一人の人生を読む
年給四二〇〇ドルの手紙
1954年4月、25歳のマーティン・ルーサー・キング・ジュニア(Martin Luther King Jr.)は、ボストンからアラバマ州モンゴメリーの教会へ手紙を出した。デクスター・アベニュー・バプテスト教会(Dexter Avenue Baptist Church)の牧師への就任を受け入れる返事だったが、そこには条件が三つ並んでいた。牧師館には家具を備えてほしいこと。ボストン大学(Boston University)で進めている博士論文を仕上げるため、時間と旅費を認めてほしいこと。そして年給四二〇〇ドルを受け入れるが、教会の発展に応じて増額を期待することだった。
前年に結婚した妻コレッタ・スコット・キング(Coretta Scott King)と、これから暮らす町を決めなければならなかった。キングはまだ全国の運動を率いる人物ではない。大学院の研究を終わらせ、教会の仕事を引き受けようとする若い牧師だった。
彼は1929年、ジョージア州アトランタに生まれた。父も牧師で、家庭には教会の生活が深く入り込んでいた。キングは後年、子どものころ白人の友人と遊べなくなった経験を書き残している。相手の父親が交友を禁じたためだった。祖母の死は、宗教への問いを強めた出来事としても回想した。十五歳でモアハウス大学(Morehouse College)に進み、ペンシルベニア州のクローザー神学校(Crozer Theological Seminary)、ボストン大学で学んだ。信仰を持つ家庭に育ったからといって、聖書や教会について疑わずにいたわけではない。学業のなかで、受け継いだ教えを考え直していた。
一日の不乗車が一年を越える
モンゴメリーのバスでは、黒人乗客は白人に席を譲ることも求められる、差別的な決まりに従わされていた。抗議は以前から続いていた。1955年12月、ローザ・パークス(Rosa Parks)が白人に席を譲らなかったために逮捕されると、ジョー・アン・ロビンソン(Jo Ann Robinson)たち女性政治評議会(Women’s Political Council)が、12月5日の月曜日はバスに乗らないよう呼びかける印刷物を作った。キングら教会関係者も、その呼びかけと集会の準備に加わった。
最初に計画されたのは一日の不乗車だった。だが参加が広がり、教会と地域組織はモンゴメリー改善協会(Montgomery Improvement Association)をつくった。キングが会長に選ばれる。モンゴメリーに着任して一年あまりの、まだ26歳の牧師だった。人々は徒歩で通い、車の乗り合いを工夫しながら抗議を続けた。市民の生活の一部になった運動を、キングは説教と演説で支えるようになった。
一年以上の不乗車の末、バスの人種分離は連邦司法の判断を受けて撤廃された。勝利のあと、キングは全国で名前を知られるようになった。ただ、彼が運動の壇上に立つより前に、交通差別を調べ、申し入れ、印刷物を作り、参加者を集めていた人々がいた。その共同作業の上に、若い牧師の新しい仕事が始まったのである。
家の前に集まった人々
1956年1月30日の午後9時15分ごろ、キングが第一バプテスト教会の大衆集会で話している間に、自宅が爆破された。家には妻コレッタと生まれたばかりの長女ヨランダがいたが、二人にけがはなかった。知らせを受けて帰宅したキングは、家の前に集まった人々に暴力で応じないよう呼びかけた。その夜、父や親族たちが駆けつけ、一家でアトランタに戻るよう説得したが、キングはモンゴメリーに残った。
非暴力とは、身の安全を保証してくれる方法ではなかった。白人からの攻撃を受けても反撃によって運動を壊さず、差別を続ける相手との関係を変えようとする考え方である。キングの信仰はその基礎にあり、インド独立運動を率いたマハトマ・ガンディー(Mahatma Gandhi)の実践からも学んだ。だが、この夜には、その選択が家族を危険にさらす現実と切り離せなくなっていた。
キングは牧師の職を辞めずに運動にかかわり続けた。同年の教会年次報告では、説教や地域会合に追われ、信徒への訪問や相談などに十分な時間を割けないと自ら認め、助手の採用を提案している。教会では洗礼や日々の相談も続いていた。全国的な指導者の役割が大きくなる一方で、彼の雇い主はなお、一つの地域にある教会だった。
進まない町にも向き合う
1957年、キングは南部キリスト教指導者会議(Southern Christian Leadership Conference)の結成に加わった。黒人教会のネットワークを通して、各地の運動をつなぐ組織である。1958年にはニューヨークで署名会中に刺され、手術を受けた。それでも各地を移動し、投票の権利や人種隔離の撤廃を訴え続けた。
活動を広げれば、成果が続くわけではなかった。ジョージア州アルバニーでは1961年から、学生非暴力調整委員会(Student Nonviolent Coordinating Committee)などの若い活動家と地元組織が人種差別への抗議を進めていた。キングと南部キリスト教指導者会議も加わったが、大勢が逮捕されても行政側から引き出せた具体的な変化は少なかった。運動の目標を広く掲げることと、当局に特定の譲歩を迫ることの難しさが表れた。キングは地域ごとに異なる相手、仲間、条件のなかで活動を続けた。
