一人の人生を読む
1431年、フランス北部のルーアンで、ひとりの若い女性が裁判官たちの質問に答えていた。彼女の名はジャンヌ。前年まで戦場を移動し、旗を掲げて兵士たちと行動していたが、今は捕虜となり、信仰について詳しく調べられている。年齢を尋ねられると、自分では19歳くらいだと思う、と答えた。
ある審問で、彼女は自分が神の恩寵、つまり神の恵みを受けている状態にあると思うかと問われた。肯定しても否定しても、宗教的に問題のある答えになりかねない質問だった。ジャンヌは、もしそうでなければ神がそこへ導いてくださるように、そうであればそのまま守ってくださるように、と答えたと記録されている。彼女の言葉が現在まで残ったのは、彼女を裁くために作られた記録によってである。
母に教わった祈り
ジャンヌは1412年ごろ、現在のフランス東部にあるドンレミという村の農民の家に生まれた。父はジャック、母はイザベル。村での幼少期についてわかることの多くは、後にジャンヌ自身が裁判で答えた内容や、周囲の人々の証言に頼っている。
ジャンヌは法廷で、母から祈りを教わり、裁縫や糸紡ぎをしていたと語っている。戦場へ向かう前の彼女には、家の仕事を覚え、村で祈る日々があった。その暮らしから、彼女はやがて村の外へ出ていくことになる。
とはいえ、村は戦争と無縁ではない。当時、フランスの王位をめぐってイングランド王家とフランスの王太子シャルルが争い、フランス国内でもブルゴーニュ派などが別の側についていた。遠方の国同士が向き合っているだけの戦争ではなく、町や村の帰属も揺れ動く争いだった。ジャンヌ自身も後年、ブルゴーニュ派の兵を恐れ、近隣の町に避難したことがあると語っている。
ジャンヌは13歳ごろから、自分に呼びかける声を聞くようになったと述べている。後の証言では、その声を神に由来するものと受け止め、聖人たちの導きとして理解していた。ジャンヌはその声に従うことを自分の使命と考え、やがて村を離れ、王太子に会おうとする。
王に会うための道
1428年、ジャンヌはヴォークルールという町で、守備隊長ロベール・ド・ボードリクールに助力を求めた。会いたかった相手は王太子シャルルである。シャルルはフランスの王となる立場を主張していたが、イングランド側に支持された王位継承の取り決めによって、その正統性をめぐる争いの中にいた。ジャンヌは彼を助ける使命があると信じていた。
守備隊長は最初から彼女の願いを聞き入れたわけではない。村から来た十代の女性が、王太子のもとへ送ってほしいと頼むのである。ジャンヌは退けられてもあきらめず、再び働きかけた。1429年初め、ようやく護衛を伴って出発することができた。
彼女には、親が取り決めたとされる結婚をめぐって争った経験もあった。王太子への旅だけでなく、自分の結婚についても周囲の意向と向き合っていた。
ジャンヌはシャルルの滞在するシノンへ到着し、その後、ポワティエで聖職者による審査を受けた。彼女が声を聞いたと語るだけで、軍を動かせるわけではない。王太子の側にも、戦況を変えたい事情があった。彼女の信念が王権側の判断と結びついたとき、村を出た少女は、兵士たちと行動する立場になった。
旗を持つ人
1429年春、イングランド側の軍に包囲されていたオルレアンは、シャルルの側にとって重大な戦場だった。ジャンヌは4月末に町へ入り、将兵たちとともに戦いの場に立った。彼女が掲げた旗は、ほどなくパリへ届いた戦況の知らせにも登場する。
5月8日、オルレアンを囲んでいた軍は撤退し、包囲が解かれた。将兵たちの戦いによって得られた勝利だった。ジャンヌも戦場に立ち、旗を掲げていた。包囲解除の知らせが広がると、彼女の名も遠くの人々に知られていった。
その知らせをパリで記した書記官のひとりは、記録簿の余白に旗を持つ若い女性の姿まで描いている。けれども彼は彼女を直接見たことがなかった。世に広まり始めた姿は、すでに人々の想像を伴っていた。
