一人の人生を読む
戦争で止まった渡米と、スイスで出会った18歳の女性
リチャード・ノイトラは1892年、ウィーンに生まれた。建築を学び、オットー・ワーグナーやアドルフ・ロースの影響を受け、若いころからアメリカへ渡ることを考えていた。だが第一次世界大戦がその計画を止めた。
戦後、仕事が安定しないヨーロッパを転々とする中で、1919年、療養先のチューリヒ湖畔で18歳のディオーネ・ニーダーマンと出会った。ノイトラは27歳だった。ディオーネの家族と食事をするようになり、二人は親しくなった。
ノイトラの仕事は不安定で、戦後の状況も厳しかった。二人が結婚したのは1922年末だった。
翌1923年、ノイトラはアメリカへ渡る。ディオーネもその人生に入っていくことになる。
妻は、夫の「抑うつの時期」を手紙に書いていた
1923年のディオーネの手紙には、彼女がリチャードの「抑うつの時期」や職業上の浮き沈みに、自分が耐えられるかを考えていたことが残っている。
同時に、自分自身についても不安を書いている。妻になり、相談役になり、家事や育児に追われることで、自分の音楽や人生を失ってしまわないか。ディオーネは後に三人の息子、フランク・ノイトラ、ディオン、レイモンドを育てる一方、音楽を続け、リチャードのエグゼクティブ・アシスタントとして出版や人間関係、膨大な書簡の整理にも関わった。
フランク・ノイトラには自閉症があった。ディオンは建築家になり、後年父と協働する。レイモンドは医師・研究者の道へ進んだ。
ノイトラの実務は、ディオーネの事務所労働と家族生活の上にも成り立っていた。
シンドラーの家で、二つの家族が暮らす
アメリカへ渡ったノイトラは、フランク・ロイド・ライトのもとで短期間働いた後、ロサンゼルスへ向かった。そこにはウィーン時代からの旧友ルドルフ・シンドラーがいた。
ノイトラ一家は、シンドラー夫妻のキングス・ロードの家へ入った。二つの家族が同じ住宅で暮らし、二人の建築家は同じ小さな仕事場で働いた。
家事の分担、台所の使い方、仕事の取り方、建築観、評価の差。日常と職業上の競争が同じ家の中に重なった。1930年、ノイトラ一家はキングス・ロードを離れる。その後、二人の関係は長く疎遠になった。
友情と競争が、同じ共同生活の中で続いていた。
国際的評価を得ても、自宅は借家だった
1929年、ノイトラはラヴェル・ヘルス・ハウスを完成させる。鉄骨、ガラス、吹付けコンクリートを使った住宅は、彼の名を国際的に知らしめた。
だが、そのころのノイトラ自身は自宅を所有していなかった。
ヨーロッパ旅行中、面識のなかったオランダの実業家ケース・ファン・デル・レーウから電報が届き、二人は会うことになる。後年のノイトラの回想では、ファン・デル・レーウがロサンゼルスを訪れた際、建築を案内した一日の終わりに、ノイトラが借家暮らしだと知ったことから、自邸建設資金を低利で貸す話へ進んだ。
世界的に知られ始めた建築家が、自分の家を建てる資金を支援者から借りた。1932年、その融資によってファン・デル・レーウ研究住宅が建つ。
ファン・デル・レーウ研究住宅は、研究施設である前に家族の家だった
シルヴァーレイクに建てたファン・デル・レーウ研究住宅(VDL)は、自邸であり、事務所であり、建築の実験場だった。家族はそこで暮らし、リチャードは設計をし、ディオーネは生活と仕事の両方を支えた。
ノイトラは光、風、植栽、眺望、身体への刺激を住宅設計の条件として扱った。その思想は後年「人間と環境」の関係として理論化されていく。この家では建築理論だけでなく、夫婦、子ども、事務所スタッフ、訪問者の生活が同時に動いていた。
有名になっても、すべての計画が実現したわけではない
ノイトラの仕事は住宅だけではなかった。学校、集合住宅、低コスト住宅、戦時労働者住宅にも関わった。1949年には『タイム』誌の表紙にも登場し、近代建築家として大きな名声を得た。
ロサンゼルスの大規模公共住宅計画「エリシアン・パーク・ハイツ」は、政治的対立の中で実現しなかった。住宅で国際的評価を得た時期にも、都市や公共住宅へ広げようとして届かなかった仕事が残った。
1963年、自宅が焼ける
1963年3月21日の深夜、ファン・デル・レーウ研究住宅は火災に見舞われた。リチャードとディオーネは中西部へ出かけており、息子ディオンが現場へ駆けつけ、図面や資料の救出に関わった。
一週間ほどして帰宅したリチャードは71歳だった。ファン・デル・レーウ研究住宅の公式記録では、当初、再建は無理だと考えていたという。しかし家族で話し合い、建築基準との調整を重ね、ディオンの働きもあって再建する方向へ進んだ。
老年のノイトラが失った自邸を、息子世代が実務の中心へ入りながら再建していった。家族と仕事の関係もそこで変わった。
息子と組む父、長く疎遠だった友人
1965年、ノイトラは息子ディオンと正式にパートナーシップを組んだ。若いころに家族と事務所が重なっていた生活は、晩年には父子の共同実務という形にもなった。
一方、シンドラーとの関係には別の時間が流れていた。1953年、心臓発作から回復中だったノイトラが入院していた病院で、末期のシンドラーと偶然同じ病室になったという家族の回想が残る。長く疎遠だった二人がドイツ語で話し、笑っていたと家族は語っている。
競争と断絶を抱えた二人の関係の最後に、同じ病室で言葉を交わした時間があった。
白い住宅だけでは終わらない
1970年、ノイトラはヨーロッパ滞在中のヴッパータールで78歳で死去した。ディオーネとの結婚は48年に及んだ。
ノイトラの写真集には、白い壁、大きなガラス、風景へ開く住宅が並ぶ。その建築の背後には、戦争で遅れた移住、夫の抑うつ期を書き留めた妻、自分を失うことを恐れながら家庭と事務所を支えたディオーネ、三人の息子、友人シンドラーとの共同生活と決裂、借家暮らし、実現しなかった公共住宅、自邸火災、父子での再建と共同実務があった。
ノイトラは人間と環境の関係を建築で考えた。彼自身と家族の生活もまた、不安定さや衝突を抱えながら、その環境の中で続いていた。




