一人の人生を読む
68歳、客が来るまでの数時間で落水荘を描いた、と徒弟たちは語った
1935年、フランク・ロイド・ライトは68歳だった。いまでは20世紀を代表する建築家の一人だが、当時の彼は、すでに重要な仕事を成し遂げた一方で、「時代が過ぎた巨匠」と見られかけてもいた。大きな実作は以前ほど多くない。ところが、この年に始まった一つの住宅が、その見方を変えていく。
ペンシルベニア州の百貨店経営者エドガー・カウフマンの別荘、のちの落水荘である。落水荘の公式資料が紹介する複数のタリアセンの徒弟の回想によれば、カウフマンが設計の進み具合を見に突然タリアセンへ来ることになり、ライトはその到着前の数時間で平面図、透視図、断面図を一気に描いたという。後世に語られた回想なので、机の上で何分考え、何を口にしたかまでは分からない。ただ、最初の図面が完成形にかなり近かったことは、ライトの長い蓄積を象徴する逸話として残っている。
落水荘に至るまでに、ライトは家族と暮らした住宅を20年間改造し続け、サリヴァンとの決裂、家族を置いての渡欧、二度のタリアセンの火災、日本での長期滞在、仕事が減った60代を経験していた。落水荘が現れたのは、そうした長い試行錯誤を重ねた68歳のときだった。
大学を卒業せず、サリヴァンの仕事場で建築家になる
ライトは1867年6月8日、ウィスコンシン州リッチランド・センターに生まれた。父ウィリアム・キャリー・ライトは牧師で音楽家、母アンナ・ロイド・ジョーンズは教師だった。父の仕事に伴って幼少期は各地を移り、1878年にマディソンへ落ち着く。1885年、18歳のころに両親が離婚すると、もともと楽ではなかった家計はいっそう厳しくなった。
ライトはウィスコンシン大学の工学部長のもとで働きながら大学でも学んだが、学位を取る道には残らなかった。1887年、20歳でシカゴへ出る。いくつかの事務所を経て、アドラー&サリヴァンに入り、ルイス・サリヴァンの直接の部下として約6年間働いた。
22歳の1889年、キャサリン・リー・トービンと結婚する。同じ年、サリヴァンとの契約と資金援助を背景に、シカゴ郊外オークパークへ自邸を建てた。夫妻には6人の子どもが生まれる。ライトはこの家を完成品として扱わず、部屋をつなぎ、子どものための空間を足し、のちには隣接するスタジオまで増築した。若い建築家にとって、最初の大きな実験対象は依頼主の邸宅ではなく、自分の家族が毎日使う家だった。
ただし、その実験生活には金がかかった。契約中にも個人で住宅の依頼を受けたため、1893年にサリヴァンとの関係が破綻する。ライトが辞めたのか解雇されたのかは資料でも決着していない。確かなのは、26歳で後ろ盾のある大事務所を離れ、自分の名前で仕事を始めたことだった。
オークパークの仕事場から、プレーリー建築が生まれた
1898年、ライトは自邸にスタジオを増築した。ここから1909年までの約11年間は非常に生産的で、フランク・ロイド・ライト・トラストによれば、生涯の仕事の3分の1以上がこの場所で生み出されたという。
スタジオには、マリオン・マホニー、ウォルター・バーリー・グリフィン、ウィリアム・ドラモンドら、専門教育を受けた建築家や製図者が集まっていた。後世には「ライトの作品」と一つの名前で呼ばれる建物も、実際にはこうした事務所という制作組織から生まれている。
この時期に育ったプレーリー・スタイルでは、家は小さな部屋を廊下でつないだ箱から変わっていった。低い屋根と長い水平線、深い軒、帯状の窓、暖炉を核に連続する部屋。1908年に設計が始まったロビー邸では、居間と食堂が長い一つの空間としてつながり、壁の代わりに暖炉が緩やかな境界になる。外壁も窓やテラスを通して庭へほどけていく。
1910年前後には、ドイツの出版社ヴァスムートから作品集、いわゆる「ヴァスムート・ポートフォリオ(Wasmuth Portfolio)」が刊行され、ライトの仕事はヨーロッパの建築家にも知られるようになる。だが、国際的な名声が広がり始めた時期に、ライトの家庭生活は大きく崩れていた。
