一人の人生を読む
23歳、18家族の教会から始まる
ラインホルド・ニーバー(Reinhold Niebuhr)は1892年6月21日、アメリカ・ミズーリ州ライトシティに生まれた。父グスタフはドイツ系移民の流れをくむプロテスタント牧師で、母リディアとともに家庭を支えた。家ではドイツ語が日常的に使われ、宗教と読書は特別な活動というより生活の一部だった。
ニーバーも父と同じく神学の道へ進んだ。エルムハースト・カレッジ(Elmhurst College)、エデン神学校(Eden Theological Seminary)を経て、イェール大学神学校(Yale Divinity School)で学ぶ。1915年、23歳でデトロイトのベテル福音教会(Bethel Evangelical Church)の牧師になった。
赴任したころの教会は、本人の手記によれば18家族の小さな共同体だった。ニーバーは信徒の家を訪ねるにもためらいがあり、家の前を何度か通り過ぎてからようやく入ることがあったという。毎週説教をしなければならないのに、神学校で用意した考えをすぐに使い果たしたとも書いている。
若い牧師にとって、教会は抽象的な「宗教」の場ではなかった。病床へ聖餐を届け、献金や自分の給料を考え、結婚式の謝礼を受け取るべきか迷い、人の家へ足を運ぶ。自分より長く生きてきた信徒に、人生や犠牲について語ることの居心地の悪さもあった。後年の政治倫理へつながる思考は、まずこうした日々の牧会の中で育っていった。
工場の熱の中で、説教の届かない場所を見る
1910年代から20年代のデトロイトは、自動車産業によって急成長していた。教会も町とともに大きくなったが、ニーバーの関心は教会内部だけには収まらなくなった。労働争議、失業、黒人住民が直面する住宅や雇用の問題が、牧師の仕事のすぐ外側にあったからである。
1925年、ニーバーは大規模な自動車工場を見学した。本人の手記では工場名を挙げていない。彼が歩いたのは鋳造工程を含む工場で、そこでは激しい熱の中で人々が働いていた。ニーバーは、安く大量に作られる製品の背後に、疲れ切った身体があることを記した。
この訪問以前から、ニーバーは労働問題と教会の限界について書き続けていた。工場見学は、すでに続いていた問いの中で、説教が扱う「善い行い」と巨大な産業組織が人を働かせる仕組みとの距離を、身体的な労働条件として見た経験だった。
1927年の手記には、病気で失業している50代半ばほどの男性を訪ねた記録もある。ニーバーは、近代的な工場が年を取った労働者を必要としなくなる現実を書き、自分が仕事を探してみると約束した。手記は、その後この男性に仕事が見つかったかどうかまでは記していない。
同じころ、ニーバーはデトロイトの人種問題を調べる市民活動にも関わった。南部から移住してきた黒人住民の過密で危険な住宅、雇用差別、警察の扱いなどが調査の対象になった。彼は早い時期から人種的不公正を見ていた。一方、後年の思想では人種支配が十分に中心化されなかったとする批判が残る。このずれは、のちにキングとの比較でも浮かび上がる。
「善い人」を増やすだけでは足りない
1928年、35歳のニーバーは13年間務めた教会を離れ、ニューヨークのユニオン神学校(Union Theological Seminary)へ移った。牧師から教師へ職業を変えたが、デトロイトで抱えた問題を置いてきたわけではなかった。
翌1929年、牧会時代の手記をまとめた『飼いならされた皮肉屋のノート』(Leaves from the Notebook of a Tamed Cynic、邦訳未刊・仮訳)を刊行する。そこには教会への批判だけでなく、自分自身への疑いも繰り返し出てくる。理想を語ることはできる。だが、その理想を工場、労働市場、人種関係、都市政治の中でどう働かせるのかは、別の問題だった。
1932年、39歳で『道徳的人間と非道徳的社会』を刊行した。題名が示すように、ニーバーが問題にしたのは、個人と集団では道徳の働き方が同じではないということだった。一人の人間なら、相手の立場を想像したり、自分の利益を譲ったりすることがある。ところが階級、企業、人種集団、国家のような大きな集団になると、利害と権力が前面に出やすい。
