一人の人生を読む
ウィーンを出て、アメリカへ行く
ルドルフ・シンドラーは1887年、ウィーンに生まれた。工科系の学校と美術アカデミーで建築を学び、オットー・ワーグナーやアドルフ・ロースの思想に触れた。さらに出版物でフランク・ロイド・ライトの仕事を知り、1914年、26歳でアメリカへ渡る。
ライトの事務所に入れたのは1918年だった。1920年にはホリーホック・ハウスの建設監理のためロサンゼルスへ送られる。西海岸の気候と土地に触れたシンドラーは、南カリフォルニアに自分の拠点をつくろうと考えるようになった。
そのころ、彼の生活には妻ポーリーン・ギブリングがいた。二人は1919年に結婚している。ポーリーンは芸術や音楽、社会思想に強い関心を持ち、新しい共同生活のあり方にも積極的だった。
ポーリーンとチェイス夫妻と、共同生活の家をつくる
1921年から22年にかけて、シンドラー夫妻は友人のクライド・チェイス夫妻と一緒に暮らす家をキングス・ロードに計画した。四人それぞれに個室を持たせ、キッチンを共有し、庭とパティオを生活の中心に置く。屋上には屋外就寝スペースまで設けた。
完成後、ルドルフとポーリーンは芸術家、音楽家、詩人、作家らを家に招き、キングス・ロードを文化的な交流の場にしていった。後年の研究でも、ポーリーンはこの家の社会的な性格を形づくった人物として位置づけられている。
1922年には息子マークも生まれた。家は設計事務所であり、サロンであり、子育ての場所でもあった。「新しい建築」と「新しい生活」は同じ場所で試されていた。
1922年4月22日、コンクリート板が起きない
家の建設は理想どおりには進まなかった。シンドラーは現場でコンクリート板を打ち、それを起こして壁にする工法を試していた。
1922年4月22日、彼はポーリーンへの手紙で、何枚かの板がうまく起きず、楔を使う必要が生じたことを報告した。その日、現場を見に来た大工二人も仕事を引き受けずに去ったという。
後から見ればこの家は近代住宅史の重要作である。しかし当時は、施工法がうまくいくか分からない現場だった。材料が動かず、職人が帰り、予定どおりにならない時間も、新しい工法を試す仕事の一部だった。
共同生活の家に、ノイトラ一家も入る
1920年代半ば、ウィーン時代からの旧友リチャード・ノイトラが妻ディオーネや子どもたちとキングス・ロードへ入った。二人の建築家は同じ場所で暮らし、働いた。
後年の記録には、台所の使い方のような日常の摩擦から、仕事や建築観をめぐる競争までが残っている。友情、協働、競争、家族同士の共同生活が同じ場所に重なり、関係は次第に悪化した。1930年、ノイトラ一家は家を出た。
二人の関係はその後長く疎遠になる。近い生活と仕事の距離そのものが、関係を壊す一因になった。
共同生活を考えた夫婦は、別居する
それより前の1927年、ルドルフとポーリーンの結婚生活も崩れていた。ポーリーンは息子マークを連れてキングス・ロードを離れた。
別居後も、ポーリーンは独自の芸術・音楽の人間関係を広げ、1930年代には作曲家ジョン・ケージとも親密な関係を持ったことが伝記資料に残っている。キングス・ロードの文化的生活を形づくったポーリーン自身にも、ルドルフとは別の仕事、人間関係、生活が続いていた。
1938年、二人は正式に離婚した。それでもポーリーンはキングス・ロードへ戻った。
離婚した二人が、同じ家の別々の側で暮らす
離婚後、ルドルフとポーリーンは家を分けて住んだ。息子マークの回想では、二人は別々の動線を使い、長い時期には同じ家にいながら主に手紙で意思疎通するほど距離を取っていた。
二組の夫婦が新しい共同生活をするためにつくられた家で、その設計者夫妻が離婚後に互いを避けながら暮らし続けた。
マークは、二人は一緒には暮らせなかったが、互いへの敬意は残っていたと後年振り返っている。破綻と尊重が同じ関係の中に残った。
家そのものも、子どもにとって「名作」ではなかった。マークは、冷暖房の乏しい家で、夏には屋根へ水をまき、冬には暖炉の周りで暖を取ったことを覚えている。建築史上の実験住宅は、そこで育つ子どもにとって、暑さや寒さを含む日常の身体経験でもあった。
高価な実験を続けられなければ、材料を変える
シンドラーは1920年代に、ラヴェル・ビーチ・ハウスなどコンクリートを大胆に使った建築をつくった。
コンクリートによる実験は費用がかかった。1930年代以降、シンドラーは木造下地や左官など、より一般的で安価な材料へ移っていく。高価な実験を続けられない条件の中で、重視する空間をつくる方法そのものを変えていった。
生前の評価は安定しなかった
現在のシンドラーは、ロサンゼルス近代建築の重要人物として知られている。しかし、生前の評価は安定していなかった。1932年のニューヨーク近代美術館の「インターナショナル・スタイル」展から外れ、戦後のケース・スタディ・ハウス計画にも加わらなかった。
1953年、シンドラーは65歳で死去した。その少し前、心臓発作から回復中だったノイトラが、末期のシンドラーと偶然同じ病室になったという家族の回想が残る。長く疎遠だった二人がドイツ語で話し、笑っていたと家族は後に語った。
競争や断絶を抱えた二人の関係の最後に、同じ病室で言葉を交わした時間があった。
シンドラーの生涯には、新しい共同生活を考えた若い夫婦がいて、その結婚は壊れた。親しい友人と家も仕事も共有し、その関係も壊れた。経済的に続かない工法があれば材料を変えた。生前には建築史の中心から外されることもあった。
キングス・ロードの家では、離婚したポーリーンがルドルフの死まで別の側に住み続けた。新しい暮らしをつくろうとした建物は、人間関係が変わったあとも二人の生活を受け止め続けた。




