Hegelroom / Biography

Oda Nobunaga

政治・社会 / 尾張 / 1534–1582

戦に勝ち、家臣へ手紙を書き、安土の町に掟を出した。信長は人々をどう動かしたのか。

1583年、信長の死後に描かれた狩野元秀筆の織田信長肖像。座した姿と賛文が見える
1534Born
1582Died
48Age
政治・社会Field

02 / Profile

織田信長とは?

織田信長(1534–1582)は、尾張の武将から京都の政治を動かす戦国大名となり、近江に安土城を築いた人物である。少年の家臣への自筆の感状、妻や妹との関係を伝える限られた史料、延暦寺焼き討ちや鳥取の包囲戦、安土の町に出した13条の掟を通じて、その権力が人々をどう動かし、何を残したかを追う。

生誕
1534年
死去
1582年6月2日
年齢
48歳
出生地
尾張国(現在の愛知県西部)
活動地域
尾張、美濃、京都、近江・安土
分野
政治・社会、戦国大名

03 / Life

一人の人生を読む

十月二日、十五歳の武将へ

1577年10月1日、奈良の片岡城が織田方の攻撃で陥落した。戦いに加わっていた長岡与一郎は、のちの細川忠興である。まだ15歳だった彼は、弟とともに城へ一番乗りの功を立てた。

翌2日付で、織田信長から与一郎に短い手紙が出された。届いた報告を読んだこと、よく働いたこと、今後も油断せず励むようにという内容である。長く飾り立てた文章ではない。しかもこの手紙は、信長自身の筆によるものとして伝わっている。家臣に命じて書かせた文書が多い信長にとって、自筆が確かめられる書状は珍しい。

信長の周囲には、城を攻める者、土地を治める者、命令を伝える者がいた。その一人が上げた戦功を、信長は自らの筆で認めた。各地の家臣から報告を受け、返事や命令を出すことも、軍勢を率いる者の仕事だった。

このころ信長は近江の安土で新しい城を築いていた。京都の政治に関わりながら、各地の戦争を家臣に任せ、町をどう動かすかまで考える立場にいた。そこに至るまでには、尾張の一領主として家を継いだ時代があった。

父の家から、尾張の外へ

信長は1534年、尾張の織田信秀の子として生まれた。幼名は吉法師。若いころは奇抜な服装や振る舞いから「うつけ」と呼ばれたという話が伝わる。父の死後、信長は織田一族の内部でも周辺勢力との間でも、立場を争わなければならなかった。

婚姻もその関係を左右した。信長は美濃の斎藤道三の娘を妻に迎えたと伝えられる。現在は「濃姫」という呼び名で知られているが、当時の確かな記録にその名が見えるわけではない。彼女が結婚後にどのように暮らし、いつまで生きたのかについても、史料には大きな空白がある。権力者の妻でありながら、信長の軍事や政治を伝える記録ほどには、その日常は残っていない。

尾張の内部で勢力を固めるうち、信長にとって決定的な戦いが起きる。1560年、今川義元の軍勢を桶狭間で破ったのである。今川氏は東海地方の有力な大名であり、この勝利によって信長の名は尾張の外にも広まった。信長はやがて松平元康、のちの徳川家康と結び、美濃へ勢力を広げていく。

京都への進出では、信長は足利将軍家の権威と結びついていく。

将軍とともに京へ入り、将軍と争う

1568年、信長は足利義昭を奉じて京都へ入った。義昭は室町幕府の将軍となる人物である。京で政治を行うには、軍事力と並んで、長く続いてきた将軍の権威が大きな意味を持っていた。

上洛に先立つ同年2月、信長が藤八という人物の田の保有を認めた文書が残っている。そこには「天下布武」と刻まれた朱印が押されていた。四文字の印は広く知られているが、その「天下」を当初から日本全国とするか、将軍が治める畿内を指すとみるかについては研究上の議論がある。この朱印状そのものは、藤八という人物の田地の保有を保証するための文書だった。

京都へ入った後も、命令と交渉は文書を通じて続いた。家臣や国衆に土地を保証し、贈られた馬や太刀への礼を返す。支配の範囲を広げるほど、信長が直接顔を合わせずに関わる人も増えていった。

ただし、将軍との協力は長続きしなかった。信長と義昭の関係は悪化し、1573年、信長は義昭を京都から追放する。将軍を立てて京に入った大名が、五年後にはその将軍を追う側になったのである。

