一人の人生を読む
石工の家から、建築へ入る
ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ(Ludwig Mies van der Rohe)は1886年3月27日、ドイツ西部のアーヘンに生まれた。父ミヒャエル・ミースは石工・石工親方だった。のちに鉄とガラスによる精密な建築で知られる人物だが、建築への入口は大学の建築課程ではなく、石や建設に近い実務の側にあった。
10代の終わりにベルリンへ移り、家具・室内設計で知られたブルーノ・パウルのもとで働いた。その後、1908年からペーター・ベーレンスの事務所に入る。1912年に独立し、自分の事務所を構えた。
私生活では1913年にアーダ・ブルーンと結婚し、三人の娘が生まれた。夫婦は1921年までに別居している。ミースが1920年代に建築家として急速に存在感を強めた時期は、家庭生活もまた変化していた時期だった。
建てられない建築も、名声をつくった
第一次世界大戦後のベルリンで、ミースはガラスと鉄を使った高層建築案など、実現しなかった計画も発表した。紙の上の建築を含めて、構造と空間を少ない要素へ整理する方向が強くなっていく。
1920年代にはドイツ工作連盟の活動に関わり、1927年のヴァイセンホーフ・ジードルングを率いた。リリー・ライヒとの共同もこの時期の重要な仕事である。1929年、二人はバルセロナ万国博覧会のドイツ館を設計した。薄い屋根、鋼柱、自由に配置された壁、ガラス、大理石、オニキス。壁で囲んだ箱ではなく、面と柱の関係で空間を連続させた。
現在見られるパビリオンは1929年の建物そのものではない。もとの建物は1930年に解体され、資料調査を経て1983年から再建工事が始まり、1986年に同じ場所で開館した。それでもこの小さな建物は、ミースの建築を説明するとき繰り返し参照される作品になった。
バウハウスを閉じ、52歳でシカゴへ移る
1930年、44歳のミースはバウハウスの第三代校長になった。しかし学校を取り巻く政治環境は急速に悪化し、1933年にバウハウスは閉鎖された。
ミースはその後もしばらくドイツで仕事を続けたが、1938年にアメリカへ移る。52歳だった。シカゴのアーマー工科大学、のちのイリノイ工科大学で建築教育を率い、ここから仕事は別の規模へ移っていく。
イリノイ工科大学でミースは、製図や材料、構法、設計へ進む教育体系を組み立て、同時にキャンパス全体の計画をつくった。クラウン・ホールでは、四本の大きな鉄骨梁を八本の外柱で支え、屋根を吊ることで内部から柱を取り除いた大空間をつくった。教育を行う場所そのものが、構造と空間の考え方を示す建築になった。
ガラスの家と、依頼主との亀裂
1940年代半ば、ミースはシカゴの医師エディス・ファンズワース(Edith Farnsworth)から、週末を過ごすための住宅を依頼された。川沿いの敷地に、床と屋根を地面から浮かせ、外周をほぼ全面ガラスで囲む住宅を設計する。
設計の明快さとは対照的に、工事をめぐる関係は崩れていった。建設費は7万4000ドル以上に達し、当初予算のおよそ倍になった。ミース側は未払い費用を求めて先取特権を申し立て、ファンズワース側は設計上の過失を主張して反訴した。1951年に住宅が完成する頃には、二人は互いを訴え、口をきかない状態になっていた。
1951年8月26日、エディス・ファンズワースに訴状が送達された。その数週間後、『アーキテクチュラル・フォーラム』誌は完成した住宅を紹介する。ナショナル・トラストの記録によれば、誌面ではまず「ミース・ファン・デル・ローエの家」として提示され、その後にファンズワースの名が添えられた。
白い鉄骨とガラスの住宅は、のちに近代建築の代表作として広く知られる。一方、その家を依頼し、費用を払い、長く使った人物との関係は、完成時点ですでに壊れていた。現在、この建物を管理するナショナル・トラストは「エディス・ファンズワース邸」という名称を用い、建築家だけでなく依頼主自身の人生と役割も語り直している。
「少ない」建築を成立させるもの
ミースの建築は「より少なく、より豊かに」という言葉とともに語られることが多い。実際の建物を見ると、その「少なさ」は材料や構造を粗く減らすこととは違う。クラウン・ホールでは内部を空けるために大梁と外柱が必要になり、バルセロナ・パビリオンでは壁の数が少ない代わりに、石、ガラス、鋼の位置関係が精密に組み立てられている。
ニューヨークのシーグラム・ビルディングでは建物を街路から後退させ、前面に広場を確保した。ベルリンの新国立美術館では、大きな屋根とガラスの外周によって上階の展示空間をつくった。外から単純に見える形ほど、その形を成立させる構造と細部の判断が増えていく。
ファンズワース邸の訴訟は、建築の秩序と、そこで暮らす人との関係が同じものではないことも残した。代表作の完成と依頼主との決裂は、別々の物語ではなく、同じ住宅の歴史の中にある。
83歳まで続いた仕事
ミースは1958年までイリノイ工科大学の建築教育を率いた。その後も設計活動を続け、シーグラム・ビルディング、新国立美術館など晩年の主要作が完成していく。
1969年8月17日、ミースはシカゴで83歳の生涯を閉じた。残された建築は非常に明快に見えるが、その人生には、家族との別居、共同者との仕事、学校の閉鎖、50代での移住、依頼主との訴訟といった切断がいくつもある。
死後、ミースの建築は保存・再建され、イリノイ工科大学やバルセロナの財団を通じて繰り返し研究されている。同時に、ファンズワース邸のように、かつて建築家の名を中心に語られた作品を、依頼主や使い手の側から読み直す動きも続いている。整えられた空間は、完成後も一つの意味に固定されず、そこに関わった人々の記録とともに読み直されている。




