一人の人生を読む
十月二日、十五歳の武将へ
1577年10月1日、奈良の片岡城が織田方の攻撃で陥落した。戦いに加わっていた長岡与一郎は、のちの細川忠興である。まだ15歳だった彼は、弟とともに城へ一番乗りの功を立てた。
翌2日付で、織田信長から与一郎に短い手紙が出された。届いた報告を読んだこと、よく働いたこと、今後も油断せず励むようにという内容である。長く飾り立てた文章ではない。しかもこの手紙は、信長自身の筆によるものとして伝わっている。家臣に命じて書かせた文書が多い信長にとって、自筆が確かめられる書状は珍しい。
信長の周囲には、城を攻める者、土地を治める者、命令を伝える者がいた。その一人が上げた戦功を、信長は自らの筆で認めた。各地の家臣から報告を受け、返事や命令を出すことも、軍勢を率いる者の仕事だった。
このころ信長は近江の安土で新しい城を築いていた。京都の政治に関わりながら、各地の戦争を家臣に任せ、町をどう動かすかまで考える立場にいた。そこに至るまでには、尾張の一領主として家を継いだ時代があった。
父の家から、尾張の外へ
信長は1534年、尾張の織田信秀の子として生まれた。幼名は吉法師。若いころは奇抜な服装や振る舞いから「うつけ」と呼ばれたという話が伝わる。父の死後、信長は織田一族の内部でも周辺勢力との間でも、立場を争わなければならなかった。
婚姻もその関係を左右した。信長は美濃の斎藤道三の娘を妻に迎えたと伝えられる。現在は「濃姫」という呼び名で知られているが、当時の確かな記録にその名が見えるわけではない。彼女が結婚後にどのように暮らし、いつまで生きたのかについても、史料には大きな空白がある。権力者の妻でありながら、信長の軍事や政治を伝える記録ほどには、その日常は残っていない。
尾張の内部で勢力を固めるうち、信長にとって決定的な戦いが起きる。1560年、今川義元の軍勢を桶狭間で破ったのである。今川氏は東海地方の有力な大名であり、この勝利によって信長の名は尾張の外にも広まった。信長はやがて松平元康、のちの徳川家康と結び、美濃へ勢力を広げていく。
京都への進出では、信長は足利将軍家の権威と結びついていく。
将軍とともに京へ入り、将軍と争う
1568年、信長は足利義昭を奉じて京都へ入った。義昭は室町幕府の将軍となる人物である。京で政治を行うには、軍事力と並んで、長く続いてきた将軍の権威が大きな意味を持っていた。
上洛に先立つ同年2月、信長が藤八という人物の田の保有を認めた文書が残っている。そこには「天下布武」と刻まれた朱印が押されていた。四文字の印は広く知られているが、その「天下」を当初から日本全国とするか、将軍が治める畿内を指すとみるかについては研究上の議論がある。この朱印状そのものは、藤八という人物の田地の保有を保証するための文書だった。
京都へ入った後も、命令と交渉は文書を通じて続いた。家臣や国衆に土地を保証し、贈られた馬や太刀への礼を返す。支配の範囲を広げるほど、信長が直接顔を合わせずに関わる人も増えていった。
ただし、将軍との協力は長続きしなかった。信長と義昭の関係は悪化し、1573年、信長は義昭を京都から追放する。将軍を立てて京に入った大名が、五年後にはその将軍を追う側になったのである。
こうした政治の争いと並行して、もっと近しい関係も壊れていった。
妹の嫁ぎ先が、敵になる
信長の妹・お市は、近江の戦国大名、浅井長政に嫁いだ。大名同士の婚姻は家同士の結び付きでもある。ところが浅井氏と織田氏は敵対し、戦争は長く続いた。
1573年、信長の軍勢は浅井氏の小谷城を攻め、長政は命を落とした。お市と娘たちは生き延びて織田氏のもとへ戻る。信長にとって敵の大名は妹の夫であり、戦争で生き残った子どもたちは自分の姪でもあった。
