一人の人生を読む
一枚のパピルスに残った女王の仕事
紀元前33年頃、エジプトで一人のローマ人に交易と税の特権を認める文書が作られた。現存するパピルスには、毎年輸出できる穀物の量、持ち込めるワインの量、土地にかかる税の免除などが細かく書かれている。名前が記されているのは、エジプト女王クレオパトラ7世(Cleopatra VII Philopator)と、その息子カエサリオンだった。
ベルリンに保存されたこの文書は、後世の物語に登場する豪華な船や宴会とはずいぶん違う。そこにあるのは、誰に何を認め、どの負担を免除するかという国の仕事だ。受益者の名前には研究上の読みの違いがあり、末尾の短い承認語を女王自身が書いたかどうかも確定していない。それでも、クレオパトラの王権のもとで具体的な経済上の取り決めがなされたことは、この紙片から確かめられる。
彼女はこのとき、三十代半ばだった。王位を奪われた経験があり、ローマの有力者との間に子どもをもうけ、再びエジプトの支配を固めていた。数年後、王国は失われる。その最後の時期にさえ、こうした細かな仕事が続いていたのである。
王の娘が王位を失うまで
クレオパトラが生まれた紀元前69年頃、エジプトを治めていたのはプトレマイオス朝だった。アレクサンドロス大王の死後に成立したギリシア系の王朝で、クレオパトラの父はプトレマイオス12世(Ptolemy XII)という。彼女の母が誰であったかについては、現在も見解が分かれている。
父の治世は安定していなかった。ローマの軍事力と政治的な承認は、すでにエジプト王家の運命を大きく左右していた。前58年に父王が権力を追われると、アレクサンドリアでは王位が争われ、姉のベレニケ4世が王座に就く。父がローマの軍事支援を受けて帰還したのは前55年で、王位をめぐる争いは家族の内部で血を流す結果にもなった。
若いクレオパトラが、この間の出来事をどう受け止めたかを直接伝える記録は乏しい。ただ、王位が家の中で平穏に受け継がれるものではなかったことは明らかだ。父は前52年頃、彼女を共同統治者に迎える。前51年に父が死ぬと、彼女は弟プトレマイオス13世とともに王位を継いだ。十代の終わりだった。
共同統治は協力の保証にはならなかった。宮廷では両者の勢力が争い、クレオパトラはやがてエジプトの政治の中心から追われた。弟側を退けて王位に戻るには、国内だけでなく、ローマの内戦がつくる新しい状況にも向き合わなければならなかった。
カエサルが去ったあと、息子と治める
前48年、ローマの内戦で勝利を重ねたガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Julius Caesar)がエジプトに到着した。アレクサンドリアの王位争いは、ローマの指導者を巻き込む戦いになった。クレオパトラはカエサルとの関係を築き、軍事的な介入を経て王権を回復する。弟13世はこの戦いのなかで命を落とし、女王は別の弟14世と共同統治することになった。
クレオパトラとカエサルは政治的な協力者となり、親密な関係も結んだ。彼女にはプトレマイオス15世、通称カエサリオン(Caesarion)という息子が生まれる。男児の名にはカエサルとのつながりが示されていた。こうした家族関係は私事に閉じず、王位の将来をめぐる政治そのものになっていく。
前44年にカエサルがローマで暗殺され、その後まもなく弟14世も死去すると、クレオパトラは幼いカエサリオンと共同統治を始めた。実際に統治の責任を担うのは母親だった。彼女はローマの支援者を失いながら、父と弟の時代を生き延びた王朝を、今度は息子へつなごうとした。
その姿はエジプトの神殿にも残っている。デンデラ神殿の浮彫には、クレオパトラとカエサリオンが王族として表されている。女王名義の貨幣には王冠をつけた横顔と称号が刻まれた。神殿の人物像も貨幣の顔も、日常の彼女を写した肖像ではない。しかし、彼女がどのような権威を示してエジプトを治めようとしたかは伝えている。
タルソスへ向かう
カエサルの死後、ローマの権力争いは続いた。東地中海で大きな権限を握ったのがマルクス・アントニウス(Marcus Antonius)である。ローマの軍人たちはエジプトの財力を必要とし、女王にとっても、ローマの誰と関係を結ぶかが王国の存続にかかわっていた。
前41年頃、アントニウスはクレオパトラをキリキア地方のタルソスへ呼び出した。後世の著述家プルタルコスは『アントニウス伝』で、アントニウスに敵対した者への資金援助について釈明を求めるためだった、と記している。呼び出したのはローマ側だが、やって来た女王について、彼は大きな川船で進み、招いた側のアントニウスを逆に自分の食事へ招いたと語る。