ニーバーにとって、善意を社会へ持ち込むには、説得だけでは動かない権力関係を扱う必要があった。正義は純粋な心だけでは実現せず、交渉、組織、圧力、場合によっては強制力まで含む政治の問題になる。
ここから、後に「キリスト教的現実主義」と呼ばれる立場が形になっていく。現実を見ることは、いつも同じ政治的結論を出すことではなかった。
平和主義から離れる
1930年代初めのニーバーは、キリスト教平和主義の運動に深く関わっていた。戦争を拒み、非暴力によって社会を変えたいという願いは、彼にとって遠いものではなかった。
それでも1930年代、ファシズムが拡大すると、厳格な平和主義から離れていく。組織された暴力が人々を支配しているとき、それに対して一切の強制力を使わないことは、本当に被害を受ける側を守ることになるのか。ニーバーはこの問題を避けられなくなった。
平和の価値を保ちながら、暴力を拒否するだけでは政治的責任を果たせない場合がある、と考えるようになった。力を使えば、その力は腐敗するかもしれない。使わなければ、別の力が人を傷つけるかもしれない。そのどちらからも完全には逃げられないという緊張が、ニーバーの政治倫理を特徴づけていった。
1941年には雑誌『キリスト教と危機』(Christianity and Crisis、誌名仮訳)の創刊に関わり、戦争、民主主義、国際政治について発言した。1947年には自由主義系政治団体「民主行動のためのアメリカ人(Americans for Democratic Action)」の創設にも加わった。神学校で教えながら、政治組織や運動にも直接関わったのである。
正しさを疑う現実主義
第二次世界大戦後、アメリカは世界的な大国になった。ニーバーは共産主義に批判的で、西側民主主義を守る必要を認めていた。しかし同時に、自国が力を持つほど「自分たちは正義の側だから、自分たちの力も正しい」と思いやすくなることを警戒した。
1952年に刊行した『アメリカ史のアイロニー』では、国家が自分自身を無垢な存在として理解する危険を論じている。人間も国家も、自分の利害を道徳的な使命として語ることができる。ニーバーの現実主義は、敵の危険だけでなく、自分たちの自己欺瞞も政治判断の対象に置いた。
ただし、その批判の鋭さがあらゆる問題に同じように向けられたわけではない。デトロイト時代には人種問題の調査に加わり、後には公民権運動を支持した。それでも近年の研究では、ニーバーのアメリカ理解において人種支配は十分に中心化されず、変化の速度についても漸進的な姿勢が残ったと指摘されている。
この点を最もよく照らす人物の一人が、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)である。キングは若いころからニーバーを読み、人間の善意だけを頼りにしない権力理解から多くを学んだ。一方で、非暴力についてはニーバーと同じ結論を取らなかった。キングにとって非暴力は、現実を見ない純粋主義ではなく、集団的な力を生み出しながら相手を破壊しない政治的実践になりうるものだった。
キングはニーバーの権力理解を使いながら、その現実主義が十分に捉えなかった非暴力の政治的可能性を別の現場で示していった。
ウルスラと、動き続ける生活
1931年、ニーバーはウルスラ・ケッペル=コンプトン(Ursula Keppel-Compton)と結婚した。二人にはクリストファーとエリザベスという子どもが生まれた。ウルスラ自身も神学を学び、バーナード・カレッジ(Barnard College)で教えた人物だった。
ニーバーは神学校で教えながら、説教し、講演し、雑誌へ書き、政治運動に関わった。同時代の紹介記事からも、移動と仕事の多い生活が見える。夏には一家でマサチューセッツ州ヒース周辺で過ごすこともあった。