信長が軍を向けた相手は武家だけではなかった。これに先立つ1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちし、寺院やその周辺に深刻な被害を与えた。信長の軍事行動は、城と領地を奪うだけでは終わらず、寺や町で暮らす人々をも巻き込んだ。のちに延暦寺の堂舎は再建されるが、焼き討ちで失われたものが戻ったわけではない。
戦いの報告と、家中への言葉
1575年、信長は徳川家康と軍勢を合わせ、長篠で武田勝頼の軍と戦って勝利した。鉄砲を用いた戦いとして知られるが、広く語られる鉄砲隊の「三段撃ち」が実際にどのように行われたかは、史料をもとに今も議論されている。
戦いが終われば、次には領地を誰に認めるかという仕事が残った。丹波では赤井氏や荻野氏との争いが続くなか、信長が別の国衆の土地を従来どおり保証した朱印状が伝わる。敵との戦争が続く地域で、信長は赦免や土地の保証にも関わっていた。
家臣の妻に宛てた、別の種類の手紙も残されている。羽柴秀吉の妻・おねに送った仮名書きの消息である。信長は贈り物への礼を述べ、おねの姿を褒め、秀吉に対する彼女の不満にも触れた。秀吉への不満を聞いたうえで、手紙を秀吉にも見せるよう求めている。
おねへの書状がいつ出されたかは、はっきりしていない。戦功を賞した十五歳への感状とは宛先も用件も異なり、信長が家臣とその家族に向けて、それぞれに言葉を書き分けていたことがうかがえる。
一方、戦争の過酷さはその後も増していった。1581年、毛利方の鳥取城を羽柴秀吉が包囲し、食糧を絶たれた城内では餓死者が出た。信長が秀吉に送った黒印状には、その戦況に関する記述がある。家臣への手紙には個々の働きや暮らしへの言葉が残る。同じ時代、秀吉の軍勢に包囲された城では人々が飢えていた。
安土に、人と商いを集める
信長は1576年、琵琶湖の東にある安土山で新しい城の建設を始めた。1579年には天主が完成し、信長はそこを居城とした。石垣の上に高く建つ城は、周囲に自分の力を示す建物でもあった。
城を築くだけで、町がにぎわうわけではない。1577年、信長は安土山の下にできる町へ十三か条の掟を出した。第一条では町を楽市とし、従来の商業組織である座の特権を廃止し、町の人々へのさまざまな課役を免じた。
しかし第二条では、街道を往来する商人に安土で宿を取るよう命じている。馬の売買についても町への集中を定めた。商売をしやすくするための免除と、商人を特定の場所へ集めるための命令が、同じ文書に並んでいた。
信長は課役を免じて商いを呼び込む一方、商人が宿泊する場所や馬を売買する場所も定めた。城を拠点に人と物資を集めるうえで、安土の町は欠かせない場所になっていった。
本能寺の最期と、残された城
1582年の春、武田氏は滅び、信長の勢力は大きく広がっていた。家康は安土に迎えられ、信長の家臣たちは北陸や中国地方など各地に向かっていた。
5月29日、信長は京都の本能寺に入った。6月1日には茶会を開く。ところが翌2日、明智光秀の軍勢が本能寺を急襲し、信長はそこで死んだ。長男の信忠も同じ日、京都の二条御新造で命を落とした。
光秀がなぜ反旗を翻したのかについては、さまざまな説明がある。少なくとも、信長が家臣を各地へ動かし、長男へ家督を譲り、安土を拠点とする政治を進めていた時期に、その家臣の一人が主君を討ったことは動かない。
安土城は信長の死後ほどなくして天主と本丸を焼失した。その後、城下町も別の場所へ移され、安土は信長政権の拠点としての役割を失う。一方で、織田の家を継ごうとする者たちは、城や領地をめぐって争い続けた。
信長の姿を伝える肖像にも、死後につくられたものがある。よく知られた長興寺伝来の肖像は、一周忌に納められたと伝わる。本人が生前に築いていた城や町とは別に、残された人々が信長の姿を描き、記憶を伝えていったのである。
安土の高い天主は残らなかった。それでも、城下へ示した十三か条の掟や、田の保有を認めた朱印状、十五歳の武将を賞した短い自筆の手紙は残っている。戦場や城だけでなく、何を命じ、誰の働きを認めたのかも、信長が残した紙の上から読み取れる。