プルタルコスの文章には、紫色の帆や華やかな船の飾りまで描かれている。ただし、これは出来事から長い年月を経て書かれた物語であり、船の細部や二人の心の内まで、そのまま確認できるわけではない。それでも、召喚された女王と、東方の軍事力を握る男との会見が、当時の関係の大きな転換点となったことは確かだ。
二人はその後、政治的にも私生活でも深く結ばれた。クレオパトラは双子のアレクサンドロス・ヘリオスとクレオパトラ・セレネ、さらにプトレマイオス・フィラデルフォスをもうける。ここでも子どもの存在は、家族の未来であると同時に、王朝の支配をどう継ぐかという問題につながった。
王国を広げる代わりに引き受けたもの
アントニウスとの協力によって、クレオパトラはエジプトの外へも影響力を広げた。東地中海や西アジアの一部では、ローマの後援によって王朝の領土が拡大する。子どもたちには、そうした地域の王族としての地位が与えられた。かつて父の王位を守るためにローマが必要だったプトレマイオス朝は、彼女のもとで、ローマの力を利用して領域を取り戻すまでになった。
もっとも、ローマから授けられた地域がすべて同じようにエジプトの行政下に置かれたわけではない。女王の構想は、古くから地中海東部を支配した王朝の後継者としての地位と、アントニウスが握るローマの権限とを組み合わせるものだった。
冒頭で紹介したパピルスは、ちょうどこの時期のものだ。そこには、ローマ人がエジプトの穀物を輸出し、ワインを輸入し、一定の税を免れるための特権が記されている。この勅令からは、女王の政権がローマ人の交易やエジプト国内の税を具体的に取り扱っていたことが分かる。ただし、この特権が誰との政治的な結びつきを強めるためのものだったのか、文書だけでは判断できない。
ただし、女王はローマを自由に使える立場にはなかった。アントニウスと、ローマ西方の実力者オクタウィアヌス(Octavian)との対立が深まると、エジプトの王国はその争いから距離を置けなくなる。領土を広げる道を開いた結びつきが、やがて王国を危険にさらす結びつきにもなった。
アクティウムの敗北
前31年、ギリシア西岸のアクティウムで、アントニウスとクレオパトラの艦隊はオクタウィアヌス側に敗れた。古代の著述家たちは、この海戦の途中で女王の船が戦場を離れ、アントニウスが追ったことを語る。だが、その行動を女王の恐怖や裏切りだけで説明することはできない。戦況や撤退の判断をめぐっては、後世の叙述にも解釈の入り込む余地が大きい。
翌前30年、オクタウィアヌスの軍勢はアレクサンドリアへ迫り、エジプトの王権は敗北した。アントニウスは自ら命を絶ち、クレオパトラもその後に死去する。女王が自死したという大筋は伝えられる一方、毒蛇を使ったという有名な話を含め、具体的な方法は確定していない。
彼女は39歳ほどで生涯を閉じた。父の死から二十年余り、王位を追われ、戻り、息子を共同統治者に迎え、領土を広げた王朝はここで終わった。カエサリオンは殺害され、アントニウスとの子どもたちはローマ側に連れて行かれたと伝えられる。エジプトはローマの支配下に入り、クレオパトラが守ろうとした独立した王権は残らなかった。
女王の名で残ったもの
クレオパトラの姿は、長いあいだローマの作家たちの文章から語られてきた。彼らはアントニウスの破滅を説明するなかで、女王の魅惑や贅沢、策謀を印象的に描いた。その記述には貴重な情報がある一方、勝者の側から見た政治と女性観が混じっている。
一方、彼女の時代に作られた記録は、別の姿を伝える。貨幣には女王の横顔と称号があり、神殿には息子とともに王族として示された姿がある。勅令には穀物とワインの量、免税の範囲が記されている。どれも私的な胸の内を教えてくれないが、国を治めるために何を示し、どんな取り決めを行ったかを伝えている。
王位を失ったとき彼女にはローマの力が必要だった。その力を借りて王国を立て直し、領土まで広げた末に、最後は別のローマ人に王国を奪われた。タルソスで何を考えていたのか、敗れた後どのように死を決めたのか、史料が答えないところは残る。
ベルリンに残る小さなパピルスには、女王の名で認められた交易量や免税の範囲が今も読める。そこから彼女の胸の内を知ることはできない。それでも、王国を失う前のクレオパトラが、誰に何を認めるかを決める立場にあったことは、この文書に残っている。




