一人の人生を読む
建築家の父と、芸術家の母の家に生まれる
エーロ・サーリネンは1910年、フィンランドに生まれた。父エリエルはすでに知られた建築家で、母ローヤも彫刻、織物、写真、建築模型に関わる芸術家だった。
1923年、一家はアメリカへ移住する。父はミシガン州クランブルックの教育と設計を担い、家族の周囲には建築家、デザイナー、芸術家が集まった。設計は「父の職業」ではなく、家庭の中心にある文化そのものだった。
その環境は豊かだったが、子どもにとって軽いものではなかった。後年、エーロの娘スーザンは、サーリネン家の名声の中で育つことには「優れていなければならない」という圧力があったと振り返っている。
エーロはパリで彫刻を学んだ後、イェール大学で建築へ進んだ。1936年にはクランブルックへ戻り、父の事務所で働き始める。世界的な建築家の息子として、自分の仕事を始めた。
最初の妻リリアンも、制作する側の人だった
クランブルックで、エーロは彫刻家リリアン・スワンと出会う。二人は1939年に結婚した。
リリアン自身も彫刻家として活動し、エーロの設計グループにも関わった。ゲートウェイ・アーチにつながる記念施設計画にも参加している。二人には息子エリックと娘スーザンが生まれた。
その一方、家庭生活は安定していたわけではない。スーザンの回想では、母リリアンは結核のため約2年間サナトリウムに入り、父エーロは仕事中心の生活をしていた。スーザンは後年、「父はいつも事務所にいて、自分たちは家にいた」という趣旨の記憶を語っている。
建築と芸術に囲まれた家であっても、子どもにとっては両親が不在になる時間があった。
父の事務所で働きながら、自分の名前を得る
エーロは父と働きながら、チャールズ・イームズやフローレンス・ノールらとも家具を研究した。1940年にはイームズとの成形合板家具でニューヨーク近代美術館の競技に入賞する。
1947年に始まったセントルイスの記念施設競技では、応募案は匿名番号で審査された。サーリネンの案は144番だった。国立公園局に残る審査記録では、第一段階で6票を得て最終5案へ進み、1948年に当選した。
1950年、父エリエルが亡くなる。エーロは40歳で事務所を引き継いだ。長く「エリエル・サーリネンの息子」として働いてきた人物が、ここから自分の名で大きな仕事を背負うことになる。
結婚が崩れていく過程まで、手紙が残っている
エーロとリリアンの結婚は次第に崩れていった。
スミソニアンのアーカイブには、エーロが最初の結婚の終わりについて詳しく書いた私信が残る。その一部は精神療法との関連で書かれたものだと整理されている。手紙には、彼が結婚の破綻を自分の内面の問題としても言葉にしようとしていた痕跡がある。
1953年、ニューヨーク・タイムズの美術・建築批評家アライン・バーンスタイン・ラウチハイムがエーロを取材した。二人はその後、恋愛関係になる。同じ年、エーロはリリアンとの離婚を進め、アラインへ離婚条件や慰謝料について説明する手紙も残している。
12月、エーロとアラインは結婚した。翌年、息子イームズが生まれる。
再婚相手も、仕事の外側にはいなかった
アラインは結婚前から批評家・ジャーナリストとして活動し、結婚後もその仕事を続けた。
1954年からはエーロ・サーリネン・アンド・アソシエーツの情報部門を担い、事務所の仕事を外へ伝える役割を持った。エーロの死後には『エーロ・サーリネン、その仕事について』(Eero Saarinen on His Work)を編集している。
最初の妻リリアンは彫刻家として設計に関わり、二番目の妻アラインは批評家・編集者として事務所に関わった。エーロの私生活と仕事は、二つの結婚のどちらでもはっきり分かれていない。
子どもから見ると、父は「いつも仕事をしていた」
エーロが建築家として最も忙しくなった1950年代、ゼネラル・モーターズ技術センター、大学施設、空港、記念碑など巨大な仕事が重なった。
一方で、子どもたちは別のエーロを見ていた。
娘スーザンは、兄エリックと父の関係が「非常に難しかった」と後年語っている。エリック自身も、父は家庭より仕事を優先したと感じていたこと、両親の離婚に長く怒りを抱えていたことを振り返った。
これは「仕事人間だった」という一言では軽すぎる。エーロ自身も、偉大な建築家である父エリエルの環境から自分の仕事をつくろうとした。そのエーロが、自分の子どもにとっては、仕事の中に消えていく父になっていた。
父から独立することと、父として存在することは、彼の人生では同じようには成功しなかった。
建物ごとに形を変えた時期は、家庭が崩れた時期でもある
エーロの建築は、一つの様式では説明しにくい。ゼネラル・モーターズ技術センターは精密なガラスと金属のキャンパスで、トランス・ワールド航空ターミナルは大きな曲面を使い、ダレス国際空港は長く反った屋根を持つ。
家具でも、包み込む子宮椅子と一本脚のチューリップ椅子は似ていない。彼は用途や場所ごとに別の答えを探した。
この最も多産だった時期は、最初の結婚が崩れ、子どもとの関係が難しくなり、再婚と新しい家庭が始まった時期でもある。仕事の拡大と家庭の安定は、同じ方向には進んでいない。
51歳で突然終わる
1961年、エーロは脳腫瘍の手術を受け、その後51歳で亡くなった。
まだ完成していない仕事がいくつも残った。トランス・ワールド航空ターミナルとダレス国際空港は翌1962年、ゲートウェイ・アーチは1965年に完成する。現在サーリネンの代表作として並ぶ建物の一部を、本人は完成した姿で見ることができなかった。
死後、アラインは彼の仕事を編集し、外へ伝えた。子どもたちもそれぞれ別の仕方で父へ戻っていく。
映像作家になったエリックは、父の建築を追うドキュメンタリー制作に関わった。彼は後年、建物を見直す過程で父への理解が変わったと語っている。スーザンもまた、父と母、家族の名声、子ども時代の不在について公に話すようになった。
父の名声の中で育った息子は、自分の名で大きな仕事を得た。その一方で、二つの結婚と三人の子どもの間には、離婚、怒り、不在、再婚後の新しい家庭が残った。
建物ごとに別の答えを探した人の私生活は、きれいな一つの答えにはまとまらなかった。




