一人の人生を読む
城を離れようとした当主
1556年、越後の武将・長尾景虎は、国を治める立場から退こうとした。のちに上杉謙信と呼ばれる男である。まだ二十代半ばだった。
景虎は少年時代を寺で過ごし、仏教に親しんだ。このころ出家を望み、師の天室光育に宛てて長い書状を送っている。
そのころ越後では、家臣の大熊朝秀が反抗を起こしていた。景虎は隠退を取りやめ、春日山城へ戻って家臣との争いに向き合うことになった。
その後の謙信は、武田信玄と川中島で戦い、関東にも兵を進めた。遠征では家臣を率い、越後に残る者にも国元を任せる必要があった。戦場から離れたところでも、領主の仕事は続いていた。
長尾家の弟が、国を預かる
1530年、景虎は越後の守護代を務めた長尾為景の子として生まれた。室町幕府の時代、国には守護と呼ばれる武家の役職があったが、戦国時代にはそれぞれの土地で力を持つ武士が、実際の政治や軍事を担うことも多かった。長尾家もその一つである。
景虎が幼いころ、長尾家の家督は兄の晴景が継いだ。景虎は林泉寺で学んだ後、十代になると栃尾に拠点を移し、越後中部の争いに関わった。領主の家に生まれた弟が、寺から城へ出ていったのである。
1548年、兄晴景は景虎に家督を譲った。景虎はまだ十代だった。父から兄へ、兄から弟へと当主が交代しても、越後の武士たちが一斉に同じ判断をするわけではない。各地には、それぞれの土地と家を守ってきた国人領主がいた。景虎は彼らを味方につけ、時には反抗に対処しながら、長尾家を率いていくことになった。
関東管領の名を受け取る
景虎が越後の外へ戦いを広げた背景には、助けを求めて訪れる人々もいた。武田信玄によって領地を奪われた信濃の武士たちは、越後の景虎を頼った。一方、関東で北条氏に追われた上杉憲政も、1552年に越後へ逃れてきた。
上杉憲政は関東管領だった。関東管領とは、室町幕府の仕組みの中で関東の政治を支えてきた役職である。だが、役職の名前が残っていても、戦国の関東を実際に動かす力は各地の武将に分かれていた。
1561年、景虎は上杉家の名と関東管領の立場を引き継ぐ。同じ年、北条氏の小田原城を攻めた。しかし、城を落とすことはできず、軍は引き揚げた。武将たちが一時は味方についても、彼が越後へ帰った後まで、その関係が続くとは限らない。関東の秩序を引き受けるという名目と、関東を実際に治めることの間には、大きな距離があった。
関東遠征では、住民も被害を受けた。厚木市郷土博物館は、1561年に進軍した上杉方が、現在の厚木市域にあった寺院や民家を焼いたと記している。そこで暮らす人々にとっては、家や寺を失う戦いだった。
その一方、上越市に伝わる謙信の書状には、遠征中に越後の蔵田五郎左衛門へ、敵の放火に注意し、出火した場合は当人と町の責任者を処罰するよう命じたものがある。作成年は不明だが、1561年ごろと考えられている。
関東では上杉方の軍勢が寺や民家を焼き、越後では放火を警戒するよう命じる。謙信は遠征中も、留守にした領国へ指示を送り続けた。
川中島で戦い、仏に祈る
景虎が長く争った相手の一人は、甲斐の武田信玄だった。信玄が信濃で勢力を広げると、越後に支援を求める人が現れた。両軍は川中島周辺で度々向き合い、1561年には激しい戦いが起きた。
謙信が馬で信玄の本陣へ切り込み、刀を振るったという話も後世に伝わる。戦場の二人の姿は絵や物語になった。一騎打ちの細部は、史実として確かめられたものではなく、後世に語り継がれた伝承に属する。
戦に向かう謙信の行動には、祈りも伴っていた。彼は毘沙門天を篤く信じ、高野山や密教とも関わった。米沢市上杉博物館が紹介する史料には、川中島や北陸への出兵に関わって記された願文がある。武将は戦いに臨みながら、神仏に願いを託していた。
出家を望んだかつての景虎は、祈りを捨てることなく、戦いに出続けた。
広がる戦場と、二人の養子
晩年の謙信は、信濃や関東だけでなく、越中や能登など北陸の争いにも深く関わった。織田信長の勢力とも対立し、遠征は続いていた。
広い地域で戦い続けるには、故郷で支える家臣の存在が欠かせない。越後の新発田氏はもともと独立性の強い武士の家だったが、謙信の時代には彼に従い、その当主の一人・新発田長敦は軍事だけでなく内政や外交にも携わった。謙信が遠征を続けられたのは、長敦らが領国の政務を支えていたからでもあった。
家の将来を考えるとき、問題はもっと身近なところにあった。謙信には実子がなく、二人の養子がいた。一人は姉の子で、越後の長尾家につながる景勝。もう一人は、かつて敵対し、のちに和睦した関東の北条氏から迎えた景虎である。
景虎という名前は、謙信自身が若いころ名乗っていた名でもあった。二人の養子は、それぞれ別の家のつながりを上杉家へ持ち込んだ。誰が次に家を継ぐかは、家族のことでもあり、越後と周辺諸国の政治のことでもあった。
1578年、謙信は関東への出陣を控えた春日山城で急死した。満四十八歳、数え年では四十九歳だった。二人の養子のうち誰が後継者になるのか、明確に決まっていなかった。
後に残ったもの
謙信が亡くなると、景勝と景虎は家督を争い、越後の家臣たちも二つに割れた。御館の乱と呼ばれる戦いである。生前は一人の当主に従っていた武士や一族が、死後には別々の側についた。
時代が下り、上杉家は米沢へ移る。謙信自身が米沢へ行ったことはない。それでも江戸時代の米沢城には、藩主が暮らす場所と並んで、謙信を祀る御堂が設けられた。かつて自ら祈った武将が、今度は子孫たちから祈られる存在になった。




