた防御の拠点だった。
両軍が和睦すると、信繁は姉の村松殿へ手紙を書いた。思いがけず戦になったことや、自分が無事でいることを伝え、姉の息子・之知と会えたことにも触れていた。
その後、義兄の茂誠と之知へ送ったのが、冒頭の手紙である。戦が起こらなければ再会したい。しかし、一日先のこともわからない。冬の陣で徳川軍を撃退した武将は、和睦のあいだにも親族へ便りを送っていた。
最後の戦い
1615年、大坂で再び戦いが始まった。夏の陣では信繁の率いる真田隊が徳川家康の本陣に突入し、徳川方を一時混乱させた。しかし押し寄せる徳川軍を防ぎきれず、信繁は戦死した。豊臣家も滅びた。
九度山で育った長男の大助も大坂城に入り、落城の際に命を落とした。父子が十四年を過ごした九度山から大坂へ向かい、ともに帰らなかった。
信繁が死んでから、幸村が広まった
生きていた本人が書状で用いた名は「信繁」である。「幸村」という名は、江戸時代の軍記物語『難波戦記』などによって広く伝わった。のちに合戦の物語や錦絵が作られ、信繁は戦国最後の勇将として語り継がれるようになった。
兄信之は徳川の世で生き延び、真田家の名を次の時代へ伝えた。弟は豊臣方に立って死に、別の名前で長く記憶されることになった。
九度山から品物を頼んだ手紙も、大坂から親族へ送った便りも、差出人は真田信繁である。後世「幸村」と呼ばれるその人は、最後の戦が始まる前の春にも、離れて暮らす親族との再会を願っていた。