こうした政治の争いと並行して、もっと近しい関係も壊れていった。

妹の嫁ぎ先が、敵になる

信長の妹・お市は、近江の戦国大名、浅井長政に嫁いだ。大名同士の婚姻は家同士の結び付きでもある。ところが浅井氏と織田氏は敵対し、戦争は長く続いた。

1573年、信長の軍勢は浅井氏の小谷城を攻め、長政は命を落とした。お市と娘たちは生き延びて織田氏のもとへ戻る。信長にとって敵の大名は妹の夫であり、戦争で生き残った子どもたちは自分の姪でもあった。

信長が軍を向けた相手は武家だけではなかった。これに先立つ1571年には比叡山延暦寺を焼き討ちし、寺院やその周辺に深刻な被害を与えた。信長の軍事行動は、城と領地を奪うだけでは終わらず、寺や町で暮らす人々をも巻き込んだ。のちに延暦寺の堂舎は再建されるが、焼き討ちで失われたものが戻ったわけではない。

織田信長から羽柴秀吉の妻おねに宛てた仮名書状の写真。横長の紙面に手書きの文字が並ぶ
織田信長筆、おね宛仮名消息(発給年不詳)。1941年刊行の図録掲載写真をWikimedia Commonsから引用 — 織田信長(原書状の筆者)/写真撮影者不詳、1941年新潟郷土博物館図録所載 / Public Domain — PD-Japan-oldphoto / PD-1996 (1941 catalog reproduction)

戦いの報告と、家中への言葉

1575年、信長は徳川家康と軍勢を合わせ、長篠で武田勝頼の軍と戦って勝利した。鉄砲を用いた戦いとして知られるが、広く語られる鉄砲隊の「三段撃ち」が実際にどのように行われたかは、史料をもとに今も議論されている。

戦いが終われば、次には領地を誰に認めるかという仕事が残った。丹波では赤井氏や荻野氏との争いが続くなか、信長が別の国衆の土地を従来どおり保証した朱印状が伝わる。敵との戦争が続く地域で、信長は赦免や土地の保証にも関わっていた。

家臣の妻に宛てた、別の種類の手紙も残されている。羽柴秀吉の妻・おねに送った仮名書きの消息である。信長は贈り物への礼を述べ、おねの姿を褒め、秀吉に対する彼女の不満にも触れた。秀吉への不満を聞いたうえで、手紙を秀吉にも見せるよう求めている。

おねへの書状がいつ出されたかは、はっきりしていない。戦功を賞した十五歳への感状とは宛先も用件も異なり、信長が家臣とその家族に向けて、それぞれに言葉を書き分けていたことがうかがえる。

一方、戦争の過酷さはその後も増していった。1581年、毛利方の鳥取城を羽柴秀吉が包囲し、食糧を絶たれた城内では餓死者が出た。信長が秀吉に送った黒印状には、その戦況に関する記述がある。家臣への手紙には個々の働きや暮らしへの言葉が残る。同じ時代、秀吉の軍勢に包囲された城では人々が飢えていた。

安土城天主跡の現在の姿。石垣と礎石が残る広い平坦地を緑の木々が囲む
安土城天主跡の現況(2023年撮影)。失われた天主そのものではなく、現存する遺構を写した写真 — Akonnchiroll(2023年撮影) / CC BY-SA 4.0 (unmodified Wikimedia Commons original)

安土に、人と商いを集める

信長は1576年、琵琶湖の東にある安土山で新しい城の建設を始めた。1579年には天主が完成し、信長はそこを居城とした。石垣の上に高く建つ城は、周囲に自分の力を示す建物でもあった。

城を築くだけで、町がにぎわうわけではない。1577年、信長は安土山の下にできる町へ十三か条の掟を出した。第一条では町を楽市とし、従来の商業組織である座の特権を廃止し、町の人々へのさまざまな課役を免じた。

しかし第二条では、街道を往来する商人に安土で宿を取るよう命じている。馬の売買についても町への集中を定めた。商売をしやすくするための免除と、商人を特定の場所へ集めるための命令が、同じ文書に並んでいた。

信長は課役を免じて商いを呼び込む一方、商人が宿泊する場所や馬を売買する場所も定めた。城を拠点に人と物資を集めるうえで、安土の町は欠かせない場所になっていった。

京都の旧本能寺所在地に立つ『本能寺跡』の石碑と解説板
京都の旧本能寺跡を示す石碑(2019年撮影)。1582年当時の建物が残る写真ではない — Ashlike(2019年撮影) / CC BY-SA 4.0 (unmodified Wikimedia Commons original)

