一人の人生を読む
医学を始めても、音楽はやめなかった
アルベルト・シュヴァイツァー(Albert Schweitzer)は1875年、アルザスのカイザースベルクに生まれた。
若いころから一つの専門に収まらなかった。ストラスブールで神学と哲学を学び、牧師になり、大学で教え、オルガンを弾き、バッハについて書いた。1900年代初めには、すでに神学者と音楽家として仕事が成立していた。
1896年、21歳のとき、30歳を過ぎたら人間への奉仕に力を使うと決めた。1905年10月、その考えを具体化し、アフリカで医師になるため医学を学ぶと家族や友人へ知らせた。
ここだけを切り取ると、「名声を捨てて医者になった」という物語になる。
実際には、医学を始めてからも神学の本を書き、バッハを研究し、オルガンを弾いた。後には、その演奏会や講演の収入を病院へ送る。
彼の転身は、古い仕事を消すことより、持っている仕事を別の目的へつなぎ直すことだった。
ヘレーネと二人で、1913年にランバレネへ
1912年6月18日、シュヴァイツァーはヘレーネ・ブレスラウ(Helene Bresslau)と結婚した。
ヘレーネにはヘレーネ自身の仕事があった。教師経験と社会福祉活動の後、看護を学び、麻酔と手術補助の訓練を受けていた。1913年、二人はフランス領赤道アフリカのランバレネへ向かう。
4月16日に到着すると、病院活動を始めた。シュヴァイツァーが診察と手術をし、ヘレーネは手術器具を整え、麻酔を管理し、看護をし、後には他のスタッフへ仕事を教えた。
「シュヴァイツァーの病院」という名前は一人の人物を前面に出す。しかし、最初から一人で動いていたわけではない。
1915年、シュヴァイツァーは「生命への畏敬(Ehrfurcht vor dem Leben)」という言葉を記した。生きようとする生命に向き合い、必要でない破壊を避ける。その後、医療だけでなく倫理や平和について考えるときの中心語になっていく。
戦争で病院を離れ、音楽で戻る
第一次世界大戦が始まると、二人はフランス植民地にいるドイツ国籍者になった。
1917年、欧州へ送還され、フランスで抑留された。1919年には娘レーナ(Rhena)が生まれた。ヘレーネはランバレネでの生活と抑留後に健康を悪化させ、後に結核が判明する。家族三人が一つの場所で病院を続ける形は崩れた。
1924年、シュヴァイツァーはランバレネへ戻る。
そこから病院を再建しながら、ヨーロッパではオルガン演奏と講演を続けた。1927年から1930年代にかけて各国を回り、病院の資金を集める。音楽は医学以前の人生に置いてきたものではなかった。病院を続けるための仕事にもなった。
やがてランバレネは、国際的な寄付と支援を受ける大きな病院へ成長する。
人道医療の象徴と、植民地の病院
20世紀半ば、シュヴァイツァーは世界で最もよく知られた人道主義者の一人になった。
1952年のノーベル平和賞も、その医療活動と「生命への畏敬」を評価した。病院では長年、多くの患者を治療した。患者が家族とともに滞在できる村落型の形は、現地で治療を続けるうえで意味を持った。
同時に、この病院はフランス植民地支配の中にあった。
近年の医療史研究は、ランバレネを「善意だったから問題はない」とも、「植民地だったから人道医療ではない」とも整理していない。
歴史家ルース・ハリス(Ruth Harris)は、シュヴァイツァーが長年アフリカで働きながら現地語を学ばず、病院が戦間期により階層的になったことを指摘する。2024年に刊行された病院の批判史も、人道的な支援プロジェクトでありながら、植民地主義的な態度に絡み取られていたと評価している。
同じ病院の中に、治療を受けた人びと、そこで働いた人びと、国際的な支援者、そして植民地社会の力の差があった。
1957年4月23日、病院の外へ声を広げる
1953年、シュヴァイツァーは前年の1952年ノーベル平和賞を受けた。世界的な知名度はさらに大きくなった。
1957年4月23日、その知名度を別の問題に使う。
ラジオ・オスロ(Radio Oslo)を通じ、核実験と放射性降下物の危険について世界へアピールした。これは彼の最初の大きな反核声明となった。
放送スタジオの様子や、話す直前に何を考えていたかは、今回確認した資料からは分からない。
分かるのは、ランバレネで患者の生命を扱ってきた82歳の人物が、「生命への畏敬」という倫理を核時代の問題へ伸ばし、公の場で発言したことだ。
病院を建てることと、核実験について話すことは同じ仕事ではない。それでも彼の中では、生命を不必要に傷つけないという問いでつながっていた。
「偉人」の像が変わっても、問いは残る
ヘレーネは1957年6月1日に亡くなった。シュヴァイツァーはその後もランバレネへ渡り、1959年が最後の渡航となった。
1965年9月4日、90歳でランバレネに死去し、翌日ヘレーネの墓の隣に葬られた。
生前のシュヴァイツァーは、ときに「聖人」のように語られた。現在、その像はそのままでは残っていない。病院が植民地主義とどう関わったか、現地の患者やスタッフは何を経験したかという研究が進み、人物像は複雑になった。
だからといって、若い神学者が医学を学び、半世紀にわたって病院を維持し、音楽と著作を資金に変え、晩年には核実験へ声を上げた行動が消えるわけでもない。
評価が変わることと、起きたことを消すことは違う。
シュヴァイツァーの生涯を読むと、「善い人だったか、悪い人だったか」よりも長く残る問いが見えてくる。
誰かを助けようとする行為は、その時代の制度や力関係から自由ではない。それでも、その不完全な場所で何をするのか。
「生命への畏敬」という言葉は、称号ではなく、その問いを何度も引き受け直すための言葉として読むほうが、この人生には近い。