世界中に広まった「平静の祈り」も、ニーバーの名と強く結びついている。娘エリザベス・シフトンは、1943年にヒースで父がこの祈りを書いたという家族の記憶を伝えた。しかし後の文献調査では、1930年代の印刷物にすでに祈りの異版が現れ、1937年にはニーバーへ帰属させる記録も見つかった。文献研究者フレッド・シャピロ(Fred R. Shapiro)は、当初の疑念を撤回し、ニーバーが作者であることを高い確度で支持するに至っている。ただし、「1943年に初めて作られた」とまで単純には言えない。
1952年、身体の自由が狭まる
1952年、59歳のニーバーは脳卒中に倒れた。本人は後に、左半身が不自由になったと書いている。妻ウルスラの回想では、その後も何度か脳卒中が続き、健康は弱まり、以前のように自由に旅行することが難しくなった。
それまでのニーバーは、教壇、説教壇、編集、講演、政治活動を行き来する人物だった。1952年以後、仕事は続いたが、身体が許す範囲を考えながら進めるものになった。
ここでウルスラの役割も変わる。家族文書を調べた研究者リベカ・マイルズ(Rebekah Miles)は、晩年の一部の文章ではウルスラの編集と知的関与が非常に大きく、共著と呼べるほどだったと論じている。晩年の執筆では、ウルスラが編集者・知的協力者として実作業に深く入っていたことを示す評価である。
晩年の親しい友人には、ユダヤ思想家アブラハム・ヨシュア・ヘシェル(Abraham Joshua Heschel)がいた。ウルスラは、ヘシェルが最後の十数年にわたる大切な友人だったと回想している。社会の力を論じ続けた人の晩年は、同時に、身体の自由が減り、家族や友人との関係に支えられる時間でもあった。
キングから返ってきた問い
1965年、公民権運動がアラバマ州セルマで大きな局面を迎えたとき、キングはニーバーに行動への参加を求めた。ニーバーは重い脳卒中のため参加できないと答えながら、運動への支持を伝えた。
デトロイトで人種問題を調べた若い牧師から、セルマへ身体的に行けない72歳まで、半世紀が過ぎていた。その間にニーバーは、力のない道徳が社会を変えにくいことを繰り返し論じた。キングはその洞察を受け取りながら、非暴力という方法によって、道徳的訴えと集団的な政治力を結びつけようとした。
ニーバーは非暴力運動の可能性を過小評価した部分があり、キングは人間や集団の自己正当化についてニーバーから学んだ。キングの非暴力実践は、ニーバーから受け取った問いを別の政治技法へ組み替え、その不足も露わにした。
ベトナム戦争をめぐっても、ニーバーはやがてアメリカの介入を批判し、キングが戦争に反対して発言する権利を擁護した。ファシズムへの抵抗では武力行使を認め、ベトナムではアメリカ自身の介入を批判する。同じ現実主義から、異なる政治判断が生まれた。
変えられるものと、変えられないもの
1971年6月1日、ニーバーはマサチューセッツ州ストックブリッジで死去した。78歳だった。アメリカ議会でも追悼され、神学だけでなく政治思想や公共倫理に大きな影響を残した人物として記憶された。図書館に残された資料には、晩年まで取り組んでいたマルティン・ルターについての仕事の痕跡もある。
ニーバーの名で広まった「平静の祈り」は、変えられないものを受け入れる平静、変えられるものを変える勇気、その二つを見分ける知恵を求める。だが、彼の78年を読むと、その境界がいつも明確だったとは言いにくい。
工場では、個人への説教だけでは変えられない仕組みを見た。ファシズムを前に、暴力を拒むだけでは守れないものがあると考えた。大国になったアメリカには、自分の力を正義と思い込む危険を見た。一方で、人種問題では彼自身の見方に限界が残った。そして晩年には、思想ではなく身体が、自分にできることの範囲を狭めた。
力を使わなければ守れないものがある。同時に、力を使う側は自分を正義そのものと取り違える。ニーバーはこの二つを生涯切り離せなかった。工場、戦争、国家、人種、そして自分の身体へと対象が変わるたび、「何を変え、何を受け入れるか」の境界も引き直された。答えを固定するより、その境界で自分の正しさまで疑い続けることが、彼の現実主義の厄介さだった。