1963年にはアラバマ州バーミングハムで、牧師フレッド・シャトルワース(Fred Shuttlesworth)らの地元運動に参加する。人種分離に抗議して投獄されたキングは、運動を性急だと批判する白人聖職者たちに、獄中から返事を書いた。法の改正を待つよう求められても、人々はその間ずっと差別にさらされている。キングは法律を守る義務と、正しくない法律に抗議する責任を、牧師の言葉で論じた。
公民権法ができても終わらない
同じ年の8月、キングはワシントンで開かれた仕事と自由を求める大行進で演説した。『私には夢がある』として知られる演説である。翌1964年には公共施設や雇用での人種差別を禁じる公民権法が成立し、キングはノーベル平和賞を受賞した。運動は連邦法の改正という大きな成果を得た。
1965年には、黒人有権者の登録を妨げる制度と暴力に抗議する運動がアラバマ州セルマで続いた。3月7日、行進者たちは橋の上で州警察に襲われた。先頭にいたのはホージア・ウィリアムズ(Hosea Williams)とジョン・ルイス(John Lewis)で、この日のキングはアトランタにいた。キングはその後、セルマから州都モンゴメリーまでの行進を率いる。同年、投票権法が成立した。
しかし、差別的な法律が改められても、どこに住めるか、どんな仕事に就けるか、家賃や給料で生活できるかという問題は残った。とりわけ北部の都市では、南部のように明文化された人種分離規則を撤廃するだけでは済まない。住宅を借りる際の差別や、貧困地域に閉じ込められる生活を変える必要があった。
家族でシカゴに住む
1966年、キングは妻や子どもたちとともにイリノイ州シカゴの貧しい住宅地へ移った。北部での公正な住宅利用を求める運動に参加するためだった。地元のアルバート・レイビー(Albert Raby)らがすでに準備していた活動に、南部キリスト教指導者会議が合流する。キングは家族の生活の場所そのものを運動の現場へ移した。
シカゴでは住宅所有者や地域住民の反発が強く、抗議行進も敵意にさらされた。市当局との合意は得られたが、住宅差別を直ちに解消するものではなかった。モンゴメリーでバスに乗らないというはっきりした行動から始まった運動は、都市の土地、家賃、雇用、行政の関係に踏み込んでいた。差別を規則から取り除くことと、人が住み働く条件を変えることには、違う難しさがあった。
キングが全国を移動する間、コレッタは四人の子どもを育てながら、歌と朗読を交えた集会で運動資金を集め、平和運動にも参加していた。夫の演説が知られるようになる一方で、彼女にも子育てと運動の仕事があった。
戦争に反対する牧師
キングの発言は、人種差別撤廃を支持する人々の間でも意見が分かれる問題に及んだ。1967年4月4日、ニューヨークのリバーサイド教会(Riverside Church)で、アメリカのベトナム戦争への関与を批判する演説を行った。国外で戦争に巨額の費用が使われる一方、国内では貧困の人々が十分に支えられていない。彼は軍事行動が現地の住民に与える被害も論じた。
発言には厳しい反発があった。公民権運動を支えてきた人々の間には、反戦を打ち出せば協力関係が損なわれるという懸念もあった。それでもキングは、公民権と平和を別々の仕事にはしなかった。牧師として、国家の行為を批判する理由を語り続けた。
同じ年の秋には、雇用や十分な所得を求める貧困者の行進(Poor People’s Campaign)を構想する。参加の対象には黒人だけでなく、さまざまな出自の貧しい人々を含めた。組織内部にも要求が広すぎるという心配があったが、仕事と住まいの保障を求める運動を首都で続ける計画を立てた。ここで扱うのは、法の上での市民の資格に加えて、明日の暮らしを成り立たせる条件だった。
ごみ収集の仕事が止まった町
1968年2月、テネシー州メンフィスで市のごみ収集員エコル・コール(Echol Cole)とロバート・ウォーカー(Robert Walker)が、故障した収集車の事故で亡くなった。事故は、危険な設備や低い賃金に不満を抱いていた黒人清掃員たちの抗議を強めた。約一三〇〇人が仕事を止め、組合の承認、賃金の改善、安全な労働条件を求めた。市議会が組合承認を決議した後も市長が拒み、ストライキは長引いた。
地元の牧師ジェームズ・ローソン(James Lawson)らが労働者を支え、キングもメンフィスへ招かれた。キングが初めて演説に訪れたのは3月18日だった。3月末にはキングが加わった行進で混乱と暴力が起きた。それまで非暴力の行進を組み立ててきた彼にとっても、最後の活動は思いどおりに運ぶものではなかった。キングは再びメンフィスに戻り、4月3日の夜、清掃員たちを前に最後の演説をした。
翌4月4日、宿泊していたロレイン・モーテル(Lorraine Motel)のバルコニーで撃たれ、39歳で亡くなった。
4月8日にはコレッタ・スコット・キングが清掃員たちの行進の先頭に立ち、16日に市と組合の間で合意が成立した。キングの同僚たちは、彼が構想した貧困者の行進も進めた。キングが亡くなったとき、彼が支援していた人々の要求はまだ実現していなかった。バスの座席に始まった公の活動の最後には、ごみを集める仕事をする人々の賃金と安全があった。




