一人の人生を読む
紀元前399年、裁判の日に名前が出る
プラトン(Plato)は紀元前428年か427年ごろ、アテナイの有力な家系に生まれたとされる。正確な年や出生地には古代資料の揺れがある。青年期の彼が生きたのは、アテナイが戦争と政変を繰り返す時代だった。その中で大きな存在になったのがソクラテスである。
プラトン自身の若い日の行動を、私たちはほとんど日単位では追えない。しかし紀元前399年のソクラテス裁判には、一つだけ短い場面が残る。もちろん注意が必要である。史料はプラトン自身が後に書いた『ソクラテスの弁明』であり、現代の法廷速記録ではない。その作品の38bで、ソクラテスは有罪判決を受けた後、自分に科す代替刑について話す。
最初に彼が出そうとする罰金は一ミナだった。すると作品の中で、ソクラテスは「ここにいるプラトン」ら四人の友人に触れる。プラトン、クリトン、クリトブロス、アポロドロスが三十ミナを提案するよう勧め、その支払いの保証人になる、というのである。プラトンが法廷のどこに座っていたか、実際にどんな声で話したかは分からない。しかし、危機にある師に対して金銭的な保証を引き受けようとした若いプラトンの行動が、作品の中には具体的に残っている。
提案はソクラテスの命を救わなかった。死刑が選ばれ、のちに刑は執行された。『パイドン』では、ソクラテスの最後の日にプラトンは病気で不在だったとされる。だから、師の死の瞬間を見届けた弟子として場面を作ることはできない。それでも裁判の日の「保証人」という短い記録は、後にソクラテスを何度も作品へ登場させる人物が、思想の継承以前に一人の友人・弟子としてその危機に居合わせたことを示している。
自分の声で教説を書かない
プラトンの著作の大半は対話篇である。人物が集まり、問いを立て、別の人物が答え、反論が起き、話が予想外の方向へ進む。『ソクラテスの弁明』のような例外的な形式を除けば、教科書のように「プラトンはこう考える」と本人が読者へ直接説明することはほとんどない。
これは読み手を困らせる。ソクラテスが話していることを、どこまでプラトン本人の考えとみなしてよいのか。初期と後期で考えは変わったのか。登場人物の主張は、本気なのか、反論されるために置かれているのか。同じ著者の作品でも、読み方は一つに固定できない。
しかし、その不便さこそが形式の力でもある。読者は結論だけを受け取れない。ある主張がなぜ成り立つのか、誰が反対するのか、どこで議論が止まるのかを、自分でも追わなければならない。ソクラテスが口頭で続けた問答を、プラトンは文学の形へ移し替えたとも言える。
アカデメイアは「一日に創立された大学」ではない
プラトンは紀元前390年代から380年代にかけて旅行や研究を重ね、アテナイで後にアカデメイアと呼ばれる知的共同体を形成した。よく「紀元前387年に世界最初の大学を創立した」と説明されるが、これは現代の制度を古代へそのまま投影しやすい言い方である。
アカデメイアは、アカデモスに結びつく聖域・体育施設の周辺で活動した哲学者たちの集まりから発展した。法人設立の日や入学式が一日だけ記録されているわけではない。数学、天文学、哲学、政治などをめぐって長く議論し、研究する関係が徐々に形になったと見るほうが安全である。
紀元前367年ごろには、17歳ほどのアリストテレスがここへ来る。彼はプラトンの死まで約20年をアカデメイアで過ごした。後に両者の考えは大きく分かれていくが、違いが生まれるためにも、まず長く同じ場所で問いを共有した時間があった。
『国家』で、都市と一人の人間を重ねる
プラトンの『国家』は、現代の意味で国家制度だけを論じた本ではない。出発点は「正義とは何か」という問いである。一人の人間の魂では正義が見えにくいなら、より大きな都市を考えてみよう。そうして議論は、教育、役割分担、知識、欲望、政治体制へ広がる。