本能寺の最期と、残された城

1582年の春、武田氏は滅び、信長の勢力は大きく広がっていた。家康は安土に迎えられ、信長の家臣たちは北陸や中国地方など各地に向かっていた。

5月29日、信長は京都の本能寺に入った。6月1日には茶会を開く。ところが翌2日、明智光秀の軍勢が本能寺を急襲し、信長はそこで死んだ。長男の信忠も同じ日、京都の二条御新造で命を落とした。

光秀がなぜ反旗を翻したのかについては、さまざまな説明がある。少なくとも、信長が家臣を各地へ動かし、長男へ家督を譲り、安土を拠点とする政治を進めていた時期に、その家臣の一人が主君を討ったことは動かない。

安土城は信長の死後ほどなくして天主と本丸を焼失した。その後、城下町も別の場所へ移され、安土は信長政権の拠点としての役割を失う。一方で、織田の家を継ごうとする者たちは、城や領地をめぐって争い続けた。

信長の姿を伝える肖像にも、死後につくられたものがある。よく知られた長興寺伝来の肖像は、一周忌に納められたと伝わる。本人が生前に築いていた城や町とは別に、残された人々が信長の姿を描き、記憶を伝えていったのである。

安土の高い天主は残らなかった。それでも、城下へ示した十三か条の掟や、田の保有を認めた朱印状、十五歳の武将を賞した短い自筆の手紙は残っている。戦場や城だけでなく、何を命じ、誰の働きを認めたのかも、信長が残した紙の上から読み取れる。

04 / Timeline

時間の輪郭

  1. 15340歳

    尾張の織田信秀の子として生まれる

  2. 1560約25〜26歳

    桶狭間の戦いで今川義元を破る

  3. 1568約33〜34歳

    「天下布武」の朱印状を出し、足利義昭を奉じて上洛する

  4. 1571約36〜37歳

    比叡山延暦寺を焼き討ちする

  5. 1573約38〜39歳

    足利義昭を京都から追放し、浅井長政を攻め滅ぼす

  6. 1575約40〜41歳

    徳川家康とともに長篠の戦いで武田勝頼軍と戦う

  7. 1576約41〜42歳

    近江で安土城の築城を始める

  8. 1577約42〜43歳

    安土城下の掟を出し、長岡与一郎に自筆の感状を送る

  9. 1579約44〜45歳

    安土城の天主が完成する

  10. 1581約46〜47歳

    鳥取城を包囲する秀吉へ黒印状を送る

  11. 1582年6月2日約47〜48歳

    明智光秀の軍勢に襲われ京都・本能寺で死去。同日、長男信忠も亡くなる

05 / Works

主な事業と残された記録

01

古文書・命令 / 1568

「天下布武」の朱印状

藤八の田の保有を認める1568年の朱印状が伝わる。用いた印の言葉は意味の捉え方をめぐり研究がある。

02

城郭・居所 / 1576

安土城

1576年着工、1579年天主完成。政治と居住の拠点となったが、信長死後ほどなく焼失した。

03

都市の規則 / 1577

安土山下町中掟書

13か条の中で座の特権を廃止し課役を免じる一方、通行商人の寄宿や馬の取引なども定めた。

04

自筆書状・感状 / 1577

長岡与一郎宛自筆書状

片岡城攻めの功を立てた少年に、働きを認め引き続き励むよう伝えた短い自筆の書状。

06 / Conditions

織田信長の人生をつくったもの

  • 01

    家臣へ送った手紙

    少年の軍功を自筆で賞し、秀吉の妻には私的な消息を送った。人を動かす言葉が異なる形で残る。

  • 02

    将軍との協働と対立

    足利義昭を奉じて京へ入り、数年後には追放した。信長の権力は既存の秩序との関係の中で変わった。

  • 03

    戦争と身内

    妹の婚家浅井氏との戦争、寺院や城を巻き込む攻撃は、支配の拡大が人に与えた犠牲も伝える。

  • 04

    安土に集める

    市場を開く一方で商人の寄宿を命じた城下町の掟と、壮大な城の建設が並んだ。

07 / Read more

もっと知る

本、一次資料、アーカイブ、場所へ。ここから先は、その人を自分でたどるための入口です。

このセクションにはアフィリエイトリンクが含まれます。リンク経由の購入等により、当サイトが紹介料を受け取る場合があります。詳しく見る

Book / Further reading

『明日の君は、どこにいる?』書影

この図書館の背景にある本

『明日の君は、どこにいる?』

「自分の人生、このままでいいのか?」。この本は、その答えを教える本ではありません。先人たちの迷いや選択をたどりながら、自分ならどう生きるかを考えていく物語です。

本について詳しく見る