一人の人生を読む
一冊も書かなかった哲学者
ソクラテス(Socrates)は、古代ギリシアの哲学を代表する名前でありながら、自分では一冊の本も残していない。紀元前469年ごろアテナイに生まれ、紀元前399年に同じ都市で死んだ。その約70年の人生を知るために、私たちは本人ではなく、周囲の人が書いた文章を読むしかない。
最も大きな存在は弟子のプラトンである。クセノポンもソクラテスについて書き、喜劇作家アリストファネスは生前の彼を舞台に登場させた。しかし三人が描く人物像は同じではない。哲学者、道徳教師、奇妙な知識人。そこには記憶、文学、論争、弟子自身の思想が重なっている。
だからソクラテスについては、「実際に彼が何と言ったか」と「プラトンが彼に何を語らせたか」を完全には分離できない。それでも、複数の資料を通して繰り返し現れる特徴がある。自分から完成した答えを配るより、相手に問いを返す人だったことである。
広場で、答えより問いを残す
後世のソクラテス像を特徴づけるのは、対話である。「勇気とは何か」「正義とは何か」「善い人とはどんな人か」。相手が答えると、その言葉が別の場面でも成り立つのか、矛盾しないのかをさらに問う。話し始めたときには分かっているつもりだった人が、最後には自分の説明の難しさに気づく。
この方法は、知識を持っている先生が知らない生徒へ答えを渡す授業とは違う。むしろ、知っていると思っていることを一度ほどく作業に近い。今日「無知の自覚」と呼ばれることの多い姿勢も、単に「私は何も知らない」と卑下することではない。自分が根拠を説明できないところを、分かったふりで埋めないという態度である。
ただし、有名な「無知の知」という短い標語を、そのまま本人の決めぜりふとして扱うのは慎重であるべきだろう。ソクラテス自身の原稿はない。残っているのは、プラトンらが作品のなかで示した、知っていると思い込むことへの執拗な問いである。
政治と戦争の外にはいなかった
ソクラテスは、静かな書斎のなかだけで生きた人物ではない。彼が暮らしたアテナイは、民主政、ペロポネソス戦争、敗戦、寡頭政、民主政復活という激しい変動を経験した。本人にも軍務経験があり、政治制度の緊張は身近なものだった。
プラトンの『ソクラテスの弁明』では、紀元前406年、ソクラテスが公職上の役割にあったとき、アルギヌサイ海戦後の将軍たちを一括して裁こうとする手続に反対したと語られる。また三十人政権の時代には、レオンという人物を拘束する命令への協力を求められたが、従わず帰宅したという。
この二つを、近代的な意味での「民主主義者」や「反権力の英雄」の物語へ簡単に変えることはできない。むしろ見えてくるのは、政体が何であれ、自分が不正だと考えた行為と距離を取ろうとする姿勢である。その姿勢はやがて、本人を裁くことになる民主政との関係でも試される。
紀元前399年の裁判
紀元前399年、詩人メレトスがソクラテスを告発した。中心となったのは、都市が認める神々を敬わないこと、新しい神的なものを持ち込むこと、そして青年を堕落させることだった。アニュトスとリュコンも告発側に加わる。
裁判はアテナイ暦のタルゲリオン月、現在の暦ではおおむね5月から6月にあたる時期に行われたと考えられている。多数の市民陪審員が参加し、裁判はほぼ一日を要した可能性が高い。プラトンの『ソクラテスの弁明』はその場の弁明を文学作品として伝えるが、告発側の演説や証人の全容は残っていない。
ソクラテスは有罪となり、刑罰を決める第二段階でも死刑が選ばれた。ただし、判決の翌日にすぐ処刑されたわけではなかった。アテナイでは、アポロンに捧げる船がデロス島へ航海している間は処刑を行わない慣習があり、その船が戻るまで彼は獄中で待つことになった。
逃げることもできた
処刑が近づいたころ、幼なじみのクリトンはソクラテスに逃亡を勧める。プラトンの『クリトン』が描くところでは、準備は可能だった。しかしソクラテスは逃げない。
ここでも大切なのは、死を恐れない英雄として単純化しないことである。作品のなかで彼が考えるのは、自分が不当な扱いを受けたからといって、こちらも不正によって返してよいのか、という問題だった。法廷で主張した生き方を、判決が気に入らないときだけ捨てることはできるのか。対話はその矛盾を詰めていく。
実際の会話が一語一句この通りだったかは分からない。だが、弟子たちがソクラテスの最期を記憶したとき、「逃げられたのに逃げなかった」という選択は重要な位置を占めた。
『パイドン』が伝える最後の一日
ソクラテスの人生で、短い時間の連続として最も詳しく残された場面の一つが最後の日である。ただし、史料の性格を忘れることはできない。プラトン『パイドン』は、その場にいたパイドンが後に一日を語るという形式をとる。作中ではプラトン自身は病気で不在だったとされる。したがって、以下は現代の速記録ではなく、古代の哲学的対話篇が伝える一日である。
朝、友人たちが獄舎を訪れる。ソクラテスの妻クサンティッペと幼い子もそこにいるが、やがて家へ戻される。友人たちとの対話は、魂や死をめぐって長く続く。処刑を待つ時間なのに、話題の中心は「本人を惜しむこと」だけではなく、主張が本当に成り立つのかを検討することだった。
夕方が近づく前、ソクラテスは沐浴した。死後に家の女性たちが遺体を洗う手間を減らすためだったと『パイドン』は伝える。その後もう一度家族と会い、友人たちのもとへ戻る。やがて役人の使いが来て、毒杯が渡された。彼は毒を飲み、歩き、身体が重くなって横たわる。友人たちはその経過を見守った。
ここには、後世の美しい伝説にしなくても十分に奇妙な強さがある。死ぬ直前まで、議論を自分への賛美へ変えなかったことである。ソクラテスという人物そのものより、いま話していることが正しいかどうかを確かめる。その姿勢を、弟子は最後の一日の形で残した。
弟子たちが、それぞれのソクラテスを書いた
ソクラテスが死んだあと、彼を知っていた人々は文章を書き始めた。プラトンは対話篇の中心人物として彼を登場させ、クセノポンは別の角度から記憶を書いた。さらにアリストテレスの時代になると、ソクラテスは哲学史上の転換点として整理されていく。
その結果、私たちは本人の著作を一行も持たないのに、非常に多くの「ソクラテス」を持つことになった。これは弱点でもあり、面白さでもある。本人の思想と弟子の思想を区別する「ソクラテス問題」が生まれ、研究者は資料の性格そのものを検討しなければならなくなった。
確実な答えが少ない人物である。それでも二千年以上残ったのは、完成した教義を渡したからではない。人は本当に、自分が口にしている正義や勇気や善を説明できるのか。その問いを他人だけでなく、自分にも向け続ける。その厄介な方法が、ソクラテスの名とともに残った。