有名な「哲人王」も、その流れの中にある。政治家に哲学の知が必要だという単純な資格論だけではなく、何を本当に知ると言えるのか、権力を欲しがる人と統治に適した人は同じなのか、教育によって人はどのように変わるのかという問題が重なっている。
洞窟の比喩も同じである。暗い洞窟から外へ出れば真実が見える、という一行の自己啓発的な話ではない。見慣れたものを真実と思っている状態から、痛みを伴って見方を変え、さらに見えたものを共同体の教育と統治へどう戻すのかまでが問題になる。
「イデア」という言葉の外側
プラトンは、目の前で変化する個々のものと、「美そのもの」「正義そのもの」のように、個々の事例を超えて考えられる対象との関係を繰り返し扱った。日本語では一般に「イデア論」と呼ばれる。
ただし、すべての対話篇に一つの完成した教科書的体系が書かれているわけではない。作品によって問いの立て方も異なり、後期の対話では、分類や言語、存在の問題が別の角度から検討される。プラトン自身が一度決めた説明を、ただ反復しているわけではない。
そのため、彼の思想を理解するには用語の一覧より、対話がどの問題に答えようとしているかを見る必要がある。「変わるものについて、変わらない知識は可能なのか」「多数の美しいものを、美しいと言えるのはなぜか」。イデアはそうした問いの中で働く。
シラクサ――哲学を政治へ持ち込む難しさ
プラトンが南イタリアやシチリアへ旅し、シラクサの政治に関わったことは古代資料に強く伝わる。ディオンや僭主ディオニュシオス2世との関係を通して、哲学的教育によって統治者を変えようとした、という物語で知られている。
ただし、ここは史料上もっとも慎重さが必要な部分の一つである。詳しい経緯の重要な根拠となる『第七書簡』は、プラトン本人の手紙かどうかをめぐって現在も議論がある。他の古代資料も一致していない。船に乗る朝や僭主との会話を、確定した一日の場面として再現することはできない。
それでも、この経験が示す問題は興味深い。対話篇の中で正しい政治を考えることと、現実の権力者を教育することは同じではない。制度、利害、友情、権力闘争が絡むと、哲学的に正しいと思うことがそのまま政治の結果になるわけではない。プラトンの政治思想は、机上だけでなく、この失敗を含む距離の中でも読まれてきた。
アリストテレスと同じ場所にいた20年
アリストテレスがアカデメイアへ来たのは、プラトンがすでに60歳前後だったころとされる。若い弟子は約20年間その共同体に残った。後世には「プラトンは理想、アリストテレスは現実」という対比が好まれるが、実際の関係はそんな一行では済まない。
アリストテレスはプラトン的な問題設定を深く受け継ぎながら、形相、知識、自然、政治について別の説明を作った。師への反対は、何も共有していない相手への反対ではない。長く同じ問いを考えたからこそ、どこが違うかを精密に言えるようになった。
紀元前348年か347年ごろ、プラトンは死去した。アカデメイアは甥のスペウシッポスらへ引き継がれ、プラトンの死後も長く続く。彼が残したのは著作だけでなく、問いを共同で扱う場所でもあった。
対話を終わらせない遺産
プラトンの影響はあまりに大きく、後世の教科書では一つの巨大な体系の創始者に見える。しかし本人の著作へ戻ると、そこには断定だけでなく、行き詰まり、反論、冗談、神話、話者の交代がある。
その形式は、読者にある種の不自由を残す。「正解だけ知りたい」という読み方では終われないからである。誰が話しているのか。なぜこの順番で議論しているのか。反対意見は本当に退けられたのか。読者まで対話の外に立っていられない。
裁判の日に、師の罰金の保証人として作品の中に名を残した若者は、のちにその師を何度も対話篇の中心へ置いた。そして、人が集まって考え続ける共同体をつくった。結論だけでなく、考える過程そのものを残したことが、プラトンの長い影響の一部である。