妻と6人の子どもを残し、ママー・ボースウィックと渡欧する
1909年末、42歳のライトはキャサリンと6人の子どもを残し、施主の妻だったママー・ボースウィック・チェイニーとヨーロッパへ渡った。当時として大きなスキャンダルになり、帰国後の二人はシカゴの社交圏から強い反発を受ける。
ママー自身も語学を学び、スウェーデンの思想家エレン・ケイの著作を英訳していた。1912年の『愛と倫理』ではライトとの共訳名義になっているが、ライトがドイツ語を読めなかったため、原文からの翻訳そのものは主にママーが担い、ライトは英語表現に関わったと財団図書館は説明している。
1911年、二人はウィスコンシン州スプリング・グリーン近郊にタリアセンをつくる。住宅であり、設計スタジオであり、農場でもあった。建物は丘の頂上に物体を置くのではなく、丘の斜面と一緒に伸びるように配置された。ここでもライトは「建物」と「その周囲の暮らし」を切り離さなかった。
1914年8月、タリアセンで働いていた使用人が居住部へ火を放ち、逃げる人々を襲った。ママーと彼女の2人の子どもを含む7人が殺された。ライトはその場にいなかった。
その後、ライトは焼けたタリアセンを再建した。さらに1925年には電気火災で居住部が再び焼け、もう一度つくり直す。タリアセンは、生活の変化や事故、仕事に合わせて形を変え続ける場所になった。
日本で、浮世絵を集め、建築をつくる
ライトと日本の関係は、浮世絵収集と建築実務の両方にまたがっていた。19世紀末から日本の木版画に関心を持ち、1905年に初めて来日した。1913年にも日本を訪れ、1917年から1922年にかけては帝国ホテルの設計・監理のため、合計するとほぼ3年を日本で過ごした。建築家であると同時に浮世絵の大規模な収集家・ディーラーでもあり、死去時にも約6000点を所蔵していたと財団は記録している。
浮世絵の平面的な構成、輪郭、余白、自然の切り取り方は、ライトが長く注目した要素だった。プレーリー期の形成には、アメリカの草原、サリヴァンの思想、家族住宅での実験、オークパークの仲間、日本美術など、複数の経験が重なっている。
帝国ホテルは巨大な国家的プロジェクトだった一方、同じ東京でライトはもっと小さな学校も設計している。1921年、羽仁もと子・吉一夫妻が創立した自由学園の校舎、明日館である。帝国ホテルでライトの助手をしていた遠藤新が羽仁夫妻をライトへ紹介した。中央棟と教室棟はライトと遠藤の共同設計として残る。
明日館では予算が限られていた。高価なステンドグラスの代わりに木製の桟を幾何学的に組み、普通のガラスで光の模様をつくった。設計依頼は1921年1月、着工は3月15日。4月15日の最初の入学式は、まだ荒壁が残り、窓ガラスさえ入っていない一室で行われたという。授業をしながら、校舎ができていった。
帝国ホテルではライトと支配人の林愛作が1922年に設計監理から外れ、その後を遠藤新らが引き継いだ。翌1923年9月1日、完成披露の日に関東大震災が起きる。建物は比較的軽い被害で残った。
65歳、仕事が減ったときに「学校と事務所と家」を一つにした
日本から戻った後の1920年代から30年代初頭、ライトはアイデアを失ったわけではないが、建つ仕事は少なく、経済的にも不安定だった。1928年にはオルギヴァンナと結婚する。二人は1932年、タリアセン・フェローシップを始めた。ライトは65歳になっていた。
これは、現在の大学の建築学科とはかなり違う。徒弟とその家族がタリアセンで暮らし、製図だけでなく建設、料理、農作業、庭仕事をし、音楽や美術にも触れる。「住む」「学ぶ」「働く」を分けない教育共同体だった。同時に、それは仕事が少ない時期のライトの事務所と広大なタリアセンを維持する仕組みでもある。教育と労働の境界は、意図的に薄かった。