ロワール地方で勝利が続いた後、シャルルはランスへ向かった。ランスは歴代のフランス王が戴冠してきた場所である。同年7月、シャルルはそこで王冠を受け、シャルル7世となった。ジャンヌが望んだ出来事のひとつが実現したが、王が戴冠したことと、戦争が終わることは別だった。
王の道と、彼女の道
その後のジャンヌの歩みは、オルレアンでの勝利の繰り返しにはならなかった。1429年9月、パリへの攻撃は失敗し、彼女自身も負傷する。勢いのあった進軍は足を止め、シャルルの側では交渉や休戦を選ぶ動きが強まった。
王にとっては、戴冠した後の領土や諸勢力との関係を考えなければならない。一方、ジャンヌはなお敵の支配下にある地域を取り戻そうとした。王の側が交渉へ向かうなか、彼女の求める戦いがすべて認められたわけではなかった。
翌1430年5月、ジャンヌはコンピエーニュ付近でブルゴーニュ派の軍勢に捕らえられた。ブルゴーニュ派は当時イングランド側と結んでいた。やがてジャンヌの身柄はイングランド側へ渡され、ルーアンで宗教裁判を受けることになった。
捕虜であった間にも、ジャンヌは逃れようとした。ボールヴォワールの塔から飛び降りたことを、後の審問で問われている。彼女は絶望して死のうとしたのではなく、脱出して助けに向かいたかったのだと説明した。法廷が記録したのは、出来事だけでなく、その行為を彼女自身がどのように弁明したかでもあった。
牢獄で問われた服と信仰
1431年、ルーアンで始まった審問では、彼女の聞いたという声、宗教上の教えへの服従、着ていた服などが繰り返し問題にされた。ジャンヌが男性の服を着ていたことは、とりわけ重大な争点になった。彼女は軍にいた頃から男性服を着ており、裁判の時には男性たちのいる牢獄で拘束されていた。
彼女はミサに出たいという希望も口にしていた。裁判の記録には、女性の服を着ることが礼拝への参加と結びつけて問われる場面がある。何を着るか、どこへ行けるか、どのように祈れるかという、日々の身体と信仰に関わる事柄が、捕虜となった彼女には自由に決められなくなっていた。
冒頭の恩寵をめぐる問いも、ここで交わされた。軍の前では旗を掲げていたジャンヌは、今度は裁判官が決めた問いに答えなければならない。彼女は聞いたという声への理解を語り、服装と礼拝をめぐっても希望を伝えた。
書記官たちが質疑を記録し、後に調書としてまとめたため、その応答は今に伝わる。残されたのは裁く側が作った記録だが、そこにはジャンヌが何を問われ、どう答えたかが記されている。
5月24日、ジャンヌは宗教上の誤りを認める文書に署名したと裁判記録にある。いったん終身の拘禁が言い渡された。しかし5月28日の審問で、彼女は再び男性の服を着ていた。ミサに出られることや鎖を外すことについて、約束が守られなかったとも語った。裁判所は彼女が異端に戻ったと判断した。1431年5月30日、ジャンヌはルーアンで火刑に処された。19歳ほどだった。シャルルが戴冠してから、二年も経っていなかった。
母が求めた、もう一度の裁判
ジャンヌの死で、彼女をめぐる判断が定まったわけではなかった。母イザベルらの働きかけを受け、先の裁判を検討し直す動きが進み、1455年に正式な再審理が始まる。翌1456年7月7日、1431年の有罪判決は無効とされた。娘を失ってから長い年月が過ぎていた。
さらに時代が下ると、ジャンヌはフランスの歴史を象徴する人物として語られ、カトリック教会では1920年に聖人とされた。絵画や彫像にも、旗を持つ若い女性の姿が繰り返し登場する。その多くは、実際の容貌を知る人が描いたものではない。
ドンレミの家で裁縫や祈りを学んだ少女と、国王の戴冠に立ち会った若い女性と、牢獄で服装や信仰について答えた捕虜は、同じひとりの人間だった。母が後に求めた判決の見直しも、彼女の命を取り戻すことはできなかった。残された裁判の記録には、軍事的な勝利だけでは言い表せない、十九年ほどの生活と選択の跡がある。




