一人の人生を読む
法律家になるはずだった学生
1483年11月10日、マルティン・ルターはアイスレーベンに生まれた。父ハンスは息子に教育を受けさせ、ルターはマンスフェルト、マクデブルク、アイゼナハの学校を経て、1501年にエアフルト大学へ進んだ。1505年には学芸修士号を得て、父の期待に沿うように法学を学び始める。
しかし、その年に進路を変えた。雷雨に遭った経験を契機として、ルターはアウグスティノ会の修道院へ入ったと伝えられる。有名な逸話には細部の違いがあり、後世の物語が重なっている。確かなのは、法律家への道を歩き始めた21歳の学生が修道士となり、その後の生活を神学へ向けたことである。
1507年に司祭となり、やがてヴィッテンベルクで教えるようになる。1512年、28歳で神学博士となり、聖書学の教授職を担った。宗教改革者として町の外から教会を攻撃したのではない。出発点は、教会の内部で聖書を読み、学生に教える聖職者だった。
1517年、討論のための文書が町を越える
1517年10月31日、ルターは贖宥状をめぐる『九十五箇条の提題』を公表した。米国議会図書館が所蔵する資料では、文書は贖宥を中心とした教会上の問題を討論するための95項目として説明されている。
後世の絵では、ルター自身が教会の扉へ文書を力強く打ちつける場面が描かれる。けれども、その姿には後世の英雄神話が重なっている。当時の大学で討論告知を掲示すること自体は特別な革命行為ではなかった。
むしろ重要なのは、その後である。学内の討論文書が写され、印刷され、町の外へ運ばれた。ルターの議論は贖宥状の扱いから、教皇権、教会、聖礼典、信仰そのものへと広がっていく。本人が書く速度と、印刷物が広がる速度が重なり、論争の規模が急速に変わった。
1521年4月17日と18日、ヴォルムスで返事を迫られる
1521年4月、ルターは皇帝カール5世が開いたヴォルムス帝国議会に召喚された。4月17日、彼の前には自分の著作が並べられ、それらを自分が書いたものと認めるか、そして撤回するかを問われた。ルターは著作が自分のものだとは認めたが、撤回についてはすぐ答えず、考える時間を求めた。一日の猶予が与えられる。
翌18日、再び議会の前に立つ。ルターは自分の著作をいくつかの種類に分けて説明し、すべてをまとめて撤回することを拒んだ。聖書や明白な理性によって誤りを示されない限り、良心に反して撤回することはできない、という趣旨の回答だった。有名な「我ここに立つ」という一句は、最初期の公式記録には確認できず、後世に加わった可能性が高い。
この二日間は、後世の英雄像よりも不確かで具体的である。17日のルターはその場で即答せず、一晩を求めた。18日には、書いたものすべてを同じ扱いにせず、理由を付けて答えた。結果を知っている側から見れば「宗教改革の決定的瞬間」になるが、その場で本人に求められていたのは、目の前の著作を撤回するかどうかという返事だった。
印刷所がなければ、同じ宗教改革にはならなかった
ルターは大量に書いた。説教、論争文書、小冊子、翻訳。だが、それを広げたのは本人の声量ではない。ヴィッテンベルクや周辺の印刷業者が紙へ変え、ルーカス・クラーナハらが図像を与え、読者が買い、回覧し、読み聞かせた。
宗教改革を「一人の偉人が教会へ立ち向かった話」にすると、この仕組みが見えなくなる。16世紀初めには活版印刷がすでに存在し、都市間を本が移動する市場ができていた。ルターはその環境の中で、神学者のラテン語だけでなく、より広い読者へ届くドイツ語を積極的に使った。
言葉の内容と、言葉を運ぶ媒体。その二つが重なったからこそ、論争は大学の内部にとどまらなかった。
聖書を、ドイツ語へ移す
1521年、教会と帝国との対立が深まるなか、ルターはヴァルトブルク城に身を隠した。この時期に新約聖書のドイツ語訳を進め、1522年に刊行する。初版は短期間で売れ、同じ年のうちに次の版が出た。
1534年には旧新約を含む全聖書が刊行された。これはルター一人だけの孤独な作業ではなく、フィリップ・メランヒトンらヴィッテンベルクの学者たちも協力した。117点の木版画を含む豪華な本でもあり、翻訳、研究、印刷、挿絵が一つの製品へ組み合わされていた。
翻訳は単にラテン語をドイツ語へ置き換える作業ではない。誰が読んでも意味が通る言葉を選び、文章のリズムを整える必要がある。その仕事は、聖書を聖職者だけの所有物から突然「解放した」と単純化できるものではないが、ドイツ語圏の多くの読者が聖書本文へ接近する方法を大きく変えた。
元修道士と元修道女が家庭をつくる
1525年6月13日、41歳のルターは元修道女カタリナ・フォン・ボラと結婚した。修道制をめぐる自らの議論が、本人の生活にも及んだ出来事だった。二人の間には3男3女が生まれる。
旧修道院を住居とした家庭には学生や訪問者も集まり、生活と神学上の議論が同じ空間にあった。1529年の『小教理問答』も、信仰を大学の専門用語だけではなく、家庭や教会で学べる形へ整理する仕事だった。
宗教改革は制度の変更だけではない。聖職者の結婚、教育、家庭での信仰実践など、暮らし方にも具体的な変化を生んだ。ルター自身もその変化の中で生きた。
言葉は、善い方向だけへ進まない
ルターの「ことばの力」を語るなら、その暗い側面も同じ文章の中に置かなければならない。
初期のルターは、教会が変わればユダヤ人もキリスト教へ改宗するだろうという期待を持っていた。しかしその期待が実現しないと、態度を大きく硬化させる。1543年の『ユダヤ人と彼らの嘘について』では、ユダヤ人に対する激しい侮辱と排除を主張し、後世にも大きな害を残す文章を書いた。
これは晩年の小さな失言として脇へ置けるものではない。一方で、16世紀の宗教的反ユダヤ主義を、そのまま20世紀の人種主義と同一視することも正確ではない。必要なのは、宗教改革者としての功績を守るために削除することでも、後世の犯罪をすべて彼一人へ遡らせることでもなく、本人が実際に書いた内容をその時代の文脈とともに残すことである。
印刷によって言葉を広く届けることに成功した人物だからこそ、その言葉の攻撃性もまた広く残った。
生まれた町へ戻り、死ぬ
1546年初め、ルターは争いの仲裁のため生まれ故郷のアイスレーベンを訪れていた。2月18日、62歳で死去する。遺体はヴィッテンベルクへ運ばれ、2月22日に城教会へ葬られた。
1517年の一枚の討論文書から約29年。その間にルターは、修道士から教会と対立する改革者となり、翻訳者となり、夫と父になり、大量の著作を残した。彼がすべてを計画して宗教改革を設計したわけではない。論争が広がるたびに次の文章を書き、別の相手と衝突し、制度と生活がその後を追った。
その人生を「勇気ある改革者」で閉じれば分かりやすい。だが、ルターの仕事が示すのは、言葉を人びとの手へ渡すことの大きさと危うさの両方である。読める人を増やす言葉。権威へ問いを投げる言葉。そして、特定の人びとを傷つけ、排除する言葉。同じ人がそれらを書いたという事実まで含めて、宗教改革の一人の人間を見る必要がある。