若い徒弟たちは図面を引き、現場で手を動かし、建物を修繕し、日常生活を支えた。ライトはその中心で強い設計方針を出したが、晩年の作品を生み出す制作環境そのものが集団化していた。
巨大な別荘と5000ドルの家を、ほぼ同じ時期に考える
1936年前後、状況が変わる。落水荘、ウィスコンシン州のジョンソン・ワックス本社、そしてハーバート&キャサリン・ジェイコブス邸。財団自身も「目覚ましい再起」と位置づける時期だった。
落水荘では、森の中の滝を窓から眺めるのではなく、コンクリートの水平板を岩盤と水流の上へ張り出した。自然を飾りとして室内へ持ち込むのではなく、建物の床、岩、音、水、外気を一つの経験にしようとしたのである。
一方、新聞記者ハーバート・ジェイコブスが出した課題は、「5000ドルでまともな家を」というものだった。ライトはここから、のちにユーソニアン(Usonian)と呼ぶ小住宅の考え方を具体化する。地下室や屋根裏、形式的な食堂などを削り、居間・食事・台所をつなぎ、床暖房や造り付け家具、カーポートを組み込む。富裕層の別荘と、普通の家族のための小住宅。晩年のライトは、その両方を同じ時期に扱っていた。
ユネスコはライトの「有機的建築」の特徴として、開かれた平面、内外の境界をぼかすこと、新しい材料と技術、敷地への応答を挙げている。形そのものより、建物と生活環境をどう一体にするかという考え方が評価されている。
70歳、約30人と砂漠へ行き、寝袋から冬の拠点を始める
1937年ごろ、ライトは70歳になっていた。財団の記録によれば、ライトとオルギヴァンナ、約30人の徒弟たちは、アリゾナ州スコッツデールのほとんど何もない砂漠へ、寝袋と簡素なキャンプ道具を持って入った。まず土地を片づけ、仮設の小屋をつくる。そこからタリアセン・ウェストが始まった。
ライトは若い徒弟たちと、住む場所自体を建てながら冬を過ごす仕組みをつくった。現地の石を壁に使い、強い日差しを避けながらも砂漠の光を室内へ引き込み、毎年戻るたびに変更した。ウィスコンシンのタリアセンとアリゾナのタリアセン・ウェストを季節ごとに往復する生活が、事務所の運営方法そのものになった。
91歳まで仕事をし、最後の美術館は死後に開いた
1943年、76歳のライトに、ヒラ・リーベイから一通の依頼が届く。ソロモン・R・グッゲンハイムの非対象絵画コレクションを収める、新しい美術館をニューヨークにつくってほしいという依頼だった。
計画は16年に及んだ。直線的な展示室を積み重ねるのではなく、中央の吹き抜けを囲む螺旋状の空間を歩きながら作品を見る建物を考える。都市の格子の中に、白い曲線の塊が現れる。若い頃に草原へ長い水平線を伸ばした建築家が、90歳近くでニューヨークに巨大な螺旋を置こうとしていた。
ライトは80代になっても旅をし、講演し、執筆し、グッゲンハイム美術館の工事を見るためニューヨークへ足を運んだ。1959年4月、病気で入院し、4月9日にフェニックスで亡くなる。91歳だった。美術館が開館したのは同年10月21日。ライトも、施主のソロモン・グッゲンハイムも、その完成を見ることはなかった。
2019年、ロビー邸、ユニティ・テンプル、タリアセン、落水荘、ジェイコブス邸、タリアセン・ウェスト、グッゲンハイム美術館など8作品がユネスコ世界遺産に登録された。財団の集計では、ライトは生涯に1114の建築案をつくり、532が実現したという。
ライトの長い生涯で目を引くのは、作品数とともに、仕事を続ける仕組みそのものを何度も組み替えたことだ。22歳の自邸から、91歳まで関わり続けた美術館まで、家族の家を変え、事務所をつくり、農場を仕事場にし、日本で働き、仕事が減れば学校と共同体をつくり、70歳で砂漠へ移った。そのたびに建物だけでなく、建築をつくる生活の側まで組み直している。
その革新性は、雇用関係や家族を壊し、周囲の人々の生活まで自分の構想へ巻き込む強引さと隣り合わせだった。彼が何度も設計し直したのは、建物だけではなく、自分が建築を続けられる世界そのものだった。




