一人の人生を読む
17歳、アテナイへ行く
アリストテレス(Aristotle)は紀元前384年、ギリシア北部のスタゲイラに生まれた。父ニコマコスはマケドニア王家につながる医師だったと古代の伝承は伝える。だからといって、のちの生物学的な関心を父の職業だけで説明することはできない。確かなのは、彼が若くして故郷を離れ、当時の知的中心の一つだったアテナイへ向かったことである。
およそ17歳のころ、アリストテレスはプラトン(Plato)が率いるアカデメイアに入った。そこで過ごした期間は約20年に及ぶ。短期の弟子ではない。人生の三分の一近くを、同じ研究共同体のなかで学び、議論し、教えながら過ごしたことになる。
アカデメイアでは数学、哲学、政治、自然についての議論が行われていた。若いアリストテレスも、プラトンが立てた「本当に存在するものとは何か」「よく生きるとは何か」という問いの圏内で成長した。ただし、長く同じ場所にいたことは、同じ答えを選び続けたという意味ではない。
20年いた学校を離れる
紀元前347年、プラトンが死去する。アリストテレスはその後、アテナイを離れ、小アジアのアッソスへ移った。なぜ離れたのかについては、後世さまざまな説明が付け加えられてきた。後継者選びへの不満だけで説明するのは単純すぎる。アテナイにおけるマケドニアへの警戒や、彼自身がアテナイ市民ではなかったことも背景にある。
重要なのは、約20年を過ごした学園を出たあと、研究の場所も方法も変わっていったことである。アッソスを経てレスボス島へ移り、テオプラストスとともに生き物を観察した。魚、軟体動物、繁殖、器官の違い。アリストテレスの著作には、抽象的な原理だけでなく、個々の生物を見分け、特徴を記録しようとする姿勢が残っている。
後世から見ると「哲学者」と「生物学者」は別の職業に見える。しかし彼にとっては、どちらも同じ問いの延長にあった。ものは何でできているのか。なぜ変化するのか。何が同じで、何が違うのか。世界を理解するには、概念を考えることと、目の前の対象を見ることの両方が必要だった。
王子アレクサンドロスとの接点
その後アリストテレスはマケドニアへ戻り、フィリッポス2世の息子、のちのアレクサンドロス大王(Alexander the Great)の教育に関与したとされる。この関係は有名だが、実際にどのような授業を何日行い、何を教え、それがアレクサンドロスの政治判断にどれほど影響したのかは、確実には分からない。
「世界を征服した王をつくった哲学者」という物語は魅力的だが、その形に人生を整理すると証拠より物語が先に立つ。確認できるのは、アリストテレスがマケドニア王家と近い位置にいたこと、そしてこの結びつきが後にアテナイで政治的な弱点にもなったことである。
知識人は制度の外から世界を眺めているわけではない。誰に保護され、どこで教え、どの都市の政治状況のなかで暮らすかによって、研究できる条件そのものが変わる。アリストテレスの生涯には、その事実が何度も現れる。
リュケイオンという研究共同体
紀元前335年ごろ、アリストテレスは再びアテナイへ戻った。今度はプラトンの学園へ戻るのではなく、リュケイオンと呼ばれる公共の体育施設を拠点に、自分の研究・教育共同体を形成する。
ここで扱われた領域は驚くほど広い。論理学、自然学、生物学、心理学、倫理学、政治学、修辞学、詩論、天文学、そしてそれ以前の思想家たちの議論。後世「アリストテレス体系」と呼ばれるものは、一人が机に向かって完成させた閉じた百科事典というより、研究共同体のなかで資料を集め、分類し、議論し続けた蓄積として見るほうが近い。
彼の一派が「逍遥学派」と呼ばれたことから、歩きながら講義した哲学者という像も広まった。ただし、毎日の講義の光景をそのまま再現できるほど史料は細かくない。名称の由来には、リュケイオンにあった回廊や歩廊との関係も考えられている。
幸福を「気分」ではなく「活動」として考える
『ニコマコス倫理学』でアリストテレスが考えた中心問題の一つは、人間にとっての善である。そこで使われるエウダイモニアという語は、日本語ではしばしば「幸福」と訳される。ただし、今日の「幸せな気分」と同じではない。
彼が問題にしたのは、一生を通して人間としてよく生きるとはどういうことか、という問いだった。財産、名誉、快楽のどれか一つを持てば終わるのではなく、徳にかなった活動を実際に続けることが必要になる。勇気や節制も、生まれた瞬間から固定された性質というより、行為を重ねるなかで形成される。
そのため倫理学は、正しい答えを暗記する科目ではない。どう判断し、どう行動するかを繰り返し身につける実践の問題になる。彼が政治や教育を倫理と切り離さなかった理由もここにある。人は一人だけで生活を完成できず、習慣や制度を含む共同体のなかで生きるからである。
世界を分けることで、つなぎ直す
アリストテレスの著作を読むと、区別の多さに驚かされる。原因をいくつかに分ける。生き物を特徴によって比べる。政体を分類する。詩の種類を分ける。論証の形を整理する。
これは単に「何でも分類した人」ということではない。違うものを違うまま扱わなければ、何が原因で何が結果なのかを考えられないからである。一方で、分類したあとには、それぞれがどう関係しているかを問い直す。自然学と形而上学、倫理と政治、身体と魂。分野は分かれていても、彼の問いは何度も境界をまたぐ。
現在の学問分野から振り返ると、アリストテレスの説明の多くは修正されている。自然科学では誤りも少なくない。それでも、観察し、区別し、先行説を比較し、原因を問うという方法は、その後の知の組み立て方に非常に長い影響を残した。
紀元前323年、もう一度アテナイを離れる
アリストテレスがリュケイオンで活動を続けていた紀元前323年、アレクサンドロス大王が死去した。アテナイでは反マケドニア感情が強まる。マケドニア王家と関係の深かったアリストテレスにとって、政治状況は急速に危険になった。
彼はアテナイを離れ、エウボイア島のカルキスへ移る。後世には「アテナイに哲学への罪を二度犯させないため」と語ったという有名な逸話が残るが、逐語的な本人発言としては安全に扱えない。確認できるのは、政治状況が変わった年に都市を離れ、翌紀元前322年にカルキスで死去したということである。
若いころにアテナイへ来て20年学び、いったん離れ、再び戻って自分の学園をつくり、最後にはまた都市を去る。知識だけを並べれば、アリストテレスは巨大な「体系」の名前になる。しかしその体系を作った人間の生活は、移動、保護者、都市の政治、共同研究者と切り離せなかった。
「完成した答え」ではなく、問い方が残った
現在残るアリストテレスの著作は、彼が現代の本のような形で出版した完成原稿ばかりではない。講義や研究のための資料が後世に編集されたと考えられるものも多く、同じ著作の内部に議論の重なりや不均衡がある。
それでも二千年以上読まれてきたのは、答えがすべて正しかったからではない。まず対象をよく見る。言葉を区別する。先行する意見を確かめる。何が原因なのかを分ける。そして、人間の行為を個人の気持ちだけでなく、習慣や制度まで含めて考える。
プラトンの弟子として始まった人物は、師を離れることで師を捨てたのではなかった。同じ問いを、別の方法で続けた。その積み重ねが、哲学だけでなく、後の学問の輪郭そのものへ広がっていった。



